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藤島康介の詩学|Intermission・『ドラえもん』との関係
評価:
藤子・F・不二雄
小学館
¥ 410
(1974-08)
(新章)



《藤島康介の詩学・目次》



 承前。(ただし、内容的には立ち止まって一休み。)

 ところで、このようなセンスは、藤島作品を『ドラえもん』等と比較したとき際立って違うところである。『ドラえもん』は登場人物たちが「ひみつ道具」という神的な贈与物をめぐって取り結ぶ社会的関係を、おもにのび太、ジャイアン、しずか、スネ夫といった面々による共時的パターンにおいてシニカルに描写することにおいて特徴的な作品である。そして、そのかぎりでまちがいなく重要な古典的作品である。しかし、同時にこの作品は、他者への賭に出られない者の実存的脆弱さを孕んだ作品でもある。

 この脆弱さはのび太たちを、(土着的とも言うべき?)ナイーブな受益者に固定する。『ドラえもん』において、のび太はただひたすら一方的な受益者であると同時に、一人ではなにもできない弱者である。かれはドラえもんを通じて未来の道具を使用する立場にあるが、その弱さゆえ、かれは媒介者=ドラえもんの彼方になにも見出そうとしないし、「賭け」をすることもない。かれらは実存的・倫理的強度から疎外されたまま、ただひみつ道具だけを欲望しつづける。たとえば、のび太はマクラーレンF1のピストンと国産ツインカムのピストンの違いなどに興味は持たないだろう。そのかわり、国産ツインカムのピストンをF1のピストンに変えてくれる「ひみつ道具」を欲しがるに違いない。

 『ドラえもん』にも他者はある。ただし、あくまでドラえもんというシャーマンを介して神的贈与物を送りつけてくれる科学=魔術的万能者として。30)のび太が科学=魔術的万能者にアクセスするとき、実存的な「賭け」はいっさい必要ない。ねだれば与えられるのだから。そして、この関係は<超越者ー媒介ー内在者>の三位一体構造として完全に固定され、科学的万能者の善意は疑われることすらない。そこには倫理的逡巡は訪れず、ただひたすら、のび太たちが欲望にまかせて「ひみつ道具」を弄ぶ顛末がシニカルに描写されてゆく。この構造は先にも触れた、高度成長期からバブルの時代にかけての高度消費社会において特徴的な消費社会的シニシズム31)に通じるものであり、それに対する批判的視点はあくまで風刺の彼方、潜在的なものに留まる。

 しかし、それで良かったのかもしれない。

 『ドラえもん』という作品は、のび太をはじめとする倫理的頽落者たちのありさまを、判断を手控え、それこそ「出来の悪い子ほどかわいい」の境地で、ただひたすら描写をし続けた作品である。そこに描かれるのは、実は、夢でも希望でもない。そこには「翼」も「未来」への意志もなく、あるのは欲望とその末路だけである。要するに、『ドラえもん』は倫理的・実践的価値を探求したり、人々の行動や関係に美を見出す試みとしてあるものではないのだ。而してその実態は、エスプリの効いた社会風刺漫画であった。風刺なのだから、キャラクターの成長なんて描いたら野暮になってしまう。つまり、こういう作品において頽落的弱者がそのままシニカルに描写されるのは当然だし、それはただ描写であることに徹することで価値を持つものである。ゆえに、『ドラえもん』は、読者の側から積極果敢な「読み」を試みることをもって、あるいは批判的に乗り越えられることをもって、ようやくその役割を果たすのだ。いいかえると、実存的な「賭け」は読者の側に信頼され委ねられているのである。ところが、実際には、作品それ自体により求められた批判者は結局ほとんど登場しなかった。のび太の如く頽落的弱者に甘んじることを「夢がある」などと言うような輩ばかりであった。32)

 江川達也が『まじかる☆タルるートくん』を描いたのはそういう問題意識から出たものであった。しかし、彼自身はそこから反感以上の何かを見出すことはできなかったようである。じっさい、江川は『まじかる☆タルるートくん』による試みを失敗と断定したし、じじつ同作は何ら革命的力量を発揮することなく、凡百の傑作の one of them として名を連ねるに留まった。江川が『まじかる☆タルるートくん』において為そうとした試みをかりに「タルるート革命」と呼ぶならば、史上あらゆる急進主義的試みと同様、革命は失敗したのである33)

 但し、江川によって丸投げにされた問題提起は、その後、師匠よりずっとマジメで慎重な高弟・藤島康介により受け継がれ、漸進的に探求されてゆくこととなる。その道のりは実際、師の示した道から離れた独自の歩みとなったが、かえってそのためか、探究の果てに少なくとも一定の結論を見出した。そして藤島はそのかぎりにおいて確かに師匠を超えたのだ。なぜなら、彼の「女神の発見」に比するような美的・倫理的達成は、読者に委ねた藤子はもちろん、その批判的継承者たる江川においても見られないものであった。『ああっ女神さまっ』が『オバケのQ太郎』の影響を蒙っているということがあさりよしとおによって指摘されている34) ように、藤島康介に対する藤子不二雄の影響は明白であり、かつその差異も決定的である。それは、彼らの間で世代間のキャッチボールが(江川の場合と違って)幸福なかたちで成立したことを物語っている。投げられたボールをきちんと受けた以上、少なくとも藤島康介は藤子不二雄の「良き読者」だったと言っていいのではないだろうか。



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30) いいかえると、『ドラえもん』においては、他者が自己の語りの内部に還元されてしまっている。そこでは、科学=魔術的万能者は、あくまでドラえもん各話の共時的パターンを構成する限りにおいてのみ、つまり「ひみつ道具」を実現する力として、その限りにおいてのみ存在する。また、『ドラえもん』は時間の経過しない、無時間的な物語なので、未来=他者への「賭け」が成立する余地は元々なく、他者はただ超然と彼岸にあるのみである。その意味で、『ドラえもん』は二元論的である。
31) 消費社会的シニシズムについては、大澤真幸をはじめとする理論社会学者によってつまびらかにされている。たとえば前掲『戦後の思想空間』など。
32) その意味では、江川達也的問題意識において本来批判されるべきは藤子・F・不二雄ではなく、ナイーブな『ドラえもん』読者の方ではなかったか。もちろん、実存的脆弱さという意味では藤本氏を批判対象とすることも可能であり、じっさいそういう試みも存在するけれども、それはさしあたってはこの文脈と関係のない話である。僕自身は、のび太に象徴される実存的脆弱さはチャーリーブラウン的な「永遠の敗者」の系譜で考えれば普通に評価できると思っているし、たとえば『ドラえもん』が、かの古典名作『PEANUTS』に引けをとらない点があるとするならば、それは「ひみつ道具」への欲望が招来するパニック・フィーバーのシニシズムにあると思っている。江川の云いたいことも理解できるが、ああいうことを言いたいのなら批判対象を区別すべきであった。作者があくどいのではない。偉大な存在に対して崇拝か全否定しかできない読者がだらしないのである。尚、江川の『ドラえもん』批判についてはwikipediaの記事を参照のこと。
33)何時の世も、急進主義はその手法において不適切なもので、たいていは逆説的に、彼らが「堕落」と呼ぶ状態を帰結するか、歯止めのないテロリズムに走るかしてしまう。レーニン率いるロシアのボリシェヴィキたちの革命は何を帰結したか。また、毛沢東の農村革命は中国人民に何をもたらしただろうか。
34)『ああっ女神さまっ COLORS』所収の、「8ページでわかる『ああっ女神さまっ』」にて、ニンジャマスター覗見によるボケの体裁をもって指摘されている。



◎参考記事
  • ド・ラ・カルト/山口 洋典のBlog
    http://catalyst.blog.drecom.jp/archive/387

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    ◎今宵の参考書:マルセル・モース(1872〜1950)の最も影響力を持った論文「贈与論」を含む論文集。贈与という切り口で『ドラえもん』読解に挑むというのも面白そうだし、そういうやり方こそ大人の愉しみ方というものだろう。
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    「藤島康介の詩学」 | 22:32 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark | |
    藤島康介の詩学|第7項・媒介から隣の他者へ … 「女神」の発見
    評価:
    玉川紗己子,平松晶子,小桜エツ子,松本梨香,中嶋敦子,大畑晃一,藤島康介,高橋ナツコ
    バンダイビジュアル
    ¥ 4,662
    (2008-03-25)
    (新章)



    《藤島康介の詩学・目次》


    承前。

     さて、前項において僕は、『逮捕』完結により見出された構造を「女神」の発見と呼んだ。つまり、『逮捕』完結は、藤島康介が連載開始から数年を経て漸く「女神の発見」を為した契機となったわけで、それ以来「女神」はいわば観念となり、いちキャラクターあるいは設定であることを超えて働き始めることになる。では、その後の藤島康介作品世界、それも特に『ああっ女神さまっ』において、「女神」はどのような意味を持ち、何をもたらすのか。それを知るためには、ここまで見てきた構造について、もう少し突っ込んで考えてみる必要がある。そもそも、「女神」とは何なのか。

     さしあたって一言でいうと24)、「女神」とは、他者が孕む還元しきれない謎、世界の不可知性である。もちろんそれは、『逮捕』における、トゥデイを介した夏実と美幸の絆に系譜を求めることができることで、トゥデイを契機に再発見されたものである。そしてそれはまた、作者自身の実存とも密接に関わっている。

     『逮捕しちゃうぞ』完結によって確立された<夏実ートゥデイー美幸>の構造は、いうまでもなく作者自身の自我のあり方を反映したものである。リアルに生きる不自由な自己=美幸は、トゥデイという媒介を通じて、「風のように自由」な世界を垣間見る。そして、そこにあるべき自己の像として要請されるのが、風のように自由な「天使」=夏実であった。いわば、美幸にとって夏実は彼岸に垣間見える他者なのだが、同時に、もっとも近しいものとして自分の隣につねに寄り添うパートナーでもあった。つまり、夏実は、彼岸に見えるものでありつつ、超越項ではない。親友ではあるが、崇拝の対象ではないのである。

     <夏実ートゥデイー美幸>の三位一体構造そのものは、実は哲学的にはごくありふれた構造だ。超越的他者と内在者が実存を媒介に結ばれる図式、実存のループ構造である。そこにおいて内在者=美幸の他者=夏実に対する関係は、媒介=トゥデイによって開かれた未来への賭けとして現れる。他者との関係が「賭け」として現れる図式は、パスカル以来の他者論の定番だ。「賭け」を通じて開かれる他者との通信は、アクセスの度毎に明かしきれない謎を残しつつ反復される。

     美幸がトゥデイを駆り、あえて曲がりきれないほどの速度でカーブに突入するのは、他者=夏実への「賭け」であり、トゥデイを媒介して「天使」たる夏実へと通信を呼びかける行為である。そして、夏実は「翼」たる「足ブレーキ」をもって見事その「賭け」に応えるのだ。『逮捕』の爽快感を支えているのはこうした「賭け」の強度であり、まさにその賭けの瞬間開示されるのが、実存的な意味を担った「未来」であった。それについて作者・藤島康介自身が自覚を持つ契機となったのが『逮捕』の完結であり、そこで結論として示されたのが二人の絆そのものの象徴、トゥデイであった。そしてそれはやがて程なく『ああっ女神さまっ』に受け継がれ、以後、「翼」「未来」というモチーフを通じて表現されるようになる。

     さて、実存の自覚はつねにすでに選択を伴うものなのだが、このとき藤島はいかなる選択をしているのだろうか。それを知るためには、その後の(つまり青背表紙以後の)『ああっ女神さまっ』において、<夏実ートゥデイー美幸>の三位一体構造がどのように反復されているのかを見てゆく必要がある。

     ここで気をつけたいのは、藤島作品において、媒介の彼方に垣間見える「他者」は、一貫して、超越性を還元された具体的他者だということだ。小早川=藤島にとって、辻本夏実は理想的な自己像を持つ他者であると同時に、「賭け」の対象であり、謎をはらむ他者である。だが、あくまで彼女は同僚であり親友である。つまり、平凡な属性をもつ、対等な存在者にすぎない。

     通常、ふたつの存在者が媒介を通じて実存的ループを構成する関係性は、二元論へと収束する。はじめは謎を孕んだ他者(キリスト、現存在)に直面することがかれらに実存的たるべきことを要請するのだが、それはやがて<超越者ー媒介ー内在者>の三位一体構造として、一方が超越項として固定されることにより、非対称的な関係として安定化を図られる運命にある。いいかえるとそれは、偶像を介した信仰の問題となるのだ。パスカルやキルケゴールのそれは明白にそうであったし、ハイデガーの疑似神学的な存在論もそうしたことを企図するものであった。それは最終的に、神と人との関係の如き超越的二元論を構成するものである。

     しかし、藤島康介はそうした選択を採らない。藤島的実存も、明かしきれない「謎」を孕んだ隣人として他者を見出す。その点はハイデガー等と変わらない。しかし決定的に違うのは、その関係が対称的であり、他者を超越項として固定しないということ、つまり信仰の構造が成立しないということだ。あくまでそれは対等な他者との友愛関係である。いいかえると、それは<存在者ー媒介ー存在者>の三位一体構造であり、スピノザ的な内在的一元論なのである。

     ただし、それは単なる友愛関係ではない。美幸においても夏実の怪力は謎である。美幸にとって夏実は異質な他者であり、彼女との関係はつねに緊張感を孕んだ、しばしば生命を賭したやりとりになる。じっさい、トゥデイがスリップしたとき、夏実が「足ブレーキ」しなかったらどうなるか。二人の関係はいつでもそういうスリルを漲らせているのである。こういう関係は、トゥデイがスリップしたときのような極限状態においてでなければアクチュアルなかたちで現れることはない。普段は潜在的なものとして、日常のなかに潜んでいるだけだ。しかし、極限状態のなか、祈りにも似た気持ちで美幸が夏実に「賭ける」とき、「風のように自由」な世界が開き示される。藤島作品世界の存在者(森里螢一、小早川美幸)が他者(それぞれ相応の生涯を持つモノたち)と取り結ぶ関係は、このように、関係が成立する瞬間毎に超越性が開示されるような関係性なのだ。

     繰り返すが、美幸にとって夏実は異質な他者であった。まして森里螢一にとってのベルダンディーである。螢一は異質な他者=女神との恋愛関係につねに葛藤しつづけなければならない立場にある。彼にとってベルダンディーとの関係はいつでも「賭け」なのだ。25)相手は女神なのだから、信仰した方がおそらく楽だったろう。そうすれば、彼は自分の身を滅ぼす不安に苛まれることも、相手を失う不安におびえることもなく、安定した関係が得られただろう。しかし彼はそうしなかった。種の違いを乗り越え、対等に愛する道を選んだのだ。そしてその相手は、自由な風の運び手である。26)二人の絆は美幸と夏実の絆を引き継ぐものであり、それはレーシングニーラーに同乗するドライバー(螢一)とパッセンジャー(ベルダンディー)として、お互いに生命を預け合う関係として象徴的に描かれることになる。

     サイドカーのパッセンジャーは単なる重りではない
     時に荷重をかけてドリフトをコントロールし
     左コーナーでは時として体を路面に接触させる
     ドライバーとパッセンジャー
     そしてマシン
     この三者が同調した時
     レーシングニーラーは
     アスファルトに音楽を刻み始める

     (18巻、Chapter.112「三位一体」p.218~222)

     思えば螢一は、初対面の女神からどんな願いでもひとつだけ叶えると云われたとき、ただ、「きみのような女神とずっと一緒にいたい」と望んだだけだった。最初は軽く為されたこの選択は、やがて倫理的意味を担い、彼自身の実存を掛けて反復されるだろう。螢一の選択は「三者同調の瞬間」毎に繰り返され、その都度、「風のように自由」な世界を開示するのだ。

     螢一はハンドルを握り、その手に沁み込んだ技術を介して世界と関わる。それは彼自身の身体感覚を通じた、環界との全的対話である。それが成立する瞬間、螢一はひとつの世界が開かれる(開示される)のを見、そこに現れた「世界」を大切にしたいと願う。27)そのセンスこそ、森里螢一が中嶋大丸・剣から、そして小早川美幸から引き継いだ遺産なのである28)。そして、螢一がこうしたセンスの持ち主であったからこそ、ベルダンディーも一身を賭して螢一に身を委ねる。それが女神たる彼女の慈しみの現れなのだとしたら、森里の技術は女神の慈愛の糧であるといっていいだろう。そしてそのことは、単行本背表紙が青単色から巻数毎に変化するようになって以後、主要なモチーフとして前景に押し出されることとなる。29)

     要するに、1992年において藤島康介に訪れたのは、倫理の自覚だったのだ。それはいわば、環界との全的対話を可能とする「手に沁み込んだ技術」を有する漫画家が見出した、自分が他者との関わってゆくときの理想であり、実践の原理であった。まさに彼のもとに「女神」は舞い降りたのである。


    Intermissionへ

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    24) 「さしあたって」という言い方は、大澤真幸がよく使う言い方である。それは、結論を出すには時期尚早であるが、本当の結論に行く前にどうしても経過しなければならない捨て石的な結論を言うときに使われる言葉である。『戦後の思想空間』(ちくま書房)P.157参照。
    25) 劇場版に登場した「裁きの門」は、この関係性についての非常に適切な表現となっている。
    26) ベルダンディーは、風属性の法術を操る者として描かれている。
    27) 握ったものがスパナであった場合も同様。螢一は「モノの生涯」を見る技術者であるゆえに、機械からも愛される。27巻 Chapter.176参照。
    28) 螢一は、『逮捕』においては中嶋剣と小早川美幸の二人が体現していたことを、ひとりで体現している。いうまでもなく中嶋と小早川は微妙な恋愛関係にあり、そのかぎりでカップリングが成立するのだが、メカの整備とその駆動が本文で述べたような意味を持つならば、この二人のカップリングは作劇術以上の倫理的意味があるといっていいだろう。すると、それを一身に体現した森里螢一は、この二人の息子のような存在なのかもしれない。すると、じっさいの螢一の両親たる森里桂馬・鷹乃夫妻は、中嶋・小早川の成熟した姿といったところか。
    29) この時期のことについてはさらに考察を要するが、かりにこれを第三期とするならば、第三期において藤島康介の作風が、ネームも絵柄も詩的な美しさを大幅にグレードアップさせ、とりわけ絵柄そのものが「語る」度合いを強めていることは、本稿の文脈との関連において留意されて然るべきだろう。


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    ◎今宵の一本:合田版にしては出色の出来であるばかりか、『女神』の思想が簡潔に表現されていて、『女神』論的にも無視できない名作となった一作。
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    「藤島康介の詩学」 | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark | |
    藤島康介の詩学|第6項・軽やかな夏実、不自由な美幸、そして……
    評価:
    玉川紗己子.平松晶子.小桜エツ子.松本梨香.島田 敏.政宗一成,大畑晃一
    バンダイビジュアル
    ¥ 4,662
    (2008-02-22)
    (新章)



    《藤島康介の詩学・目次》


     承前。

     もう少し突っ込んで分析してみよう。

     『逮捕しちゃうぞ』の世界は、夏実・美幸・トゥデイの三者が集結することにより生まれ、離散することにより死に、再び結びつけられることにより再生する。最重要キャラクター・トゥデイは、そういう、世界の生誕と死と再生の原理として機能する場所として作者と読者の前に開示された。『逮捕しちゃうぞ』はまさにトゥデイという特異点における「結ぼれ」によりひとつの世界として開示されるわけで、その「結ぼれ」が現出する場を見届けることにより、僕たちは藤島康介という才能の実存論的な居場所を窺い知ることができる。

     後の話だが、藤島康介はこの三者について、自分にとって夏実は自分がこうであったらという理想であり、美幸はリアルな自分だという意味のことを言っている。辻本夏実というのは風のように自由な者であり、物理的必然性の枠を軽やかに超え出て行ってしまう「天使」なのだ。じっさい、彼女の怪力は「足ブレーキ」などというほとんど超現実的なことを成し遂げてしまう。一方、小早川美幸はというとどこまでもリアルに「人間」であり、すべては物質的、経済的、社会的な必然性の桎梏の中に閉じこめられ、軽やかに飛べない不自由な者として描かれる。「天使」たる夏実の軽やかさに比べ、重力に引かれた美幸の足取りは鈍く、重い。ふたりの存在する位相、あるいは行動の原理は、かくも懸け離れている。そのふたりが、トゥデイによって結びつけられる。

     じつは、『逮捕』のもつ爽快さの秘密はここにある。

     重力に引かれた美幸は単独では翔べない存在である。いわば、不自由の象徴だ。しかし、その不自由な彼女の手にはスパナが握られ、「結ぼれ」の原理たるトゥデイに「肉」を与える。そして、物質的な存在の基盤をあたえられたトゥデイには「風のように自由な天使」、辻本夏実が降り立つのだ。ひとりでは翔べない美幸は、トゥデイのドライバーシートにて「天使」と結びつけられることにより、ついに飛翔の足場を確保するのだ。それは重力による不自由な拘束から解き放たれた瞬間であり、『逮捕しちゃうぞ』ならではの爽快さはそこから生まれる。トゥデイは、その中心にいるのだ。

     先刻僕は、辻本夏実を天使に喩えた。ならば、単独では翔べず、トゥデイという「貨幣」を介して天使=夏実との結びつきを確保したときのみ解き放たれる小早川美幸は何に喩えられるべきか。22)一見どうでもよさそうな問いだが、実はそこが『ああっ女神さまっ』へと通じる鍵なのだ。

     美幸は夏実のような「翼」を持たない。だから、彼女は翔ぶために、いつでもスパナを握り、モノの生涯を慈しむ技術屋の流儀でメカにアプローチする。その果てに現れてくるのがトゥデイだ。ところで、これは見方を変えると、翔べない不自由をかかえた者のために軽やかな世界に通じる回路を開くべく、あえて「翼」を捨てた/持たなかったのだという風に見ることもできる。夏実が天使なら、美幸は苦しむ衆生のためにあえて濁世に身を投じる化生の菩薩といったところか。23)

     不自由な美幸は、既存の記号に囚われた人間の不自由の象徴である。美幸もどこまでも人間である以上、記号の外に出ることはできないだろう。しかし、彼女は技術という慈しみの流儀を知っている。彼女はその手腕により、トゥデイやバイクを整備する。そして、彼女に整備されたメカに搭乗する者は、身体感覚を通じた世界との対話を開始し、その限りにおいてのみ桎梏の外を垣間見ることができるようになる。それは、美幸自身を含めた搭乗者にとって、夏実的な「風のように自由」な世界に通じる回路である。

     もうお分かりだろう。『逮捕しちゃうぞ』において斯様に示された小早川美幸の実存論的な位置は、機械の声を聞く男・森里螢一へとそっくりそのまま移行する。そしてベルダンディーは、こうして美幸の流儀を引き継いだ彼の胸を吹き抜ける自由な風として、彼を軽やかな境域へと導くのだ。

     要するに、『逮捕しちゃうぞ』完結により見出されたのは、女神の女神性なのだ。いまや藤島康介の創作原理の中核をなす、「女神」の発見である。


    第7項「媒介から隣の他者へ … 『女神』の発見」につづく

    -----------------------------------------------------------------------------------------------------

    22) 一番ピッタリくるのは「人間」だが、これでは比喩にならない。
    23) あるいはイエス受肉の原理たるマリアか。どちらに喩えるかはたんに趣味の問題だろう。それにしてもマリアを想起させるとは美幸の母性も半端なものではない。実際彼女のこうした性格は、何十年も夫と連れ添った妻のような母性を発揮するに至る、青背表紙以後のベルダンディーに通じるところである。


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    「藤島康介の詩学」 | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark | |
    藤島康介の詩学|第5項・トゥデイ
    評価:
    玉川紗己子.平松晶子.小桜エツ子.松本梨香.島田 敏.政宗一成,大畑晃一,玉川紗己子,小桜エツ子,松本梨香,島田敏,政宗一成,平松晶子
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    (2008-01-25)
    (増補・再公開分)



    《藤島康介の詩学・目次》


     承前。

     『逮捕しちゃうぞ』にピリオドを打ち、そのテクストを関係のネットワークとしてまとめあげ、象徴化する作業を、藤島康介はたいへん適切に成し遂げている。『逮捕しちゃうぞ』連載の締めくくりにおいて、藤島は、その倫理観の諸々の流れを象徴的モチーフに仮託してきっちりまとめあげることに成功した。そして、それこそが藤島世界の貨幣として、さらに広がりを見せる藤島作品の世界観の秩序の起源となった。

     その、藤島作品の象徴世界の要として示されることになる『逮捕しちゃうぞ』作品世界の最重要登場キャラクター。それがトゥデイである。このトゥデイに関するエピソードを、漫画『逮捕しちゃうぞ』の締めくくりのエピソードとして示すことにより、テクストは形式的に完結し、のちの藤島康介作品世界に骨格を与える象徴的な存在となる。

     その最終エピソードとは、FILE.78,FINAL「トゥデイ最後の挑戦(前・後編)」のことである。この直前のエピソード18)においては登場人物相互の人間関係が総決算されたかに見えたのだが、あとに続くこのエピソードにおいて、ついにトゥデイそのものがメインに据えられるに至るのだ。

     たとえば、FILE.78とFINALの両方とも、その扉絵はトゥデイをメインに据えた構図で描かれている。また、さらには、最後のページもそのほぼ中心にトゥデイが斜上からの俯瞰視点で全身が描かれていて、構図の中心を占めている。こうした点からも、このエピソードにおける、さらには『逮捕』全シリーズにおけるトゥデイの重要な位置付けを伺い知ることができる。そしてもちろん、この最終エピソードの主役が、まさにこのトゥデイなのだ。まさにトゥデイは、形式的にも実質的にも、漫画『逮捕しちゃうぞ』のピリオドに据えられているというわけだ。

     では、『逮捕しちゃうぞ』において、トゥデイとは何なのだろうか?

     もちろんトゥデイは、当時本田技研工業から発売されていた実在する軽自動車であり、じっさいにミニパトとして多く採用された実績もある。ちょうど、辻本夏実と小早川美幸の二人が、所轄の交通課勤務の女性警察官であるという点では他の多数の女性警察官と変わりがないように、トゥデイもこうしたミニパトのひとつであるということに変わりはない。その属性そのものはごく平凡なのだ。

     しかし、辻本・小早川の二人が乗るこのトゥデイは、搭乗者に似て、そのパフォーマンス19)においてなにもかもが過剰である。それは、交通取締を行う女性警察官の乗物として一切が規格外の性能を持っている。彼女らの乗るトゥデイは、二人(とりわけ小早川)の手によってあらゆるチューンが施されており、有り余る馬力、加速、トップスピードを備え、ニトロ20)まで搭載されているのだ。これは明らかに交通取締という任務に必要な範囲をはみ出した過剰な性能であり、その意味でこのトゥデイは完全にイレギュラーな存在である。

     属性の平凡さとパフォーマンスの過剰さ、こうした性質は貨幣というものの性質と合致する。貨幣というものは、そのものとしてはひとつの商品にすぎず、その意味では平凡な属性を持っているにすぎない。貨幣それ自体はなんら特別なものではないのだ。しかし貨幣は、そのパフォーマンスにおいて、完全に通常の商品の範囲を逸脱したものとして振る舞うことになる。つまり、貨幣はいつでも誰とでも交換でき、それゆえ取引の決済の手段として利用することができるわけで、その流通の仕方が普通ではないのだ。誰でもそれを受け取ってくれるという商品として過剰な性質を有するからこそ、貨幣は流通し、価値を持つ。そして、このパフォーマンスの過剰こそが、貨幣を価値のあるものとしているのだ。

     そして貨幣は、いっさいの商品の交換の仲立ちとして機能する。つまり、一切のものを商品として価値換算可能なものとし、それを市場の交換ネットワークに接続することによって、一切のものを相互につなぐ役割を果たすのである。21)

     トゥデイが『逮捕』のなかで果たす役割も、そういった性質のものだといえる。じじつそれは、異なった価値を持つもの同士をつなぐ役割を果たしてきた。トゥデイの過剰さは夏実・美幸の過剰さそのものであり、この二人の過剰さは、あまりにも個性的すぎる登場人物たちを魅了し、相互につなぐ役割を果たしてきたのだ。その意味では、トゥデイ=夏実・美幸はまさしく、『逮捕しちゃうぞ』世界観における「貨幣」だったわけだ。

     そのトゥデイが、最終エピソードでは大破してしまう。
     二人の情熱そのものだったトゥデイの大破。
     それは、二人が二人であることを失わしめるに十分なものであった。

    美幸「あの車は私自身だった。オイルが吹き出た時、私の体の血が流れるようだった。車体のひしゃげる音は、わたしの骨を折る音に聞こえた。」
    夏実「あれだけの事故で私たちが無傷で済んだのは、きっとトゥデイが守ってくれたからね。」
    美幸「わたし、ずっと思ってた。あの車から降りるのは、警官をやめる時だって。」
    頼子「美幸ぃ・・・。」
    夏実「本当に二人で苦労して組み上げたものねえ。ふたりで部品かきあつめてさ。あーあ、私も気が抜けちゃったなあ。」


     完全に気が抜けてしまい、情熱を見失ってしまった二人の姿に、中嶋、頼子、葵はとまどい、心配する。何とかしたいと考えた3人は極秘会議を開くが、なかなかいいアイデアが出てこない。
     そのとき、頼子はあることを思いつく。

     2人の永遠のライバル(?)、ストライク男を呼んだのだ。けしかけられた正義の味方マニア・ストライク男は、いつものように、もとい、いつもよりもハデに正義の交通取り締まりを開始する。

     そのことを頼子から聞かされた二人は、「最後に一華咲かせるため」に、ついに重い腰を上げる。(ここまでが前編)

     ストライク男の脅威に晒された(?)夏実、美幸と、中嶋、頼子、葵は、パーツを書き集め、エンジンを移植し、協力してトゥデイを組み上げる。こうして、ツインエンジンの新生トゥデイが完成する。
     あとは、ストライク男を捕えるだけである。


    「あ・・・中嶋君。式場の予約、お願いね。」
    「これで最後だから。」


     こう言い残した美幸は、本当に辞める気なのかと叫ぶ中嶋を背に、夏実とともに追跡を開始する。

     しかし、神出鬼没のストライク男は、見かけによらずすばしこく、錦糸町に現れたかと思ったら、今度は北新宿にあらわれる始末。これでは永久に追いつけない。

     そのとき、ふと警察無線ではない無線が入る。
     何とそれは、中嶋大丸からだった。彼も協力していたのだ。大丸だけではない。他にも、かつて二人に助けられた元自殺志願の女子高生・沙織、瀬奈、捜査一課の徳野さんが二人に協力し、二人のストライク男追跡を後押しする。

     そして、多くの人に支えられた二人は情熱を取り戻し、トゥデイのツインエンジンを唸らせ、ついにストライク男を追い詰めるのだ。

     夏実と美幸、二人の姿そのものであったトゥデイが大破した時、二人は自分の居場所を見失ってしまった。二人らしい情熱も躍動感も失い、全く気が抜けてしまったのだ。そして、警官を辞めることさえも示唆するに至った。『逮捕しちゃうぞ』世界の危機である。

     そのとき、そこまで追いつめられた二人が「らしさ」を取り戻したのは、かつて二人がトゥデイとともに結びつけてきた多くの人々に、こんどは逆に支えられること、そのことによってであった。この出来事により、トゥデイ=夏実・美幸が作品内において「貨幣」として機能していたことを明らかにすることになったのだ。

     『逮捕しちゃうぞ』は、種々雑多な、個性豊かな登場人物に彩られてきた物語である。そしてそこには、かならず2人とトゥデイの姿があった。しかし、2人もトゥデイも、そのたくさんある登場キャラクターのうちのひとつ、one of themにすぎない。また、それらは整然とした秩序を持っていたわけでもない。それぞれがそれぞれの個性を各々勝手に発揮してきただけの話だ。ゆえに、この漫画は雑多な印象を与えるものであった。先に述べた「不定形性」とは、そのことをさした言葉である。

     では、『逮捕』はただ雑多なだけのテクストなのかというと、そうではない。整然とした秩序があるわけではないが、バラバラでもないのだ。雑多でありながら、ちゃんと共存しているのである。まるでカンディンスキーの『コンポジション』シリーズのなかの、諸々の色彩と線のように。それを可能にしていたのは何だったのか?その答えが、この最終エピソードである。

     このエピソードにおいて、トゥデイと2人は、トゥデイ=夏実・美幸というかたちとして、ネットワークの結節点として描かれている。トゥデイが失われた時、夏実・美幸もいちど失われた。しかし、トゥデイ=夏実・美幸が失われた時、それを介して互いに繋がっていた中嶋・葵・頼子、大丸・瀬奈、沙織、徳野さん、果てはストライク男までもが、いっせいにトゥデイ=夏実・美幸を「再生」させるために動き出した。そして、トゥデイの再生とともに、夏実・美幸も再生する。このことから、かえって、トゥデイ=夏実・美幸がそれまでいかにこれらのものを結びつけていたかが照射されるのだ。

     こうして、不定形なテクストは、トゥデイ=夏実・美幸を貨幣とすることによって、コンポジションとして秩序を持つことになった。トゥデイ=夏実・美幸を介して、雑多な要素が相互に結び付けられたのだ。こうして、トゥデイ=夏実・美幸の貨幣秩序という、清濁合わせ呑む秩序が見いだされたのである。

     この秩序こそ、藤島的秩序のモデルとして確立されたものであり、今日まで至る藤島康介の創作活動の出発点となっているのである。一人の漫画家の「自立」は、こうして達成された。その「自立」の地点がいかなる高みにあったのかについて、今日われわれは『ああっ女神さまっ』のコミックスを通じて伺い知ることができるだろう。


    第6項「軽やかな夏実、不自由な美幸、そして……」につづく

    -----------------------------------------------------------------------------------------------------

    18) FILE.75「ふたりだけの秘密」、FILE.76「葵ちゃんパニック!」(←どうでもいいがどこかで聞いたようなタイトルだ!)、FILE.77「魔法のアイテム」の3話のこと。夏美・美幸のコンビ関係、頼子・葵・夏美・中嶋の友人関係といったことが、美幸・中嶋のカップルを中心にふんだんに描かれている。(中嶋と葵がふたりきりで話すという珍しいシーンもある。)この段階からすでに『逮捕』の世界観をまとめにかかっていると見ることもできよう。
    19) 行為遂行的性質。行為遂行上の性質。
    20) もちろん爆薬のニトログリセリンのこと。瞬間的に強力な加速力が得られるため、ゼロヨンなど、短距離のスピードを競うレースで使用されることがある。一度使うとエンジンは焼き付いて、たいていは使い物にならなくなるという代物。トゥデイの場合、美幸がいちいち整備しているのだろう。
    21) 以上述べたような貨幣の性質について、今村仁司『貨幣とは何だろうか』(ちくま新書)参照。


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    「藤島康介の詩学」 | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark | |
    藤島康介の詩学|第3項・『逮捕』の血脈2 … モノの生涯
    (増補・再公開分)



    《藤島康介の詩学・目次》


     承前。

     前項では、中嶋剣の父親・大丸の「峠に道を聞く」という態度が、自転車に乗って「風と対話」するベルダンディーの態度に一脈通じているということを指摘した8)。これは、ベルダンディーの東洋的倫理観に通じる脈なので、かなり大きな血脈だといえるだろう。

     今回は、もうひとつの大きな血脈について見てみよう。それは、自然観/生命観に関わってくるものである。まずは『逮捕』の方から。

     とりあげるのは、FILE.31「1万回転のMONUMENT」である。

     昼休み、美幸は中華料理屋のにいちゃん9)から、ワゴン車の店鋪で売っていたという「マクラーレンのピストン」を貰う。それは滅多に手に入るものではないF-1の部品であり、美幸も一瞬心踊る。が、すぐにそれが模造品であることに気がつく。実際にはそれは国産のツインカムのピストンらしきものだった。10)そして、その直後に帰ってきた中嶋も、例のワゴン車で模造品のバルブを掴まされてしまっていた。大切な人まで騙されたとあっては美幸も黙っているわけにはいかない。彼女はひそやかに捜査を開始し、ほどなく一軒の解体業者に行き当たる。訪ねてみたところ、それは寂れた町工場で、元は自動車の系列会社だったのだがコスト削減により系列から切り離され、こんなことをやっていく以外途はなかったのだということだった。

     その時美幸は、参考用として置いてあった本物のF-1のピストンを手に、以下のように語りはじめる。


    「知らない人にはただの小さな金属の塊だけど、
    世界の誰よりも速く走るために生み出されて、
    圧送される大量のガスに、一千馬力の炎を点けるスパークプラグが、
    「彼」に、1分間に1万回の上下を強要するーーー
    そしてわずか2時間弱の、その生涯を燃やしつくした6個のピストンのうちのひとつ。
    それを手にした人は、焼けたレーシングオイルの匂いをかぎ、アスファルトのコースいっぱいに充満する爆音を聞くのよ。
    たかがピストンにすぎないけれど、ニセモノを売るっていう行為は、このピストンの生涯や生み出した人々に対して、あまりにも礼を失していると思うの。」


     メカに対する慈しみに満ちた美幸の態度を非常によくあらわしている言葉である。美幸の趣味はしばしば単なるメカマニアのそれとしか見られていないが、実はそうではなく、それは大丸たちの身体感覚と一緒で、そこにはたしかな倫理観が見え隠れしているのだ。

     マクラーレンか国産か、そういう部分ばかりに美幸が目を奪われていたのなら、それがニセモノだと気付かれることはなかっただろう。しかし、美幸は腕利きのエンジニアなので、手触りでわかってしまうのだ。それは触った感じが違った。彼女はその触った感じから、それがどういう生涯を送ってきたモノであるかを感じ取る。そしてそれは、きわめて過酷な二時間半を闘ってきたモノの手触りではなかった。まるで違うものが「マクラーレンのピストン」と呼ばれることにより、まったく異なる生涯が同列の交換価値を持つものとして扱われてしまう。それは実際に闘ってきた本物にたいして失礼ではないのかーーー。ニセモノを掴まされたということよりも、そちらの方が美幸には許せなかったのだろう。じっさい、無料でもらったものだから、経済的な意味で彼女が怒る理由はないのだ。手触りから伝わってくる「モノの生涯」が、「マクラーレンのピストン」という記号のもと無視されてしまう。そこを美幸は問題にしているのである。

     モノを大事にする、という感性が、消費社会の進行とともに後退して久しく経つ。もちろん、それは時の経済関係を反映していることであり、一定の合理性のあることではある。しかし、だからといって、それが完全に後退しきってしまうのはどうだろうか。すべてが既製の記号に還元されつくし、モノの生涯というものが省みられなくなり、いっさいが既製品の記号に還元されつくしてしまったとき、人はメランコリーに支配されることになるのではないか。

     美幸のまなざしはモノの生涯に向けられている。モノの記号=商品としての側面(=観念的に見られたモノ)にばかり目を奪われるのではなく、技術屋的なまなざしによってモノの生涯をまなざしているのだ。メカは何かを生産しつづけ、生産活動が不可能になったとき、その生涯を終える。美幸は技術屋として、その身体を通じてかれらとコンタクトし、その過程をまなざし、その生涯を慈しむのだろう。彼女は観念的な幻影を信頼しない。手触りでコンタクトできる、モノの生産過程を信頼し、そこに情熱を傾けるのだ。それは生産=創造活動であり、そうした側面こそがじっさいに価値を生み出すのである。


     ここで少し、思い浮かべることがある。

     「モノの時代からココロの時代へ」ということが言われるようになって結構長い時間が経過した。しかし、こうした一般によく耳にするまとめられ方は、こうした点から考えても完全に間違っている。少なくとも呼称が適切ではない。「モノの時代」などというが、それが実際にさしているのは1960年代の高度成長期からバブルの時代などの高度消費社会といわれた時代であり、いわば「記号=商品の時代」のことだ。記号=商品というのは交換価値だから、観念的なものである。

     たとえば、バーゲンで買った量産品のバッグとクリスチャン・ディオールのデザインしたバッグなどを比較したとき、その違いはどこにあるか。モノとしては、つまり物質としては両者は同じものである。どちらも牛革なのだから、元の牛の育ちの違いはどうあれ、その構成元素などはほとんど違わないだろう。ならば、物質的には同じ牛革でできているといっていい。では、両者の違いはどこにあるのだろうか。

     物質的には同じなのに価値に著しい違いがあるように見えてしまうのは、価格という観念的なものが働いているからである。もちろん後者は世界的に高名なクチュールが製作したものだから、製品としての仕上がりに大きな差異はあるだろう。しかし、例のバブルの時代にあふれたにわかコレクターたちすべてに、その実際上の違いが感覚的に実感できていたとは到底思えないし、ましてそれが価格の著しい差異を直接規定していたとは考えにくい。では、なぜかれらはブランドものをそんなにありがたがったのか?「ブランド」という付加価値があり、それを持つことが社会的なステイタスを伴っており、じっさいに高く売られていたからだ。つまり、その観念的な価値がそうさせていたのである。

     多くの人が「モノの時代」ということで言い表すのは、そういう観念的な差異ばかりが支配的だった時代のことだ。するとそれは、むしろ「ココロの時代」と呼んだ方が適切なくらいだ。なのにそれが「モノの時代」と言い表されてきた。なぜそうなってしまうのか。恐らくそれは、ひとがさしあたってたいていは、観念の差異をモノそのものの差異と勘違いしているせいだろう。そして、「モノの時代からココロの時代へ」という決まり文句を見る限り、その勘違いはいまだに続いている。すると、結局われわれはバブルの時代になにを勘違いしていたのか、いまだに認識しきれていないということになる。

     ならば、現状を変えるべきだと思うならば、向うべき方向がまったく逆である。ブランド的な観念の絶対主義からはなれ、具体的なモノ=生産関係に立ち還るべきなのだ。じっさい、「モノの時代からココロの時代へ」というフレーズで、時代はどう変わったのか。社会との繋がりをもてない「ココロ系」「セカイ系」の若者が増えただけではなかったか。そういう意味でなら、たしかに「モノの時代からココロの時代へ」という理念は実現されたともいえる。しかし、すくなくとも筆者には、それが健全な方向性だとはとても思えない。

     資本主義の世の中である。観念的なものの価値を追求して行けば、すくなくとも日本に住んでいるかぎり生きてゆくことはできるだろう。しかし、観念的なものは結局のところは記号である。記号はひとつの表象としてモノを代理するが、そのとき実際の「モノの生涯」はつねに記号の背後に退き、隠蔽されてしまう。そして、観念をモノそれじたいと取り違えた現代人が、背後に隠された「モノの生涯」に気付くことは決してない。そういう認識論的倒錯にどっぷり浸かっているうちに、人はマクラーレンのピストンと国産のツインカムのピストンの違いもわからなくなってしまうのだ。たしかにそれは、多くの現代人にとってさしあたってたいていはどうでもいいことだろう。しかし、こうして観念の海に溺れ感性を鈍麻させているうちに、われわれはなにかを決定的に喪っているのではないだろうか。

     そういう問題意識において先のエピソードをみるとき、美幸の問題意識が何に向かっているのかが明らかになってくる。あるいはそれは、こうした現代的なものに対するアンチテーゼなのかもしれない。11)

     このように、美幸のメカいじりは倫理的意味を持っている。そしてそれは、やがて生命観/倫理観にまで昇華され、藤島作品の根幹を為すに至るだろう12)

     こうした美幸の倫理観は、もちろん『ああっ女神さまっ』に受け継がれている大血脈である。以前僕は、「ベルダンディーの宇宙観と生命観 | 『ああっ女神さまっ』解読の試みとして」という記事を書き、ベルダンディーの言動に含まれる哲学的な含意を引き出そうとしたことがある。そこで触れたのはおもにベルダンディーの生命観だが、他者との関係のあり方という意味で倫理的な含意を持つものでもあった。もちろん、美幸の技術屋的倫理観をもっとも正統に受け継いでいるのは森里螢一や藤見千尋だが。


    第4項「ピリオド」につづく

    -----------------------------------------------------------------------------------------------------

    8) 付け加えると、『ああっ女神さまっ』23巻に登場する螢一の父・桂馬は、最もストレートに大丸の路線を受け継ぐキャラクターであろう。
    9) 比呂川という名前?
    10) ピンと来ない人もいると思われるので一応説明しておくが、同じピストンでも、F1のものと市販車のものとでは貴重さが全然違う。美幸の台詞にも表れているように、F1のエンジンは注目度が高い上に稼働環境が過酷であるため、メーカーの技術の粋が尽くされる。加えて、大変レアなものでもある。なにしろF1のエンジンは、極端な話各チーム2セットずつしかないし、それも各レース一回こっきりの使い捨てのものとしてつくられているのだ。
    11) 余談だが、ここまで書いたあと、経済学に通じた友人から、「これは労働価値説の復権か?」と言われた。書いた時点ではっきり意識していたわけではないが、言われてみれば確かにそう読める。社会契約説が復権を見る時代である。もちろん、素朴な労働価値説に回帰するだけでは仕方ないのだが、そういう方向性があってもいいだろう。いまさら消費社会論が画期的なわけでないことは、バブル経過後なのだから、そろそろ学習しないといけない。
    12) したがって小早川美幸はバイクや四輪をいじる人でなければならないのだ。この点は作品の根幹を為すところなので、そこが違ったらまったくの別作品になるといっていい。



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    藤島康介の詩学|第2項・『逮捕』の血脈1 … 全身の対話
    (増補・再公開分)


    《藤島康介の詩学・目次》


     承前。

     前項で僕は、藤島康介の作風の自立に、『逮捕』の血が関わっているということを指摘した。しかし、この時点ではまだ、仮説として提示するには弱いだろう。「時期の一致」という根拠しか挙げることができていないのだから。『逮捕』の完結が藤島康介の作風の自立にいかに深く繋がっているか、それを検証するためには、もっと積極的な論拠を見出す必要がある。

     では、『逮捕』の血は、実際どのようにその後の藤島作品に流れているのだろうか?まずは、その点についてざっと概観してみたい。

     とはいえ、『逮捕しちゃうぞ』も『ああっ女神さまっ』も、長年にわたって連載されてきた大部の作品である。『逮捕しちゃうぞ』で6年弱、『ああっ女神さまっ』に至っては19年も連載を続けてきて、いまなお連載継続中の作品である5)。そのなかから「血脈」をひとつひとつ網羅的に拾っていったら多すぎてキリがなくなってしまうので、とりあえずは、代表的なエピソードを抜粋して紹介しよう。

     まずは、FILE.66「お母さんは20歳」から。

     この話は、中嶋剣の年下の義母、瀬奈が初登場する話である。このエピソードのなかで、中嶋は瀬奈に買い物に連れ出されるが、その途中、瀬奈の口から、剣の父・中嶋大丸と彼女の馴れ初めについて語られるシーンがある6)

    中嶋「なあ」
    瀬奈「え?」
    中嶋「なんで親父と結婚する気になったんだ?」
    瀬奈「ふふ」
    瀬奈(回想シーン)「初めてだったわ、私の庭ともいえるあの峠で負けたのは。しかも二輪によ。ショックだったわ。
     駐車場で休んでた彼に”ずいぶん走り込んだのね”って言ったら、
    『いや、今日初めてだよ。俺は峠に道を聞いて走ったのさ。』
    その時あの人の人間の大きさを感じたの。」
    ・・・(回想シーン終わり、引き続き瀬奈の台詞;引用者)
    「それ以来、私の心はあの人に釘付けよ。」

     大丸は息子である剣にバイクのテクニックを教えた凄腕のライダーであるし、この話で初登場する瀬奈は、ケーターハムスーパー7という、小振りな車体ながら180馬力の出力を誇り、峠では最速と言われる車を愛車とする走り屋である。また、ふたりは単なるバイク/車マニアにとどまるわけではなく、走ることにおいて独自の美意識と倫理観を持っている点でも共通している。そんな二人の出会いも、やはりそれぞれの愛車の上だったわけだ。

     引用箇所によると、瀬奈が大丸に惹かれたのは、大丸が初めて通る峠を、始めてであるにもかかわらず、そこを「自分の庭のように」、走り慣れている自分よりも慣れた感じで走ったからだったわけだが、大事なのはなぜ大丸にそれができたのかということだ。

     曰く、彼は「峠に道を聞いて走った」。つまり、大丸は「峠に道を聞く」ことができる。いいかえると、バイクに乗る時、周囲の環境と自分から「対話」することができる。そこに瀬奈は、「人間の大きさ」を感じたわけだ。それは大丸、ひいては作者自身が実際にバイクに乗るときの身体感覚に起因するものであり、いわばライダーとしての藤島の肉声である。

     とはいえ、これは非常に簡潔な表現である。それは簡潔であるがために、ある種の爽快さを感じさせてくれるところがある。それは独特のグルーヴ感を醸成するもので、そこが初期藤島作品の魅力のひとつとなっている。ただ、簡潔であるということはその分、詳しく読むには手がかりが少ないということでもあり、読解のためには親切とは言えないことで、そこは難しいところだ。ただ、ある種のセンスがここで表明されているということは確かにいえるだろう。

     ところで、こうしたセンスは、のちの『ああっ女神さまっ』にて、濃厚かつ意識的に受け継がれている。以前僕は、「東洋の女神?」という記事を書いたことがあるのだが、そのなかでこの点について触れている。そのとき僕は、ベルダンディーが、スクルドたちに自転車に乗ることの魅力を話す場面について触れた。すこし引用してみよう。


    ベルダンディーは言う。(13巻、Chapter.73「イジワルお姉さまっ」p.22)

    『自転車は自分から踊る風と対話できるのよ
     時に激しく また穏やかにーーー
     季節のうつろいと共に 風の密度が変わるのがわかる
     周りを包む流れる緑や雲も
     全て自分の脚から対話が始まるのよ
     ・・・
     だから、わたしは自転車がとっても好き』

     風の密度、周りを包む流れる緑や雲、、、
     いずれも、西洋的観相からは出てきそうにない感覚だ。
     全身で自然と「対話」する、という感覚。
     まさに自分を自然に同化させているのである。
     東洋的感覚に包まれる「現在」の女神。
     彼女の言葉はじつに似つかわしいものだ。


     上のベルダンディーの言葉を聞いたスクルドと螢一は、うっとりと聞き入ってしまう。瀬奈が大丸に感じた魅力は、バイク乗りの身体感覚とそれが導いた結果であり、さらにはそのすべてを実現した大丸の「人間の大きさ」だった。それに対し、この詩的な表現において語り出されているのは、ベルダンディーが自転車に乗るにあたっての、ほとんど作法にまで昇華された身体感覚である。勿論これも、みずから動かす乗り物に乗るときドライバーに訪れる身体感覚であり、それはじっさいに自転車に乗る体験と切り離せるものではない。ベルダンディーの口から表明され、スクルドや螢一を魅了しているのは、その感覚なのだ。その意味では、彼らの感じた彼女の魅力は、瀬奈が大丸に感じたものと共通するものといってよい。

     かつて触れたように、そこには東洋的倫理観を垣間見ることができる部分だ。自然と自己とのあいだに絶対的な距離を措定してしまう見方では、この微妙な感覚のほとんどを捉え損なってしまうだろう。まあ、西洋と東洋という分け方がかならずしも適切とも思わないが、このさいそれは措いておこう。とりあえず、マテリアル同士のコンタクトとしての身体感覚が、とりわけバイクに乗るという行為7)を通じて突出しているということは確かにいえることだ。

     そしてその感覚は、たんに身体感覚であることを超え、乗り手の「人間の大きさ」を伺わせる本にもなっている。つまりそれは、乗り手がその身体感覚を通じて環界としての自然とある種の関係に入ることができることを示しているわけで、そうした能力あるいは作法というものが「人間の大きさ」というかたちで瀬奈、あるいはスクルド・螢一に伝わっているのだ。そしてそれは、行動における理想的なあり方、即ち倫理の提示ともなっていて、話を聞く者に対し現実の行動を要請する。じっさい、以上の如く「自転車に乗ることの楽しさ」を教えられたスクルドは、同じエピソードの続きの部分で、自ら進んで自転車に乗る練習をすることになる。

     以上のことから、大丸とベルダンディーと間には、共通する倫理観が流れていることを指摘することができる。そのことは、螢一が中嶋剣を引き継ぐキャラクターであるという見方にも通じてくるだろうし、それはやがて、藤島康介の自然観/生命観にもつながってくるだろう。

     ここでやっと本題に戻ると、1992年以降『ああっ女神さまっ』において際立ってくるのは、こうした香気である。次の項では、もうひとつの例を見てみよう。


    第3項「『逮捕』の血脈2 … モノの生涯」につづく

    -----------------------------------------------------------------------------------------------------

    5) 2007年4月現在。
    6) テレビアニメ第一期FILE.17「20歳のあの娘はお母さん」では、夏実と美幸の部屋で、2人に聞かれて話している。1シーン特別に用意することにより、このエピソードをよりクローズアップすることに成功している。
    7) 原動機の有無は、恐らくあまり関係ないだろう。ただ、いまのところ4輪に対し2輪が、また完全に覆われた4輪よりもコンバーチブルタイプの4輪が優位にあるということは、指摘できるところである。「まわりの風との対話」という感覚に訴えるかぎり、やはり剥き出しの度合いの強いものが重視される傾向があるのも理の当然なのかもしれない。


    「藤島康介の詩学」 | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark | |
    藤島康介の詩学|第1項・作風の自立
    (増補・再公開分)


    《藤島康介の詩学・目次》



     『逮捕しちゃうぞ』をきちんと読むのは、以外と難しいことだ。

     そのことは、執筆時期にも関係があると思われる。それが今回の出発点だ。
     藤島康介の作風が師匠(江川達也)の影響圏を脱して本格的に自立しはじめるのは、1991〜1992年頃であるといえる1)。それ以前のものは、江川達也『まじかる☆タルるートくん』を思わせるようなドタバタ感があった。コマ毎の情報量が多かったためだ2)

     僕はわかりやすいように、『ああっ女神さまっ』の背表紙のデザインが赤から青に変わった辺りをもって自立の地点とする。しかし、それは藤島風の成立が決定的になった時期のことであって、移行そのものは1991年にすでに開始していた。

     他方、『逮捕しちゃうぞ』の連載終了は1992年である3)。つまり、ちょうど移行期間を開始する辺りの時期に、『逮捕しちゃうぞ』は連載終了しているのだ。

     このことは単なる偶然とはとても思えない。何らかの必然性があると考えるのが自然だろう。そう思って読み比べていたら、パーティーKC版第7巻(最終巻)のカバー折り返しで、作者本人が以下のように言っていた。


    みなさん、いよいよ最終巻となってしまいました。おかげ様で、大変思い出深い作品となりました。”逮捕”はこれで終わりですが、他の作品にも”逮捕”の血は流れ続ける事になるでしょう。

     一見、ありふれた決まり文句に過ぎない言葉であり、それだけに僕らは軽視しがちになる。しかし、このありふれた言明が単なるリップサービスではなかったという事は、その後の『ああっ女神さまっ』にて証し立てられてゆくことになる。

    小早川「正義って正しい事って意味だけど、それを守る事は思った以上に難しいのよ4)。」
    (原作FILE.71,アニメ第一期FILE.18,「遊撃ストライク少女隊」にて)

     ありふれたこと、あたりまえのことを最も素敵なかたちで実現する。思えば、『逮捕』の良さというのは、そういうところではなかっただろうか?


    第2項「『逮捕』の血脈1 … 全身の対話」につづく

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    1) その意味で僕は、内藤泰弘氏とほぼ同意見である。くわしくは月刊アフタヌーン2003年1月号の巻頭対談を参照のこと。
    2) 情報を担った表現要素が一定の単位文節内に多ければ多いほど、受容時の印象は雑然とした感じになる。(漫画なら、それは「コマの中の表現要素の多さ+コマ割りの細かさ」で決まる。)そういう傾向のものは、様々な情報、意匠を盛り込むことができるので、ナンセンスギャグ作品には向いているのだが、雑然としている分物語の幹が埋もれ易くなるので、メッセージを担わせるストーリー作品には向かない。
    3) 最終巻の発行が1992年5月23日。
    4) 逆に、これを簡単だと言う者は、ストライク男と同レベルということになるだろう。原作FILE.71参照。


    「藤島康介の詩学」 | 23:59 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark | |
    藤島康介の詩学|はじめに

     これよりアップするのは、僕が約5年前に某所にてネット公開した文章に、増補改訂のうえ新章二つを加えたものである。

     なにしろ約5年も前のものである。これを再公開するのは正直、躊躇した。それでもアップする気になったのは、先日読んで、約5年も経っているというのにその後読解や認識において本論考より大した認識や読解の深まりがないことが分かり、悔しくなったのと、それでも的はずれな読解ではなかったという程度の自信は持つことができたからである。そして僕は、あらためて藤島康介とそのふたつの代表作について再考し、批評を書くことにした。そしてそれは、かつて公開した文章の追加部分として書くのが適切と思われた。したがって今回、ほこりをかぶっていた旧論考に手を加え、新章二つを追加して公開するものである。

     しかし、ネットで読むにしては大変長い文章である。したがって、アップは分割して行うこととし、一斉アップとアクセスの便宜のため過去の日付のエントリーとしてアップすることにした。以下、本論考の目次である。


    《目次》

    1 作風の自立
    2 『逮捕』の血脈1 … 全身の対話
    3 『逮捕』の血脈2 … モノの生涯
    4 ピリオド
    5 トゥデイ
    6 軽やかな夏実、不自由な美幸、そして……(新規執筆部分)
    7 媒介から隣の他者へ … 「女神」の発見(新規執筆部分)

    Intermission 『ドラえもん』との関係(新規執筆部分)



     尚、これはあくまで現在までの執筆部分であり、今後第8項以降が追加される可能性がある。その場合、適宜この目次に追加してゆくこととし、また、各項冒頭の括弧書きにおいて目次へのリンクを張っておくこととする。本論考を読もうと試みられる奇特な方は、そちらをご利用されたし。

     それでは、第1項からどうぞ。


       2007年4月27日


      よく晴れた月夜に 夜半



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