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La ricerca della morale che non dipende da una cosa della trascendenza...
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禍福はあざなえる縄のごとし、か?
アフタヌーン1月号を読んで、嬉しいことが一つだけあった。

それは別に、ついに出た「ラピュタ」のパロディーのことではない。大森カズフサのハッピーバースデーでもない。(当たり前か。)そういうささやかなことではない。漫画に関わることでは、ここ最近で一番うれしかったことだ。

豊田徹也が帰ってきたのである。


正直言うと、ほとんどあきらめていた。「工場で働く」と言い残し、姿を消したと聞いていたからだ。また、振り返って『アンダーカレント』(氏が一冊だけ著した作品である)を読むと、この人がそういう行動をとるであろうことに異様な説得力を感じた。二つの出来事は、並べるとあまりにすんなりとくっついてしまうのだ。

しかし、豊田徹也は帰ってきた。失踪したかなえの夫が終には再び姿を見せたように、漫画家としての豊田氏は僕たちの前に戻ってきた。但し、弁解がましい疚しさを引きずって、ではない。堂々と、人を食うような読み切りをもって現れたのだ。

タイトルは「スライダー」。

淡々とした日常性のトーンは相変わらずである。そこには、彩られた華やかさとは無縁のむきだし感があり、裕福さのかけらもないギリギリ感があり、しかも、目に見えるスリルもサスペンスもないのである。…いや、それっぽい場面も今回あるにはあるが、手に汗握るというより間抜けで滑稽な展開の仕方をする。主人公の男は無職であり、子供にどやされるような男であり、しかもちょっと天然の気があったりする。そんな男のところに、似つかわしくも貧乏神が転がり込んで来るというのだから、ほとんど悪意である。

でも、その悪意にこそ、2年の時の流れが凝縮されているのだ。多分。

唯一の前作『アンダーカレント』にて、その日常感覚はほぼ完成されていた。何でもない日常。よく知っている、いや、知っているはずの人々、風景。そのすべては、無根拠な信頼を礎として成り立っている。そんななか、僅かな「まちがい(エラー)」が訪れた。蟻の一穴のような出来事。それはやがて、足許の虚無を仄めかしつつ、じわじわと、信頼していたあたりまえの生活世界を浸食してゆくだろう。そして物語は終末に到る。そこには衝撃も驚嘆もない。知っていたはずの結末。知っていたはずなのに、目を背け続けてきた結末。そのすべては、さりげなく静かにやってくるのだ。残されたのは、ぽっかりと大口を開いた虚無、ただそれだけ。

要するに、自分は何も知らなかった。そのことが、かなえを追い詰める。過日引用した内田有紀のコメントでも言われていたが、斯様に、僕たちの歩く道の途上には、自分には何もないこと、何も知らないのだということをどうしようもなく突きつけられる瞬間というのがある。その瞬間は、センセーショナルなかたちで訪れるとは限らない。希にそういう場合もあるだろうが、大概はさりげなく、静かに、致命的な傷を開いてゆくのである。

その、静かな足跡を、そのままむきだしで記録すること。豊田徹也が選択したのはこちらの道だった。こちらの道は、当然、作劇術としては非常に険しい道である。松尾スズキですらそうしたように、象徴的な平面に押し込めて、センセーショナルに描く方のが余程やりやすいし、安全なのだ。そうすれば、作者の実存は虚無にたいして適切な距離を保つことができる。しかし、豊田徹也はそうしなかった。正面衝突したのだ。

そして、2年の月日が流れた。

あきらめかけていた僕たちの前に投じられた一球は変化球だった。愚直に直球ばかり投げていた投手が故障明けの一球目に岩瀬仁紀ばりのスライダーを放ってきたら、普通なら面食らうところだ。ところが、今回の「スライダー」は、そういう違和感を全く感じさせなかった。それは、淡々とした作風や筆致が相変わらずだったということもあるだろうが、それ以前に、僕らは彼が変化球を投げられることを知っていたのかもしれない。そういえば、『アンダーカレント』でも、助平なサブじいの存在感は際立っていたし、うさんくさい探偵のバカらしさにもとても愛嬌があった。ただ、笑いが周縁に留まっていたのだ。

今回は、笑いが中心に向かっている。つまり、主人公のコーヘイを結節点としてネットワークされる人々、そのすべてが哄笑の標的となるように出来ているのだ。要するに、自分自身の実存を笑い飛ばすヒューモアが表れているのである。

たまたま福の神を手中にしたバカ社長は興隆の果てに壮絶な没落を遂げたが、彼に貧乏神を突きつけたコーヘイは別に金持ちになるでもなく、相変わらず調子こきすぎて小学生に怒鳴られる日々を過ごしている。まことに人生どーしようもない。しかし、このどーしようもなさが愛すべきものに見えてしまうのが、作者の高度な技量に眩惑されてのことではないはずだということは、無根拠ながら信頼しておくとしよう。(了)
Un film,Comiques,Autres...|映像文化・漫画 | 19:54 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark | |
Welcome to The Quiet Room. --- 三十路の内田有紀
評価:
りょう,内田有紀,蒼井優,宮藤官九郎,大竹しのぶ,妻夫木聡,松尾スズキ
角川エンタテインメント
¥ 3,652
(2008-03-19)
映画『クワイエットルームにようこそ』を観た。
そこで、ちょっとだけ感想を。

クワイエットルームにようこそ


内田有紀が還ってきた。

人前で啖呵を切るときの凛とした格好良さと、ふざけたりノリノリでダンスしたりするときのコミカルな愛嬌。スクリーンに映ずる佐倉明日香は、あの《内田有紀》が健在であることを充分見せつけてくれた。かつてと違うところがあるとすれば、そこに《三十路越えの》という接頭辞を付けても大丈夫だったということだろう。

正直言うと、意外だった。ボーイッシュな格好良さとコケットリー、これらの同居が可能なのは、《美少女》という形容が可能な時期特有のことであり、時期が限られているゆえの媚態なのではないかと思っていたのだ。それは時間の流れから遊離したニンフェットというか、そういう何かではないかと。

必殺シリーズのプロデューサー・山内久司はかつて、あの沖雅也について、「30(歳)を越えた沖雅也を想像できない」という趣旨の発言をしたそうだが、それが僕らにも納得できるのは、あのギリシャ彫刻のような様式美というものが根本的に時間というものを嫌っているということを、どこかで直観しているからだ。「老い」の想像を排除するような輝き方というのがあることを、僕らは先験的に知っているのだ。そして実際、沖は消えた。尤もそれは偶然かもしれない。でも、どこか出来過ぎた偶然のように感じられるのも事実だ。

で、内田有紀だが、あの凛とした気っ風の良さとコケティッシュなかわいらしさ、男性性と女性性といってもいいかもしれないが、とにかくそういう相反する(と思える)要素を同居させる個性を、かつて僕は時限的なものだと思っていた。沖のそれのように、「老い」の想像を排除するようなものだと思っていたのだ。

ところが、内田有紀は30を越え、スクリーンに現れた。そしてそれは、たしかに《内田有紀》だった。かつて「中性的な魅力」と呼ばれたアイドルは、離婚を経験し、酸いも甘いも噛み分けた大人の女性となって”クワイエットルーム”にやってきた。そして、髪に吐瀉物を付着させ、ネバッとした病院食を食べられず泣き、病棟のダンスレクリエーションでノリノリで踊る彼女は、佐倉明日香であると同時に、まぎれもなく《三十路越えの》内田有紀だったのだ。

要するに、「中性的」と形容した僕らの想像力が貧困だったのである。格好良くコケティッシュであることは、別に男性性と女性性を中和させたものというわけではない。それは、二項対立以前の身体的領域にあって、内田有紀というひとりの女性の生き様を通して自然に形成されたものにほかならない。つまり、中間ではなく、ハイブリッドなのだ。

このハイブリッド性そのものは、時限的なものではない。それは、明日香を演じる内田が変わらず《内田有紀》だったことから明らかだ。そこは、齢を重ねても変わらなかった。だが、変わったところもあった。明日香役としての内田には、《三十路越えの》という接頭辞が確かに似合うのだ。では、その変化とは何だろうか。映画パンフレットによると、内田はインタビューにてこう言っている。


ーー内田さんの凛とした雰囲気や佇まいは昔からと同じで全く変わりはないのに、でも、明日香を演じる内田さんを観ていると、今までとは違う役者さんになった印象を抱きました。非常に「人間くささ」を感じたというか、ある意味「生々しい」というか。新しいステージに立ったようにも思いました。

内田 「生々しさを出す」というのは役者としての私がそうありたいと思っているので、そう言われるのは本望ですね。「自分を知る」というのは、この映画のテーマでもあると思うんですけれど、私が20歳の時は、まさしく明日香のようだったと思います。もちろん、私は彼女のように波瀾万丈じゃないし、ヘヴィな体験もなければ体を壊してしまったこともない。でも、みんな、男であれ女であれ、自分の中にそれぞれの「明日香」はいるし、いたと思うんです。若いころの、いつもどこか心の中が満たされず、常に居場所を探して彷徨う明日香のような自分が。みんなそういう時期を経て大人になったと思うんです。だからゆえに明日香が愛おしいし、明日香を演じながら20代の自分に出会った気がしたんです。そして、自分が「何にもない人間なんだ」と気づくか気づかないか、それは人それぞれ。大事なのは「気づいてからどうするか」。それが人生だと思う。「なんにもない、じゃあどうしよう」。そう思ったときに何かが始まるのかな、って。でもいまだに「私って一体何者なんだろう」というのは私自身まだまだ模索中です。30歳すぎのいい大人なんですけれど。でも、死ぬときにならないと「本当の自分」なんてわからないんだと思っています。(パンフ、P.15)


“クワイエットルーム”の隠喩に対する洞察も伺える談話である。明日香を演じた内田有紀は、20代の頃の自分に出会った。つまり、過去の自分と直面したというわけだ。そして彼女はそのとき、自分が「何にもない人間なんだ」という自覚=“クワイエットルーム”に到った。勿論、本人が言っているように、“クワイエットルーム”に到ったうえで「さてどうするか」というのは「まだまだ模索中」なわけだが、彼女自身の実存の円環は確実にひとめぐりしていたのである。

僕らが『クワイエットルームにようこそ』を観るとき、《三十路の内田有紀》を目撃する。そこで僕らは、ハイブリッドな主体・内田有紀が佐倉明日香に重なる地点にて、過去と現在に二重化した内田有紀を目撃する。そして、そのすべてを観る僕らは、明日香に引き続いて“クワイエットルーム”に到るのだろう。実存の空虚に立ち到ったとき、僕らは何を決断するのだろうか。(了)

◎映画『クワイエットルームにようこそ』・公式HP
http://www.quietroom-movie.com/

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ちょっとだけのつもりが、長くなったなあ…
Un film,Comiques,Autres...|映像文化・漫画 | 22:36 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark | |
「愛の告白」読めたかい?
と言っても、僕からの、ではない。月刊アフタヌーン12月号(2007年)の441頁、北道正幸「プーねこ」の中のお話。(余計なことを言うが、「ああっ教祖さまっ」のことだと言って理解できる人は、結構いい歳のはずだ。)

僕ら猫系の人間(?)にとって必修過程ともいえるこの漫画は、たびたび施される小ギミックにより雑誌付録のようなテイストで愉しむことができる。今回の趣向は、「裸眼立体視(平行法)」。目がものすごく疲れるアレである。くわしい説明は、僕も北道先生に倣ってGoogleに丸投げする。


http://www.google.com/search?q=裸眼立体視%20平行法


さて、タイトルで言った「告白」だが、これは四コマ「忍ぶ恋」にて、風助からモコちゃんに向けて言われたもの。風助の台詞の立体視が成功した場合、彼の愛の告白が奥の方に見えてくる。(やる楽しみが減ったらいけないので答えは言わないが、僕は読めた。)が、なにしろ相手は彼女である。結果は推して知るべし。

さて、今宵は「逮捕しちゃうぞ・フルスロットル」を観ないとね。
Un film,Comiques,Autres...|映像文化・漫画 | 20:30 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark | |
雨の季節が終わっても
iTunesでB.J. Thomasの “Raindrops Keep Falling On My Head”を落とした。まったく説明の必要がないほどの名曲だが、どういうわけかいままで僕のiTunesに入っていなかったので。

ところで、なぜ今時分になって落とそうという気になったのかというと、それは、『神戸在住』第9巻を読み返したせいだ。この漫画はじっさいの神戸をモチーフとする詩情に富んだ情景描写で知られる作品だが、同時に、靴とか小物、本など、ちょっとしたものをさりげなく紹介してくれたりもする。これがまたいいセンスをしている。で、例の曲を採り上げているのは、単行本第9巻の最初におかれた描き下ろし「午睡・前奏曲」でのこと。サブタイトルに -- 「耳もとで 雨音が」辰木桂 -- と冠されたこの小品は、“Raindrops Keep Fallin' On My Head”のメロディーに、主人公・辰木桂がその場に合わせた適当な歌詞を即興で付けるという体裁で綴られている。

桂(即ち/あるいは別のモノローグの語り手)曰く、「心浮きたつ様な軽快な歌」。実際この曲は楽しい。しかし、ただ単にポップということではない。雨降りの時の沈痛なトーンや、すべての音が雨だれに融けてしまったような静けさといったことが、楽しげに跳ねるメロディーの底辺にしっかりと横たわっている。逆にいえば、僕たちがこの曲から軽快な愉しさを感じることができるのは、そうした通底音がブレンドのベースとして利いているからなのだ。情景描写に定評のある『神戸在住』がこの曲をモチーフに採り上げたのにはそういう必然性があった。

要するに、寂びが効いていることがミソなのだ。「午睡・前奏曲」では、黄色い合羽に身を包んで雨と戯れる少女を桂が眺める様子が描かれる。このとき視界に映ずる少女の姿は、祖母に手を引かれた在りし日の記憶と重なるが、それがたんなる甘やかなノスタルジーに留まるものでないということは、後に描かれるエピソードで明らかになるだろう。(『神戸在住』第10巻・完結編は2008年1月発売予定。)

雨降りの定番ソングはたくさんある。そのなかでも、 “Raindrops Keep Fallin' On My Head” はすっかり古典的な位置にある。今日では Pet shop boys の “Home and Dry” が新たな定番の位置を獲得しているが、雨の日に備えてそういうのばかり集めたプレイリストを作っておくのも面白いかもしれない。
Un film,Comiques,Autres...|映像文化・漫画 | 20:24 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark | |
「たったの」一年半
先頃発売された竹本泉『ねこめ〜わく5』(朝日ソノラマ朝日新聞社)を購入した。

地上で最も気の長い生きものは『ねこめ〜わく』のファンなのではないかと時々思う。はじめは連載ですらなかったこの漫画、同じ設定の読み切りが不定期に書き継がれ、時間がたち、掲載誌は再三変わるうちに、読み切り作品のまま(!)単行本が出、続刊も出た。そして時は経ち、近頃は「夢幻館」という季刊雑誌できちんと連載中。読み切りが連載に発展する例は数あれど、こんなパターンは前代未聞だろう。

オビには「ねこめ史上最速の最新刊!」の文字が躍る。

…ま、たしかに早かった。雑誌連載されていただけあって、たったの(!)一年半で続刊が出た。1巻と2巻の間なんて、4年くらい空いていたからね。


ところで内容はというと、クロフの人物(猫物?)像と猫文明に関してちょっとシリアスな考察があったりする。こういうことが可能なのも、第三の人間・オスカがいるお陰なんだろうね。進化した猫たちが人間文明を盲信するというシニカルな世界観なだけに、こういう展開があると面白い。クロフとマーコの間に生まれた仔猫も登場するし、ダテに時間ばかり掛かっているわけではないのであった(!?)。


【追記】ついクセで朝日ソノラマと書いてしまったけど、朝日ソノラマって先月いっぱいで廃業していたんだね。既刊の書籍・雑誌は朝日新聞社出版本部が継承。
Un film,Comiques,Autres...|映像文化・漫画 | 20:14 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark | |
ガンダムシリーズ諸作品に関するメモ
(旧サイトから転載)

こんばんは。

そろそろ各地、桜の季節だね。夜半ってくらいだから、僕にとって桜は専ら夜桜なんだけど、夜桜を普通に愉しむようになったのはいつ頃からだったんだろう?かつては夜の桜といったら、いつ散るかわからないということで、未来への不安の象徴でもあったわけで、ちょっと違うが孟浩然の「春眠暁を覚えず」の意なんかにも通じるわけだけれど、近頃はそういう無常を観ずる美意識みたいなものは後退してしまったのかと思うところもあったりして。そうでなくても、微妙な美的ニュアンスは消費社会の記号によって塗りつぶされきってしまっているんだから、桜だっていまや宴会の口実に過ぎないのかもしれないけど。…いや、昔からか。「花より団子」ってくらいだし。

まあいいや。

今日は、正直書こうかどうか迷ったんだけど、ガンダムの話。考えてみれば、この間あれだけ書いておきながら、僕がガンダムシリーズの諸作品についてどういう感想を持っているかとか、どう「読んで」いるかとか、そういうことを全く書いていなかったからね。一度このトピックスを扱いはじめてしまった以上、書く義理はない等とも言っていられないし、書いとかなくてまた妙な誤読をされても、いちいち訂正するのが面倒だし。それに、普通人が読みたがるのはこういう話だとも思うので、メモついでにいちど書いておこうかと思った次第。

あと一応、全部を網羅できるわけでもないので、いくつかピックアップして個別に書くことにすることも断っておくよ。それと、書き込み等をしたい人は、以下の先行記事をちゃんと読んでから書いてね。

◎先行記事
  • 共同体の排他性ーガンダム好き「に」共通する論調?

  • <ゆりかご=世界>なニンゲンたち

  • ちゃんと読者をするということについて


  • じゃあ、以下本編。

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    【機動戦士ガンダム(ファースト)】

    まずは順番から言ってファーストから。シリーズの原点であり、世界観というものの持つ強い説得力を証立てるなど、史上の画期的な意義は皆よくご存じのところだとおもうのであまりそこには突っ込まないけれど、ともあれ功罪相半ばするガンダムの特異性はやはりここに帰するんだろうなとは思う。

    これをNo.1とする人は多いはずだけど、僕自身、情報量とリーダビリティとか、ブロットの密度とか、やはり一番バランスが取れていると言うべきかなとも思う。『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』ではないけど、パイロット”徒弟”たるアムロ・レイのビルトゥングス・ロマンとしてよくできていて、子供にはまだ見ぬ「社会」を開示し、大人には昔日の記憶を喚起し思考を触発する……というケースは稀かもしれないが、ともかく身に迫るものは多々あるわけだ。その点流石の出来だと思うんだけど、一方でこれはシリーズがまだ存在していない(!)時期の作品なだけあって、作家性の表れという意味においては最も薄い。たとえば「ニュータイプ」という言葉は登場するが、この言葉が主人公の特権的差別化という機能的意義を越えた何らかの意味を帯びてくるのは、やはり後続の作品から遡及的にこの作品の、とりわけララァ・スンなどに言及されて以降というべきだろう。

    ま、ゲーテと比較してどうこう言うのはいささかアンフェア気味かもしれないんだけど、世の中周到なビルトゥングス・ロマンは文芸方面に沢山あるわけで、アムロの成長を見事に描ききっているからといって特別優れた作品だということにはならないんだよね。そうなると、やっぱ作家性ってことになってくるわけだけれど、作家的にもこの時点でそんな冒険ができるってもんでもないし、こんなところじゃないですかと。

    つってもやっぱ、シリーズ的に「青少年期」なだけあって、ブライトとかミライとかセイラとか、家族的にコトッと嵌ってるんだよね。


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    【機動戦士Ζガンダム】

    シリーズ最高峰との呼び声も高い、最も長大で、最も密度が濃く、そして最も複雑な作品だね。これで「ついていけなくなった」という人を僕は何人も知っているけど、無理もないかもね。富野由悠季は劇場版が上がった時期のインタビューでも「あと四十年は持つ物語だ」と言っていたけど、氏の偽リアル・ポリティックス的想像力がここでは完全に突き抜けてしまっていて、当時の視聴者の想像を絶したところがあったのは間違いないだろう。ただ、現実世界の情勢はこの想像力の鋭かったことをその後証明しているので、いま現在の時点で観たらそれなりにわかりやすい。(たとえば、カミーユの母親が人質になる展開とか、サラ・ザビアロフが脱走兵のフリをしてアーガマに潜入したり、民間人の格好をして街区に潜入し、アーガマ停泊中の桟橋付近に爆弾を仕掛ける展開とか。後者は何となく菊地直子を連想させると言ったら語弊があるだろうか。)

    そして、富野由悠季の作家性もいよいよ明確になりはじめる。「殺しの富野」の本領発揮というわけだが、それはこの際措くとして、Ζにおいて「ニュータイプ」という語の意味するところがそれなりに明確になりはじめ、ガンダム世界の基本構造が富野氏の思想を反映したかたちで一応決まってくることになる。前にもちらっと仄めかしたことがあったけど、「ニュータイプ/オールドタイプ」という対立図式は、私見だが、現実の日本社会における戦後生まれと戦前戦中派との間にあった世代間対立を克明に反映している。前者は後者から「子供」「厳しい現実=戦争を知らない」ということでバカにされてきたので、かれらは当然「古い地球人」たる戦前戦中派に対し反発する。こういう機微が世代意識として富野氏において抱かれ、それが、「ニュータイプ/オールドタイプ」という表現に昇華されたというわけ。それは富野由悠季という個人にとって私小説的意味を持つものだが、それは「ニュータイプ/オールドタイプ」という表現を獲得することによって個人史的重力場から解放され、「ガンダム」に作品としての生命を与えてゆくことになる。それがあるからこそ「ガンダム」はオリジナルな作品なわけで、逆に言うと、それがなかったら単なる現実離れしたファンタジー(=子供の玩具)ってことになってしまうんだよね。そういう意味でいうならば、「Ζ」はガンダムを「富野作品」として扱う上で最も重要な作品ということになる。

    この通り、僕はΖによってはじめてガンダムを思想として扱うことが可能になったと思っているので、当然、No.1を挙げよと言われたら、これ(TV版Ζ)を挙げる。ここで僕が思い起こすのは、物語終盤の、シロッコ、ハマーン、シャア(クワトロ)の思想対決だ。急進派の前二者に対し、自然発生的なニュータイプ革命を主張するシャアの立場は、ボルシェヴィズムに対するローザ・ルクセンブルクの批判を想起させる。言うまでもなくなまなかならぬトピックスだが、三人の対決はこの大論点にも独自の視点から解答を出すことを可能にするものと言っていいだろう。

    とはいえ、難点を感じないというわけではない。というより、ガンダムシリーズの難点が集約されてしまっている。シンプルとは言い難いストーリーは戦争を泥仕合化させ、混迷を深めるばかり。そのついでに、抜き差しならぬ問題提起は容赦なくドンドン行われ続ける。(たとえばレコア×エマにおける思想と実存どちらに、あるいは倫理と審美どちらに重きを置くべきかという問いかけなど。)しかし、最終的にはその問いかけすべては解答放棄されてしまい、読者に「投げっぱなし」にされてしまう。僕が最終話を見て唖然としたのは、別にカミーユが廃人になってしまったからというわけではなく、あまりになにもかも放りっぱなしで終わってしまったからだった。「へ?これで終わりかい?!」ってね。あの終わり方はその後のガンダムシリーズの思想的混迷を象徴している。


    因みに、さっき世代意識のことを言ったけど、物語作品に作家の世代意識が反映されること自体は文学の世界ではごくあたりまえのことであり、あるからといって威張れるわけでもなければ高尚なんてことにもならない。なるわけがない。……こんなことにわざわざ断りを入れなければならないとは本当にバカバカしい限りだが、情けないことにどうやらそれが現実らしいので一応言っておく。


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    【機動戦士ガンダムΖΖ】

    既にシリーズの「鬼子」に指定されてしまった作品だけど、僕はそれなりに好きだったりする。ニュータイプ急進過激派で軍団(アクシズ)の頭目でもあるハマーン・カーンがこの作品では中軸に置かれているわけだが、それによって、彼女の思想の背景にある状況とか、その行動の動機とか、そういう人間像レベルの諸事実のことがつまびらかにされているからだ。それによって、結局のところ陥穽にはまったというべき彼女のラディカリズムの弊を、あるいはその業ともいうべき何かを知る手がかりになるし、それを措くとしても、ΖΖによってハマーン・カーンという人のことがΖより数段魅力的に映ってくる。

    とはいえ、やはりこれはハマーン個人史をスピンアウト的に掘り下げたものというに止まるのも事実。富野由悠季はΖΖを「あれは遠藤くんの作品」と言い切ったし、劇場版「Ζ」はΖΖに接続しない終わり方をした。つまり、シリーズのオリジナリティを最終的に帰せられるべき作家・富野にとって、ΖΖはあまり思い入れられていない作品だということだ。光るものもあるとはいえ、やはりどう贔屓目に見ても前二作と比較すべくもないが、富野の関与が薄いのではそれも仕方のないことだったのかもしれない。


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    【機動戦士ガンダム 逆襲のシャア】

    これまでも、そして多分これからも、嫌いな方から数えて三本指には必ず入るであろう作品。

    …いや、何故かといって、安易でしょ?ブライトの息子や連れ合い(?)の小娘の痛々しい言動の数々は大目に見るとしても、折角のシャア・アズナブルという人物の複雑性が、あれではわかりやすくなりすぎる。シャアといえば、「オールドタイプに比較すれば卓越しているが、ニュータイプとしては”出来損ない”」という、いわば「宙ぶらりん」の位置にある男だけど、それだけに先にも挙げたΖ終盤の思想対決の場では、ラディカリズムに還元されない鈍重な立場の迫力があった。(また、それがあってこそ、ラディカルの魔力に対抗する足場もあろうというものだ。)それなのに、彼が単純にハマーンの二の轍を踏みましたで終わるというのでは、結局シャアは思想的に敗北しましたってことにしかならない。それに、確かにシャアという人はエディプス的な人物だけど、最後のあの台詞はあまりにもぶっちゃけすぎというか、何というか。

    まあ、そういう姿を描くのも、作劇術的にはアリなのかもしれない。単なるスピンオフ作品のひとつということで、世界観にエピソードの肉付けをするという程度の役割は果たしてくれるだろう。しかし、これがファーストから三作品を経て辿り着いた思想的帰結だと考えると、問われるのがテロリズム観や戦争観であったりするだけに、何ともアレな話だ。この劇場作品からは、混迷の深まりばかりを感じさせられる。

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    【機動戦士ガンダム0080 ポケットの中の戦争】

    エピソード的な小品でありつつも、児童文学の良品風のテイストが効いており、また青春文学の要素もある、リリカルな作品。そんだけ。

    ……いや、評価していないわけではないですよ。何というか、ただ普通にいい作品だからコメントすることもあまりないなあ、と。(本作以降、そういうのが多い。)


    機動戦士ガンダムSEED 1機動戦士ガンダムSEED 1
    保志総一朗 三石琴乃 桑島法子

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    【別シリーズながら参考までに】

    ……一応言っておかないといけないんだろうねえ。気が進まないんだけど。

    まず、これが好きだという方。別にあなた方のシュミにケチをつける気は毛頭ございませんので、気分を害される前にこんな場所は早々に立ち去り、自分の感動を大事にされたらいいと思います。まして僕があなた方に説得されてseedを好きになるということはあり得ませんので、無駄なことをせず棲み分けていましょう。それですべてOKです。

    あと、アンチ派の威勢のいい方々。僕がseedを批判しているからといって、みなさんに加担して乱痴気騒ぎ議論に加わるわけではありませんので悪しからず。本来どうでもいいことですからね。

    さて、(やなことに気疲れするなあ…)

    まあ、多く語ることは別にない。プロが資本の要請に従ってプロの技量をガンガン投入して豪華絢爛に仕上げた駄作、……ってところ? FF Xに対する FF X-2みたいというか。

    これまでガンダムマニアは、「ニュータイプ/オールドタイプ」からは片方の能力的卓越ということだけしか読み取ることができず、リアル・ポリティクスに興味も持たなければ文学や芸術に興味をもつでもなく、まして社会科学や哲学・思想の本を読むなんてこともなく、居酒屋談義のみを大事として、メカのかっこよさと話のドラマチックさ(のみ)に陶酔し、ただひたすら内輪で盛り上がってきた。その間、メッセージのキャッチボール(あるいは弁証法)なんて有ることなく、ただその「格好良さ」ばかりに目を眩ませ、陶酔しつづけてきた。そういうニンゲンがロボットアニメを撮るとどういうことになるか?……その答えがこれだというわけ。

    そういう意味では、seedは現代日本の現実をよく反映していると言えなくもない。もちろん、それは宇宙世紀シリーズとはまったく違う意味においてだけれども。こういう作品に感動する文化水準を高いと見るか低いと見るか。僕ははっきりとは言ってあげない。こういうのは、他人に言われて出る答えでは意味がないからね。


    機動戦士Zガンダム -星を継ぐ者-機動戦士Zガンダム -星を継ぐ者-
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    【機動戦士Zガンダム -星を継ぐ者-】

    「A New Translation=新訳」とされた劇場作品。……知ってのとおり、ネット各地でもまあ、seedに劣らずかなりアレなことになっているけど、とりあえず、これじたいガンダムマニアが二十余年掛けて紡ぎ出してきた現実なのだということだけは言っておきたい。偽リアル・ポリティクス的想像力は意図的に切り落とされ、マニアの(かれらにとって長年「ゆりかご」の代用品だった)細部への偏執的拘泥は意図的に裏切られ、アクションシーンは山盛りで、陰を陽に転換することを選んだ同作品の生まれた顛末をどう受け取るか。一度ちゃんと考えるべきだと思うよ、本当に。

    じゃ、この話題は本当にこれっきり。おやすみ。

    【追記 2007.3.27】
    若干の加筆修正をしました。特にΖの部分。

    【追記 2007.3.29】
    若干の加筆をしました。

    【追記 2007.3.31】
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