(旧サイトから転載)
こんばんは。
そろそろ各地、桜の季節だね。夜半ってくらいだから、僕にとって桜は専ら夜桜なんだけど、夜桜を普通に愉しむようになったのはいつ頃からだったんだろう?かつては夜の桜といったら、いつ散るかわからないということで、未来への不安の象徴でもあったわけで、ちょっと違うが孟浩然の「春眠暁を覚えず」の意なんかにも通じるわけだけれど、近頃はそういう無常を観ずる美意識みたいなものは後退してしまったのかと思うところもあったりして。そうでなくても、微妙な美的ニュアンスは消費社会の記号によって塗りつぶされきってしまっているんだから、桜だっていまや宴会の口実に過ぎないのかもしれないけど。…いや、昔からか。「花より団子」ってくらいだし。
まあいいや。
今日は、正直書こうかどうか迷ったんだけど、ガンダムの話。考えてみれば、この間あれだけ書いておきながら、僕がガンダムシリーズの諸作品についてどういう感想を持っているかとか、どう「読んで」いるかとか、そういうことを全く書いていなかったからね。一度このトピックスを扱いはじめてしまった以上、書く義理はない等とも言っていられないし、書いとかなくてまた
妙な誤読をされても、いちいち訂正するのが面倒だし。それに、普通人が読みたがるのはこういう話だとも思うので、メモついでにいちど書いておこうかと思った次第。
あと一応、全部を網羅できるわけでもないので、いくつかピックアップして個別に書くことにすることも断っておくよ。それと、書き込み等をしたい人は、以下の先行記事をちゃんと読んでから書いてね。
◎先行記事
共同体の排他性ーガンダム好き「に」共通する論調?
<ゆりかご=世界>なニンゲンたち
ちゃんと読者をするということについて
じゃあ、以下本編。
【機動戦士ガンダム(ファースト)】
まずは順番から言ってファーストから。シリーズの原点であり、世界観というものの持つ強い説得力を証立てるなど、史上の画期的な意義は皆よくご存じのところだとおもうのであまりそこには突っ込まないけれど、ともあれ功罪相半ばするガンダムの特異性はやはりここに帰するんだろうなとは思う。
これをNo.1とする人は多いはずだけど、僕自身、情報量とリーダビリティとか、ブロットの密度とか、やはり一番バランスが取れていると言うべきかなとも思う。
『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』ではないけど、パイロット”徒弟”たるアムロ・レイのビルトゥングス・ロマンとしてよくできていて、子供にはまだ見ぬ「社会」を開示し、大人には昔日の記憶を喚起し思考を触発する……というケースは稀かもしれないが、ともかく身に迫るものは多々あるわけだ。その点流石の出来だと思うんだけど、一方でこれはシリーズがまだ存在していない(!)時期の作品なだけあって、作家性の表れという意味においては最も薄い。たとえば「ニュータイプ」という言葉は登場するが、この言葉が主人公の特権的差別化という機能的意義を越えた何らかの意味を帯びてくるのは、やはり後続の作品から遡及的にこの作品の、とりわけララァ・スンなどに言及されて以降というべきだろう。
ま、ゲーテと比較してどうこう言うのはいささかアンフェア気味かもしれないんだけど、世の中周到なビルトゥングス・ロマンは文芸方面に沢山あるわけで、アムロの成長を見事に描ききっているからといって特別優れた作品だということにはならないんだよね。そうなると、やっぱ作家性ってことになってくるわけだけれど、作家的にもこの時点でそんな冒険ができるってもんでもないし、こんなところじゃないですかと。
つってもやっぱ、シリーズ的に「青少年期」なだけあって、ブライトとかミライとかセイラとか、家族的にコトッと嵌ってるんだよね。
【機動戦士Ζガンダム】
シリーズ最高峰との呼び声も高い、最も長大で、最も密度が濃く、そして最も複雑な作品だね。これで「ついていけなくなった」という人を僕は何人も知っているけど、無理もないかもね。富野由悠季は劇場版が上がった時期のインタビューでも「あと四十年は持つ物語だ」と言っていたけど、氏の偽リアル・ポリティックス的想像力がここでは完全に突き抜けてしまっていて、当時の視聴者の想像を絶したところがあったのは間違いないだろう。ただ、現実世界の情勢はこの想像力の鋭かったことをその後証明しているので、いま現在の時点で観たらそれなりにわかりやすい。(たとえば、カミーユの母親が人質になる展開とか、サラ・ザビアロフが脱走兵のフリをしてアーガマに潜入したり、民間人の格好をして街区に潜入し、アーガマ停泊中の桟橋付近に爆弾を仕掛ける展開とか。後者は何となく菊地直子を連想させると言ったら語弊があるだろうか。)
そして、富野由悠季の作家性もいよいよ明確になりはじめる。「殺しの富野」の本領発揮というわけだが、それはこの際措くとして、Ζにおいて「ニュータイプ」という語の意味するところがそれなりに明確になりはじめ、ガンダム世界の基本構造が富野氏の思想を反映したかたちで一応決まってくることになる。前にもちらっと仄めかしたことがあったけど、「ニュータイプ/オールドタイプ」という対立図式は、私見だが、現実の日本社会における戦後生まれと戦前戦中派との間にあった世代間対立を克明に反映している。前者は後者から「子供」「厳しい現実=戦争を知らない」ということでバカにされてきたので、かれらは当然「古い地球人」たる戦前戦中派に対し反発する。こういう機微が世代意識として富野氏において抱かれ、それが、「ニュータイプ/オールドタイプ」という表現に昇華されたというわけ。それは富野由悠季という個人にとって私小説的意味を持つものだが、それは「ニュータイプ/オールドタイプ」という表現を獲得することによって個人史的重力場から解放され、「ガンダム」に作品としての生命を与えてゆくことになる。それがあるからこそ「ガンダム」はオリジナルな作品なわけで、逆に言うと、それがなかったら単なる現実離れしたファンタジー(=子供の玩具)ってことになってしまうんだよね。そういう意味でいうならば、「Ζ」はガンダムを「富野作品」として扱う上で最も重要な作品ということになる。
この通り、僕はΖによってはじめてガンダムを思想として扱うことが可能になったと思っているので、当然、No.1を挙げよと言われたら、これ(TV版Ζ)を挙げる。ここで僕が思い起こすのは、物語終盤の、シロッコ、ハマーン、シャア(クワトロ)の思想対決だ。急進派の前二者に対し、自然発生的なニュータイプ革命を主張するシャアの立場は、ボルシェヴィズムに対するローザ・ルクセンブルクの批判を想起させる。言うまでもなくなまなかならぬトピックスだが、三人の対決はこの大論点にも独自の視点から解答を出すことを可能にするものと言っていいだろう。
とはいえ、難点を感じないというわけではない。というより、ガンダムシリーズの難点が集約されてしまっている。シンプルとは言い難いストーリーは戦争を泥仕合化させ、混迷を深めるばかり。そのついでに、抜き差しならぬ問題提起は容赦なくドンドン行われ続ける。(たとえばレコア×エマにおける思想と実存どちらに、あるいは倫理と審美どちらに重きを置くべきかという問いかけなど。)しかし、最終的にはその問いかけすべては解答放棄されてしまい、読者に「投げっぱなし」にされてしまう。僕が最終話を見て唖然としたのは、別にカミーユが廃人になってしまったからというわけではなく、あまりになにもかも放りっぱなしで終わってしまったからだった。「へ?これで終わりかい?!」ってね。あの終わり方はその後のガンダムシリーズの思想的混迷を象徴している。
因みに、さっき世代意識のことを言ったけど、物語作品に作家の世代意識が反映されること自体は文学の世界では
ごくあたりまえのことであり、あるからといって威張れるわけでもなければ高尚なんてことにもならない。なるわけがない。……こんなことにわざわざ断りを入れなければならないとは本当にバカバカしい限りだが、情けないことにどうやら
それが現実らしいので一応言っておく。
【機動戦士ガンダムΖΖ】
既にシリーズの「鬼子」に指定されてしまった作品だけど、僕はそれなりに好きだったりする。ニュータイプ急進過激派で軍団(アクシズ)の頭目でもあるハマーン・カーンがこの作品では中軸に置かれているわけだが、それによって、彼女の思想の背景にある状況とか、その行動の動機とか、そういう人間像レベルの諸事実のことがつまびらかにされているからだ。それによって、結局のところ陥穽にはまったというべき彼女のラディカリズムの弊を、あるいはその業ともいうべき何かを知る手がかりになるし、それを措くとしても、ΖΖによってハマーン・カーンという人のことがΖより数段魅力的に映ってくる。
とはいえ、やはりこれはハマーン個人史をスピンアウト的に掘り下げたものというに止まるのも事実。富野由悠季はΖΖを「あれは遠藤くんの作品」と言い切ったし、劇場版「Ζ」はΖΖに接続しない終わり方をした。つまり、シリーズのオリジナリティを最終的に帰せられるべき作家・富野にとって、ΖΖはあまり思い入れられていない作品だということだ。光るものもあるとはいえ、やはりどう贔屓目に見ても前二作と比較すべくもないが、富野の関与が薄いのではそれも仕方のないことだったのかもしれない。
【機動戦士ガンダム 逆襲のシャア】
これまでも、そして多分これからも、嫌いな方から数えて三本指には必ず入るであろう作品。
…いや、何故かといって、安易でしょ?ブライトの息子や連れ合い(?)の小娘の痛々しい言動の数々は大目に見るとしても、折角のシャア・アズナブルという人物の複雑性が、あれではわかりやすくなりすぎる。シャアといえば、「オールドタイプに比較すれば卓越しているが、ニュータイプとしては”出来損ない”」という、いわば「宙ぶらりん」の位置にある男だけど、それだけに先にも挙げたΖ終盤の思想対決の場では、ラディカリズムに還元されない鈍重な立場の迫力があった。(また、それがあってこそ、ラディカルの魔力に対抗する足場もあろうというものだ。)それなのに、彼が単純にハマーンの二の轍を踏みましたで終わるというのでは、結局シャアは思想的に敗北しましたってことにしかならない。それに、確かにシャアという人はエディプス的な人物だけど、最後のあの台詞はあまりにもぶっちゃけすぎというか、何というか。
まあ、そういう姿を描くのも、作劇術的にはアリなのかもしれない。単なるスピンオフ作品のひとつということで、世界観にエピソードの肉付けをするという程度の役割は果たしてくれるだろう。しかし、これがファーストから三作品を経て辿り着いた思想的帰結だと考えると、問われるのがテロリズム観や戦争観であったりするだけに、何ともアレな話だ。この劇場作品からは、混迷の深まりばかりを感じさせられる。
【機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争】
エピソード的な小品でありつつも、児童文学の良品風のテイストが効いており、また青春文学の要素もある、リリカルな作品。そんだけ。
……いや、評価していないわけではないですよ。何というか、ただ普通にいい作品だからコメントすることもあまりないなあ、と。(本作以降、そういうのが多い。)
【別シリーズながら参考までに】
……一応言っておかないといけないんだろうねえ。気が進まないんだけど。
まず、これが好きだという方。別にあなた方のシュミにケチをつける気は毛頭ございませんので、気分を害される前にこんな場所は早々に立ち去り、自分の感動を大事にされたらいいと思います。まして僕があなた方に説得されてseedを好きになるということはあり得ませんので、無駄なことをせず棲み分けていましょう。それですべてOKです。
あと、アンチ派の威勢のいい方々。僕がseedを批判しているからといって、みなさんに加担して
乱痴気騒ぎ議論に加わるわけではありませんので悪しからず。本来どうでもいいことですからね。
さて、(やなことに気疲れするなあ…)
まあ、多く語ることは別にない。プロが資本の要請に従ってプロの技量をガンガン投入して豪華絢爛に仕上げた駄作、……ってところ?
FF Xに対する
FF X-2みたいというか。
これまでガンダムマニアは、「ニュータイプ/オールドタイプ」からは片方の能力的卓越ということだけしか読み取ることができず、リアル・ポリティクスに興味も持たなければ文学や芸術に興味をもつでもなく、まして社会科学や哲学・思想の本を読むなんてこともなく、居酒屋談義のみを大事として、メカのかっこよさと話のドラマチックさ(のみ)に陶酔し、ただひたすら内輪で盛り上がってきた。その間、
メッセージのキャッチボール(あるいは弁証法)なんて有ることなく、ただその「格好良さ」ばかりに目を眩ませ、陶酔しつづけてきた。そういうニンゲンがロボットアニメを撮るとどういうことになるか?……その答えがこれだというわけ。
そういう意味では、seedは現代日本の現実をよく反映していると言えなくもない。もちろん、それは宇宙世紀シリーズとはまったく違う意味においてだけれども。こういう作品に感動する文化水準を高いと見るか低いと見るか。僕ははっきりとは言ってあげない。こういうのは、他人に言われて出る答えでは意味がないからね。
【機動戦士Zガンダム -星を継ぐ者-】
「A New Translation=新訳」とされた劇場作品。……知ってのとおり、ネット各地でもまあ、seedに劣らずかなりアレなことになっているけど、とりあえず、
これじたいガンダムマニアが二十余年掛けて紡ぎ出してきた現実なのだということだけは言っておきたい。偽リアル・ポリティクス的想像力は意図的に切り落とされ、マニアの(かれらにとって長年
「ゆりかご」の代用品だった)細部への偏執的拘泥は意図的に裏切られ、アクションシーンは山盛りで、陰を陽に転換することを選んだ同作品の生まれた顛末をどう受け取るか。一度ちゃんと考えるべきだと思うよ、本当に。
じゃ、この話題は本当にこれっきり。おやすみ。
【追記 2007.3.27】
若干の加筆修正をしました。特にΖの部分。
【追記 2007.3.29】
若干の加筆をしました。
【追記 2007.3.31】
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