Cause we are the ...

La ricerca della morale che non dipende da una cosa della trascendenza...
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交通整理|混迷の果てに
前のエントリを書いて気が楽になったので、もうひとつ宿題を片付けてみる。

話が平行線を辿ったまま用語法が混乱し、落とし所を見失っていた、宇根君との一連のやりとりをひとくぎり付けてみようと思う。


(追記 2008年10月2日 リンクミスを修正しました。)
 

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Un passage fragmentaire|断章 | 03:07 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark | |
レジーム先行とジャーゴン:後藤和智『おまえが若者を語るな!』をダシにして
近頃ちょいちょい覘くようになったブログで、面白い記事を見つけた。

後藤和智『おまえが若者を語るな!』 - logical cypher scape

最近話題になっている本の書評記事であるが、まあ、この本自体はリンク先冒頭の

これは、悪口が書いてある本である。


の一言に尽きるような代物である。後藤氏といえば、本田由紀氏らと組んで俗流ニート論批判を行っていた人で、それなりに面白いものを書く人だと思っていた。それだけに、こういうスタイルの本が出てきたのを見て「なあんだ」という思いが一瞬僕の頭をよぎったのは事実である。尤も、そうはいってもこの本でも後藤氏なりの一貫した問題意識による構成は表れているわけで、お前も佐高や日垣と同じ轍を踏むのか、という心配はとりあえず不要ではあるわけだが、さて、それにしても、というのが残る。


 とはいえ、
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Un passage fragmentaire|断章 | 02:43 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark | |
そして少佐はネットの海に消えた…|必然に抗う主体の往還二廻向
以前のエントリ「人は低きに流れ、そしてベヒモスに飲まれる?」に関する話の続き。
http://nornsaffectio.jugem.jp/?eid=77#comments

この話は、下のリンク先の記事から続いているものです。
http://nornsaffectio.jugem.jp/?eid=42#comments

ところで、タイトルのネタ元は、…言うまでもありませんね。(記事最後尾参照)

さて、話を続けましょうか。。。



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Un passage fragmentaire|断章 | 03:01 | comments(4) | trackbacks(0) | pookmark | |
土用丑雑感
先刻、ウナギを待ちながらアフタヌーン9月号を読んでいたのだが、そのなかで以下のような記述を見かけた。122頁である。


持ち味は直球より変化球。
豊田徹也そろそろ本領発揮?



7月号からはじまった豊田徹也の新連載、『珈琲時間』の最終頁の欄外下の言葉である。編集の方が書いていると思われるのだが、妙に既視感のある言い回しだ。


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Un passage fragmentaire|断章 | 21:09 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark | |
人は低きに流れ、そしてベヒモスに飲まれる?
先日寄せられたコメントへの返答です。(下にリンクするコメント欄参照)

http://nornsaffectio.jugem.jp/?eid=42#comments


(文中に登場する「1月18日の日記」については、リンク先の双方の記事を参考にしてください。)
続きを読む >>
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自由をめぐるヴェイユとスピノザの邂逅
ちょっとした読書メモ。

一時は誰もが無神論者と信じて疑わなかったスピノザと、不在の神を待ち続ける思索者・ヴェイユを結びつけることは、ひょっとしたら突飛な考えと見えるかもしれない。しかし、ヴェイユの論述にはスピノザを意識して書かれたとしか思えない箇所が頻繁に出現するし、両者とも他人を惹きつけてやまない壮絶な生き方をしたことで知られている。『自由と社会的抑圧』の献辞はスピノザの『国家論』から採られているが、どうもそればかりではないような気がする。

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さて、同著にてヴェイユは言う。


恣意的な行為は判断にもとづかない。よって厳密な意味で、自由な行為とは呼べない。(p.84)


この記述は『エチカ』第四部を思い起こさせる。そこにはあまりにも有名な序文がある。「感情を統御し抑制する上の人間の無能力を、私は隷属と呼ぶ。なぜなら、感情に支配される人間は自己の権利のもとにはなくて運命の権利のもとにあり、みずからより善きものを見ながらより悪しきものに従うようにしばしば強制されるからである。」つまり、感情に流されるままの行為、恣意的な行為は「自由な行為とは呼べない」のである。それには知性にもとづく判断が欠けている。では、判断とは?


いっさいの判断は客観的状況を対象とする。したがって必然の網目を対象とする。生きている人間は、なにがあろうとも、頑として揺るがぬ必然に四方から圧迫されつづける。とはいえ、人間は思考する。ゆえに、必然が押しつけてくる外的刺戟に手もなく屈するか、みずから練り上げた必然の内的表象に自身を適合させるか、というふたつの選択肢を有する。ここにこそ隷従と自由の対立がある。(p.84)


必然は「頑として揺るがぬ」ものだから、どう足掻こうともわれわれを拘束しつづける。つまり、必然の圧迫から逃れる術はない。このとき、必然からの解放をもって自由を定義するならば、自由はどこにもないことになる。しかし、ヴェイユはそのようには考えない。必然の網目はわれわれの周囲すべてを覆っている。しかし、隷従と自由の対立は、その前提の先にある。僕らを拘束しつづける自然的、社会的拘束という必然に「手もなく屈する」か、それとも「みずから練り上げた必然の内的表象に自身を適合させる」かによって違ってくる、と。どういうことか?


肉体の非理性的な反作用にせよ、他者の思考にせよ、あらゆる仕草が自身の思考以外を源泉とする場合、その人間は完全な奴隷である。挙動の逐一が五臓六腑をえぐる痙攣から生まれる飢えた原始の人間、笞を手にした監視人の命令につねに身構えているローマの奴隷、流れ作業で働く近代の労働者は、このみじめな極限状況に近づく。完全なる自由については、しかるべく解かれた算術や幾何学の問題のうちに、抽象的な範例をみいだせる。(中略)完全に自由なる生とは、あらゆる現実的な困難がある種の問題として呈示され、行動に移された解答が勝利を意味するような生だろう。そのとき成功の要素はすべて与えられるだろう。いうならば数学者の記号群のごとく、既知にして操作可能なものとして。(P.85)


ここでヴェイユが完全に自由な生について数学を持ち出していることが興味深い。数学の問題もその解答も、論理的必然によってすべてが展開するという意味で、必然に支配された世界である。しかし、解決の糸口が問題に内在するものでしかなく、しかも解決に到るときおのれの判断にしか頼ることができないとき、数学者は状況を知的に支配している。結局は必然にしたがってなるようになっているに過ぎないかもしれないが、状況に知的に関わっているのだ。そして、その限りで彼は自由である。

つまり、自由は徹底的な認識とともにあるということである。揺るがぬ必然に囲まれて生きる僕たちにとって構想しうる自由は、こうした種類のものでしかありえないのではないか。そのように考えたとき、ヴェイユの考え方はスピノザの「神への知的愛」という考え方にきわめて近いところにある。(了)

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PS
因みに、シモーヌの兄アンドレは、ブルバキ代数の中心人物の一人である。
Un passage fragmentaire|断章 | 00:27 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark | |
ちゃんと読者をするということについて

(旧サイトからの転載)

今晩は。

何というか、ウンザリついでにものを書いていると、ついついはしょった言葉遣いになったりして、「手紙」が「届か」ないことがあるというか、実際そんなケースばっかなんだけど(苦笑)、それが自分ではじめたやりとりだった場合それなりに応じるのも義務というわけで、こればっかりは仕方がないよね。

何のことかというと、先日気まぐれでエントリー「共同体の排他性ーガンダム好き「に」共通する論調?」をアップしてみたわけだけれど、「ちゃんと読者をやる」ということについてもうちょっと説明しておいた方がいいかなと思ってね。まあ、どんなテクストにも誤読可能性というものはあるわけだし、誤読の自由は他の誤解と両立する限りにおいてのみ自由だけどね、あんまり相手の読解力に過大な期待をしてもいけないってことか。いや、あんまりイジワルして端折らないほうがいいってことかな。こうしてまた書く羽目になるわけだし。忘れてたよ、ガンダムマニアが「木を見て森を見ない」ニンゲンだってこと(苦笑)。

さて、「ちゃんと読者をする」とはどういうことか?

まず、小説や学術論文なんかの場合は「読む」というし、映画やテレビなどの場合は「視聴する」というわけだけれど、どちらも言語記号や映像記号(あるいはイコン、アイコンとも)などの記号によって構成されている。しかし、僕らが記号から意味を読み取る行為をする場合、文字通り「読む」という言い方をする。だから僕は、ものがアニメだった場合でも「ちゃんと読む」、「読者をする」という言い方をすることにするということを断っておくよ。あと、それぞれの「表現されているもの」のことを、総じて「テクスト」と呼んでおくことにしよう。

さて、斯様な意味において「読者をする」という言葉は、たんに文字情報やら映像情報を視界に入れることや音声情報を耳に通すということ越え、そこからなんらかの意味を読み取ることを示す。当たり前のことなんだけど、しかし、ここにじつは困難の源泉が潜んでいたりする。どういうことかというと、「意味を読み取る」といっても色々なレベルがあって、ただたんに単語のレベルで反応するという段階があれば、その上位には文のレベルで反応するという段階があり、その上位には文脈、さらにその上位には文章単位で「意味を取る」という事が問われてくる。ガンダムみたいなアニメでも同じことはいえて、(1)MSとか何かの個々の画像表象単位、(2)シャアとアムロが対話するというようなカット単位、(3)「第1話:ガンダム大地に立つ」などの各話数単位、(4)ファーストガンダムなどのシリーズ単位、(5)さらには、’ガンダムシリーズ’と呼ぶ場合の通シリーズ単位と、こんなところかな。

さて、こうしてレベルの異なるさまざまな表象単位には、それぞれ固有の意味があると僕達は考える。というより、そういう風に言語というものはできている。アニメだって言語みたいに構造化されているわけだから事情は一緒だね。ともあれ、そういうことになってくると、各表象単位ごとに意味があり、それが複雑に絡み合ってくるわけで、テクストの「意味を取る」といっても果たしてどのレベルで「意味を取」ればいいのか迷いがちになる。まさにテクストは樹海のような複合体となってしまうわけだ。だから、「読者をする」と僕なんかが言っても、じゃあどのレベルで意味を取ればよいのか、聞き手は迷ってしまうことになる。

そうなると、なにか手がかりがほしいよね。そこでひとつ仮定を置いてみよう。テクストというのは作者がプロデュースする単一のものであり、作者から読み手にメッセージを送る行為としてあらわれるものだ(プラグマティズムの格率)と。要するに、本にしろアニメにしろ、テクストというものは作者から送られてくるメッセージということなんだ。手紙をイメージしてみればいい。

さて、この仮定に従って、先の「ガンダムファンはちゃんと読者をやることを怠ってきた」というメッセージの意味を再考してみよう。まず、これはガンダムに限らないんだけど、「ちゃんと読者をやる」ということは一定のリテラシーを必要とすることで、しかも現代日本人はその能力が低下しているという指摘があって、ガンダムのケースもその一環なんだね。たとえば、いまや日本語のネット社会において重鎮とも言うべき存在となった糸井重里氏は、かつて宮崎駿との対談でこんなことを言っている。(強調は夜半による)

宮崎:不幸なことなのかもしれないけど、自分がもし涙流したら、いったいこの涙なんだろうと思ってね、立ち止まるのがほんとはこういう社会で生きている若者のやることなんですよ。わたし泣きました、っていうのだけでは、ちょっとね。
糸井:ま、それも趣味ですからね。
宮崎:だから自分の映画観に行くのが辛いんですよ。お客さんと一緒に観るのはね。
糸井:泣くだの、笑うだのは単なる自己主張なんですよ。映画作っている人にとっては、それを楯にとって映画評をされたのではたまらない。単に映画館の客っていうんじゃなくて。もっと、なんでだろうと考えて、読者をちゃんとやれる人って、いま少ないんですよ。
宮崎:アニメーションっていうのは、どんなにくだらなくてもファンは必ず生まれるのね。特に思春期の人間は、ほんのわずかその時の自分の気持ちと合うと、もう全部許してくれる。それで手紙をくれたりするでしょ。だから、現場のほうが、正確に自分たちを見る能力を失ってるのね。それで、評論活動をちゃんとやらなきゃいけないんじゃないかって話になるわけ。

(宮崎駿『出発点―1979~1996』P.378,徳間書店、下にAmazonへのリンクあり)

なぜ、泣くだの笑うだのを「楯にとって」評価をされたのでは「たまらない」のか?どうして「なんでだろう」と考える読者を持たない作者は不幸なのか?なぜそれが、「ちゃんと読者をやる」ということにならないのか?

僕はこう考える。先の仮定に従って考えると、作者がアニメーションをつくるとき期待しているのは、自分が作品に込めたメッセージがきちんと読者に届くことだといえる。なにしろ、創作という行為の本質がそうなんだから。となると、メッセージがきちんと「届かない」状態は、作者にとって不幸だということになる。開封されないことを予期して手紙を送る人はいないでしょう?

要するに、創作に携わる人は、なにかメッセージを送りたくて作品という封書を送る。そして、その封書を開封するという行為は、僕たちが作品をちゃんと「読む」ということ、つまり作者のメッセージをキャッチすることなんだ。しかし、いまやこの封書=作品はどんどん複雑になり、総体としてそれを把握し、きちんと合理的な意味を取るということが非常に難しくなっている。「開封」するのも大変なんだ。開封、つまり「きちんと読者をやる」ためには、時としてかなりの読解センスや教養が必要になる。本だってたくさん読まなくちゃならない。

しかし、それはとても大変なことだから、大概の人は「きちんと読者をやる」労に堪えられず、逃げる。その方が楽だからね。Read or die (読め、さもなくば死ね)という言葉があるけど、大概の人はそういう”死を賭した決断”なんかには堪えられず、どっちつかずのところにに引っ掛かって宙ぶらりんになる。つまり、手紙の封を開けないまま放置してしまうんだ。ハイデガーのいう'das Man'だね。

しかし、多分寂しいんだろうね、なかにはただ単に「宙ぶらりん」でいるだけでは我慢できなくて、手紙=作品をおもちゃにしはじめる輩まで出てきてしまう。その結果、次のようなことが起こる。作者は必死になって手紙=メッセージを送り続けているのに、読者に届いても開封もされず、放置されてしまう。それどころか、開封もされない手紙と戯れて遊びはじめてしまう。……作者が嘆くのも当然だよね。

考えてもみなよ。たとえば誰かが富野さんという人から手紙をもらったとして、その封書がとても見事な体裁だったとしよう。その人が、その手紙をありがたがるのはいいんだけど、そのあまり「富野さんから手紙が来た〜」と喜んで、開封もしなければ読みもしないまま、あるいは開けても読むこともなく「美しい字だ」とか言って、御輿に祀って担ぎ回ったらおかしいと思うでしょう。しかし、これまでガンダムファンがやってきたことはそういうことなんだ。彼らは『ガンダム』を読まずに祀ってしまっている。それを富野さんはずっと(それこそΖくらいの頃から)気に食わなくて、悩み抜いた末に(ばからしくなったのか)リアリズムを放棄することに決めてしまった。ファンのせいで。

そして、ファンの乱痴気騒ぎは数十年を経てすでに公認されたという空気が生まれるまでになった。そんなとき、その乱痴気騒ぎのレベルに合わせ、後継者が薄っぺらなメロドラマを『ガンダム』と銘打って送り出すまでに事態は悪化したというわけだ。僕も含めてseedを批判する人(特にいい歳をした人)は、こんなものができてしまったのは半分は自分たちのせいだと思った方がいい。

さて、ここまで僕はガンダムファンの頽落 Verfallen を口を極めて批判してきたけど、この僕のメッセージを受け取りそこなって「じゃあどうしたらいいんだ」と思う人もいるんじゃないかと思うんだよね。本当ならそういう人をこそ説得するべきなんだろうけど、こっちは本当、We're not the ones who're meant to follow.For that's enough to argue.と言うだけにしておきたいんだよね。「恩寵をもたぬ人間が義人となるのを待っていられるものではない」ように、<ゆりかご=世界>なニンゲンが主体性を持ちはじめるのを待っていられるものではないから。ま、元々気まぐれではじめたどうでもいい話だし。

じゃあ、ちょっともう厭きちゃったので、今宵はこれくらいにしておくよ。おやすみ。


【追記 2007.2.14】
やっぱりちょっと不正確だと思うので、(プラグマティズムの格率)の部分をスラッシュで消すことにしました。というのも、かの表記は文の前段には掛からず(テクストの単一性とは一切関係ない)、後段には掛かりますが、本来の意味でいうならあのような意味に限定されるわけではないと思われるからです。参考までに、野家啓一先生は<プラグマティズムの格率>のことを、「思考を疑念から出発して信念の確定に至る一連のプロセスとして捉え、信念を心理状態ではなく<行動の規則>として解釈しなおす」態度と定義されています(木田元編『現象学事典』弘文堂、「パース」の項目による)。

【追記 2007.3.27】
ガンダムシリーズそのものに関する具体的な話を聞きたいという人はこちら(→「ガンダムシリーズ諸作品に関するメモ」)をお読み下さい。



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PS.
これまたどうでもいい話なんだけど、西欧に行くとこれまた話が逆なんだよね。あっちは「手紙は届く」という信念が強すぎて、「届かない」可能性や「間違って届く」可能性にまで頭が回らない。だから、デリダみたいな人は、あえて宙ぶらりんになって、「届かない」可能性や「間違って届く」可能性を態度で示し、逆説的に読解の責任を問うといったことをする必要があった。しかし、日本で同じことをやったら単にオタク肯定ということにしかならないよね。西洋人から見たら余程異様に見えるだろうね、東のはじっこのこんな状況。

Un passage fragmentaire|断章 | 18:31 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark | |
<ゆりかご=世界>なニンゲンたち

(旧サイトからの転載)

今晩は。

今宵は随分温もっていて、僕の季節ももうすぐ終わりかな、などとつい柄にもないことを考えてしまうよ。猫も化けるほど生きていると色々なことにウンザリするようになるものだということはtopでも言ったけど、おかしなことに、何か物事にウンザリしている時の方が饒舌になったりするらしいということに最近気が付いた。うろ覚えだけど、煩悩が肉体の組成を導き、ひいては輪廻へと至るという仏教徒とかいうニンゲンの言うことが本当なら、マイナスの情念と生命のエネルギーとの間には密接なつながりがあるのかもしれないね。

とまあ、それは半ば(?)冗談として、昨日あんなのを書いたせいで、気も進まないのに言葉が出てきて仕様がなくてね、もうちょっと余計なことを書いておこうかと思った次第。

それにしても、この東のはじっこの島、「ゆりかご」への固着が並々ならないニンゲンが多いよね。ろくすっぽ説得術の基礎も踏まえず舌足らずなレトリックを弄した挙げ句、あらぬ受け取り方をされて嘆くということを繰り返している困った学者先生(かりにAさんとしよう)がいるかと思えば、仲間同士”濃い”話題で盛り上がっている人たちを横目で見て羨んだ挙げ句、仲間に入れてもらおうと半端な知識で口を挟んでけんもほろろの目に遭い、その恨み言で一本文章を書いてしまう厄介なお嬢ちゃん(同じくBさん)もいるみたいで、いやはや。まあ、それじたいは別にどうでもいいんだけど、そういうのを見てちらっと思った。ひょっとしてこの世界の辺縁に棲んでる人たち、自分の話は誰にでも通じるということを前提にして生きているんじゃないか、あるいは、自分の求める状態はねだればいつでも与えられると思って他人と接しているんじゃないかってね。

僕の尊敬する知己はかつて、「ねだるな、勝ち取れ、さらば与えられん」なんて言ったものだけど、とりあえずこういう類の認識はさっき言ったような人たちには縁遠いものらしい。要するに、Aさんの場合は聞き手の理解を、Bさんの場合はいわば共同体の承認を求めているわけだけれど、両者に共通しているのは、その欲望の対象を「勝ち取」ろうとしている形跡がまったくないということだ。Aさんは舌足らずなレトリックに自足しているだけだし、Bさんは共同体の”濃い”話題をまともに身につけようともせず、共同体の通過儀礼を知ったかぶりでやりすごそうとしている。これは、それぞれの欲望の対象を「ねだる」行為であって、「勝ち取る」行為ではない。要するに、ろくすっぽ努力しなくても手にはいると思っているってこと。対象を獲得するために、じぶんから積極的に仕掛けていく必要性を感じていない。だから、周到に準備をすることもない。それで失敗している。

じゃあ、どうしてこうなるんだろう?

つまるところ、かれらの基本的な認識の部分に誤謬があるんだ。この世界、話が通じる相手より通じない相手の方が圧倒的に多いし、自分と近しい他人よりもよそよそしい他人の方が圧倒的に多い。世の中、僕みたいに意地悪な読者はいっぱいいるし(苦笑)、与党に対する野党みたいに、腹に一物あってわざと誤読(!)しようと待ちかまえている輩もいっぱいいる。それがこの腐った世界の常態だ。ならば、自分の主張を理解させようとするなら弁論術の基本くらいは押さえ、相手を説得することについていっぱしの戦略くらいは持っておくべきだし、共同体からはじかれた疎外感を克服しようと思うならきちんと通過儀礼をこなすべきだということになる。そうしなければ通じない相手には永久に話は通じないし、よそよそしい他者はよそよそしいまんまで終わるからね。

ところが、AさんとかBさんみたいな人はこういう認識を欠落させている(あるいは信じていない)。そのかわり、逆のことを信じている節がある。Aさんでいうなら、たとえ舌足らずな表現でも聞き手はなんとか理解しようと努力してくれるから大丈夫とかたく信じているし、Bさんでいうなら、たとえその場しのぎの半端な同調であってもみんな親切で仲間に入れてくれるとかたく信じている。もうこれはかれらの無意識の部分にまで浸透していて、何も考えなくてもかれらはこの信念を前提に行動してしまう。だから、話をしても誰も説得できないし、いつも疎外感におびえていなくちゃならないことになってしまう。

じゃあ、この逆さまな信念って、いったい何なのか?

さて、ここで例の信念を僕がどう表現したかをふりかえってみよう。曰く、「たとえ舌足らずな表現でも聞き手はなんとか理解しようと努力してくれるから大丈夫」、「たとえその場しのぎの半端な同調であってもみんな親切で仲間に入れてくれるから大丈夫」。……こういう信念、もちろん現実と合致しないんだけど、あるきわめて限られた条件下においてなら現実と合致する可能性があるんだね。どういう条件か?それは、母親に庇護された乳幼児の場合だ。いわば、「ゆりかご」の中にいる場合に限り、上の信念は有効である可能性がある。なぜなら、母親だったら何の力もない我が子をかわいがるので、赤ちゃんが何を要求しているか理解しようと努力してくれるからね。

別の言い方をすると、子供は時々の物質的条件により色々な要求を持つ。おなかがすいたとか、おしっこがでる(でた)のでなんとかしてほしい、等々。こういうほとんど物質的というか、本能的な水準で生じてくる個々の要求を欲求と精神分析なんかでは呼ぶわけ。この欲求というのは、乳児の場合、大概母親が全部満たしてくれる。「欲求の充足=母親」ってわけ(全能の者としての母親)。ならば、子供からしたら母親を求めておけばすべて満たされるし、じっさい全部満たされるから「求める」必要すらない。母子未分化の固着状態だ。かりにこの状態を「ゆりかご」と呼んでおこう。

しかし、この「ゆりかご」ってやつは長続きしない。だって、子供の身体は大きくなるから、やがて「ゆりかご」から身体がはみ出してしまうもの。まあ、これは端的な表現。もうすこし詳しく言うと、母親が子供に四六時中付きっきりでいられる期間なんてのはそもそもあまり長くない。母親だって全知全能じゃないわけだからね。やがて母親が子供の欲求に応えきれなくなる時期がやってくる。すると、母親は欲求の充足とイコールでなくなってしまう。このときはじめて、子供はじぶんの欲求充足のために母親を「求める」ことが必要になる。母親が「求め」の「対象」になるわけだ。こういう「求め」のことを、精神分析は欲求と区別して欲望と呼ぶ。

そうなるともう子供は必死。なんとかして母親の注意を引こうとする。デパートに行けば、要りもしない玩具をほしがって駄々をこね、買い物に夢中の母親の気を引こうとする。弟か妹でも生まれれば、弟/妹につきっきりの母親の気を引くべく、悪戯をしたり弟/妹をいじめたりする。

でも、やがて気がつくわけだ。そんなことをしても母親はもうもとどおり密着してはくれないと。つまり、どこかで母親を「あきらめる」ことを迫られる時期がやってくる。分析家はこの時期の説明にいろいろ苦慮していて、ある者は父親からの強い禁止(去勢)というモデルを、またある者は「妄想分裂ポジションと抑鬱ポジション」なんてモデルを、またある者はシニフィアンの抑圧なんて言ったりしてるけれど、みんなうまく説明しきれていない。でも、どこかで母親を「あきらめる」段階があるということでは一致している。そして、欲望の対象は母親の代替物へと移行する。たとえば、母親本人のぬくもりの代替物としての、ライナスの安心毛布とか。

この転換は決定的で、これ以降、例の信念は根底からひっくり返ってしまう。「たとえ舌足らずな表現でも聞き手はなんとか理解しようと努力してくれるから大丈夫」?……まさか。「たとえその場しのぎの半端な同調であってもみんな親切で仲間に入れてくれるから大丈夫」?……冗談でしょう。そんな親切な対象(=母親)はもう存在しない。僕たちは「ゆりかご」を出たんだ。これから僕たちは、不親切でものわかりが悪く、よそよそしい「他者」であふれた世界のなか、なんとか自分の居場所を見つけて行かなくちゃならない。「ねだるな、勝ち取れ、さらば与えられん」……。この定言命法を受け入れたとき、漸くかれは大人になる。さあゆけ、少年よ。………。

さて、いささかけったくそ悪い参照のもと、例の”逆さまの信念”の一代記を演出してみたけれど、もちろん現実はそんなにトントン拍子で運ぶわけではない。転換に失敗する奴も少なからずいる。そういうのは、「ゆりかご」の温もりを忘れることができないまま大きくなり、やがてAさんやBさんみたいな大人になってしまう。……ウンザリだね。

AさんとかBさんとかは、いつまでも「ゆりかご」にしがみついていて、ひとりでに「求め」を満たしてくれる「母親」という対象をあきらめきれていないから、ろくすっぽ説得術も磨かず舌足らずな言い方をしては誤解されて嘆くし、その場しのぎで通過儀礼を避けようとして仲間はずれにされては他人を恨んだりする。いわゆるイタいという状態になるわけだ。

さて、こんなに書いておいて何だけど、僕としては誰がイタかろうが別にそれを咎めるつもりもない。当人からしたら子供っぽかろうが大きなお世話だろうし、だいいちどうでもいいしね。しかし、このイタいのが日本人として普通の在り方だ、なんてことになってくるとちとタイヘンだ。そうなってくると僕もさすがに居心地が良くないからね。

さて、日本人というニンゲンは果たして「ゆりかご」から出ることができるのか。それ以前に、なぜ日本人はこうも「ゆりかご」にしがみつくのか。やっとこれからそれを探求する段になるわけだけれど、気が進まないのでとりあえずきょうはこれで終いにしておくよ。じゃあ、おやすみ。

(いかん。これじゃまるで誰かさんのようだ:苦笑。)

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P.S.
まあ、学者先生お嬢ちゃんも普通の日本人だと思えば……。(?)

Un passage fragmentaire|断章 | 18:19 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark | |
トポス盲 その2
トポス盲のつづき。タイトルでトポス盲という言葉を使っておきながら何の定義もしていなかったので、今度はそれについてのメモ。

わかる人にはわかるとおり、「トポス盲」という言葉は、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの「アスペクト盲」を意識している。「アスペクト盲」とは、もちろん「アスペクト」に関して「盲」ということなのだが、それについて知るには、アスペクト(風景相などと訳されるが、それでもカタカナで言及される場合が多い)とは何か知っておく必要がある。

うさぎ-あひるの図

右にひとつの図がある。たとえば僕は、ある本でこの図を見て、ここに描かれているのを何の疑いもなく「うさぎ」の図として見ていた。つまり、画像の「うさぎ」を見ていた。ところが、ふとある瞬間、この図が「あひる」を描いたもののように見えてしまう。画像の「うさぎ」が、画像の「あひる」に変わったというわけだ。

このとき、僕が画像のなかに見ている「うさぎ」、「あひる」というのがアスペクトだ。僕は右の図を見るとき、最初は図のなかに「うさぎ」のアスペクトを見た。しかし、ある瞬間僕は、この図が「あひる」に見えるということに気付いてしまった。「あひる」というアスペクトが「ひらめいた」のだ。そして僕は図の中に「あひる」のアスペクトを「認め」、以後、「あひる」のアスペクトを見るようになったというわけだ。



このあたりの順序を整理すると、以下のようになる。


  • 1、アスペクトの「恒常的な見え」 → 「うさぎ」にしか見えない

  • 2、アスペクトの「ひらめき」 → 突然、「うさぎ」が「あひる」に変わる

  • 3、アスペクトの「認知」 → 「あひる」に見えることに気付く


  • そして、1へとループする…


    ウィトゲンシュタインは主著『哲学探求』の第二部で、アスペクトについてしつこいくらいに徹底的に探求している。上の説明は、そのなかの一節を整理してまとめてみたものだ。(「うさぎ-あひる」の図は、xiで出てくる。)ウィトゲンシュタインの影響を受けたイギリスの法理学者H.L.A.ハートは、法規範の変更の場面について「1:裁定のルール、2:変更のルール、3:承認のルール」の三種の言語ゲームが関わっていることを認めているが、その部分を読むと僕はいつもアスペクトの話を思い出す。

    さて、件のアスペクト盲だが、これは文字通りアスペクトについて盲目な人、つまり何かを何かとして見る能力が欠如している人のことである。アスペクト盲の人は、何かを見ていてアスペクトが「ひらめく」ということがなく、それゆえアスペクトを「認知」することができない。先の例でいうならば、アスペクト盲の人は図をガンコに「うさぎ」と見ることしかできず、図のなかに「あひる」を発見することもなければ、図を「あひるの絵だ」と認知するに至ることもない。

    但し、この人も図をガンコに「うさぎ」と見つづけることはできているように、アスペクト盲の人でもアスペクトを「見る」ことそのものはできる。つまり、図を知覚できないわけではないのだ。ただ、別のアスペクトに「ひらめき」、「認知する」ことはできないので、そのままではこの人が図に「あひる」を見出す瞬間は永遠にやってこない。たとえ誰かに「これはアヒルだろ!」と言われたところで、この人は「??」となるだけだろう。

    他方、彼がいちどこの図のことを忘れ、この図と違って何の問題もなくあひるに見える絵や写真か何かを見るなかで同じ「うさぎ-あひる」の図を見たとしたら、今度はこの図を「あひるの絵」として見るのである。つまりこの人は、新しい何かが「ひらめく」ということが、いいかえると図をあらたなアスペクトと結びつけるセンスが欠落しているのであって、既に見えているものはそのとおりに見ることができる。要するに、既存のストックから「うさぎ」やら「あひる」を引き出してくること自体はできるのだ。だから、アスペクト盲だからといって、日常生活に困ることはない。学者にだってなれる。

    しかし、アスペクトが「ひらめく」瞬間はどうあっても訪れない。かりに、彼(A)が「うさぎ-あひる」の図について「うさぎ」というアスペクトが恒常的に見えている段階にあり、そのうえで、別のアスペクト盲の人(B)がやってきてこの図を「あひる」だと言い張った場合、二人はけんかになってしまう。しかも厄介なことに、かれらはアスペクト盲ゆえに別のアスペクトが「ひらめく」ということがないため、Aが「あひる」を見ることも、Bが「うさぎ」を見ることも期待できない。ゆえに、二人の議論は平行線を辿り、遂にお互いをわかりあうことがないまま物別れに終わってしまう。そして、あとで彼らはお互いのことを「何考えているかわからない、キモい奴」と吐き捨てるように言うというわけだ。

    ウィトゲンシュタインの考察は、その多くの場面において伝統的な哲学史から「切れて」いる。だから、アスペクトがトポスとどういう関係にあるのか、僕には詳しいところはわからない。(あるいは、両者は通約不可能なのかもしれない。)しかし、何かが何かに「見え」、それを前提に推論をすすめるという契機があるならば、このアスペクトを巡る考察も少なからずヒントになるのではないか。

    Aが「うさぎ-あひる」の図に「あひる」を見ることがないように、トポス盲の人は、議論のなかにトポスを「発見」することができない。だから、未知のトポスを掴んだ議論相手が現れた場合、トポス盲の彼は相手の聞き慣れない主張をむりやり既知の言論にあてはめて理解(曲解)し、的はずれな反論(レス)を返す。そして、ついには相手を怒らせてしまうというわけだ。議論をしてもいつも推論が進展せず、相手が怒って帰ってしまうという人は、自分がトポス盲かもしれないと一度疑ってみた方がいい。(了)

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    ●参考文献●

    ◎その1:後期ウィトゲンシュタインの主著
    ウイトゲンシュタイン全集 8 (8)
    ウイトゲンシュタイン全集 8 (8)ウィトゲンシュタイン 藤本 隆志

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    ◎その2:ハートの主著
    法の概念
    法の概念ハーバート・ハート 矢崎 光圀

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    stars法とは何か

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    ◎その3:まずは入門書が欲しいという人のために
    言語ゲームと社会理論―ヴィトゲンシュタイン ハート・ルーマン
    言語ゲームと社会理論―ヴィトゲンシュタイン ハート・ルーマン橋爪 大三郎

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    stars言語ゲームは社会理論に使えない。
    stars好みは分かれるだろうが…
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    ◎その4:事典 ー 僕も今回お世話になった
    ウィトゲンシュタイン小事典
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    star確かに得難い「事典」だが・・・
    star役に立つような、立たないような・・・

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    *注:画像としてアップした「うさぎ-あひる」の図は、上記参考文献その1と4の同図を参考に、夜半が手書きで描いたものです。

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    トポス盲
    評価:
    テオドール・フィーヴェク,植松 秀雄
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    ¥ 2,625
    (1995-11)

    (旧サイトから転載)

    トポスという言葉がある。僕らにも馴染みのある「トピックtopic」という言葉の語源だ。

    このトポスという語は僕達のする議論というものに深く関わっている。議論は推論の積み重ねの作業だ。トピックという語の用法を想起すれば想像がつくとおり、トポスはこの推論とともにある。トポスがなければ議論は成り立たない。

    ところで、僕達が物事について正しいか正しくないかを判断するプロセスを推論というわけだけれど、アリストテレスはこの推論というものを二種類に分けている。論証的推論と弁証的推論だ。

    論証的推論というのは、真なる前提から出発して真なる結論に至るもので、数学の推論などがそれにあたる。たとえば「三角形の内角の和は二直角に等しい」という古典的な命題があるが、これを論証の結果とみるとき、その前提にあるのは三角形の概念だろう。これは三角形という概念そのものをいじらない限り誰でも正しいと認める(真である)前提であるし、それを前提に導かれた「三角形の内角の和は二直角に等しい」という結論も、観察によって確かめることにより誰もが真と認めることができる。でなきゃ、小学生に算数ひとつ教えられやしない。この場合、前提そのものが真であることを含んでいるので、疑いようがない。

    他方、弁証的推論はもっと不確かなものだ。これは、通念endoxaと呼ばれる、社会においてだいたい正しいとされている事どもを前提として、その結果、社会においてだいたい妥当だとされる結論に至るもので、およそ「議論」と呼ばれるものはみなこちらである。通念というのは、ある社会において大多数の人が認めているとか、特定の権威ある人(学者など)がそう言っているとか、そういうことの寄せ集めだから、もちろんこれは人によって正しかったり正しくなかったりする。トポスというのは要するにそういったものどものことで、議論の前提として援用される一般的前提、あるいはそれに基づいた議論の型そのもののことをさす。

    要するに、誰かと議論をするとき何が第一義的に重要なことなのかというと、トポスを発見し、相手と共有することなのだ。前提が食い違っていたら議論は永遠に交わらないわけだから、当たり前の話である。しかし現実問題、この当たり前のことが意外と難しいかったりする。というのも、このトポスを発見することにもセンスが必要で、センスがなかったら的はずれなトポスを掴んでしまったりするからだ。この人が参加するとだいたい議論がこじれるという種類の人をたまに見掛けるが、そういう人は大概トポスに関するセンスを欠いた人で、トポスを共有し損なうが為にいつも的を外れたことを言ってしまう。そして、そこに感情が絡んできたら、議論はむちゃくちゃになってしまうだろう。

    これは本当に厄介なことだ。なぜなら、「生来の」なんて枕詞が付くことからもわかるとおり、センスばかりはどうしようもない部分があるからだ。さすがに遺伝子に組みこまれているわけでもなさそうなので、なんとかしようとしてできないこともないかもしれないのだが、だからといって小学生が足し算を習うような具合にはいかないだろう。なにしろ、それは長年の環境、訓練などによって涵養されるもので、とても時間のかかることだから。フィギュアスケートとかピアノ演奏などのことを想起してみればいい。要するに、議論相手にセンスがないからといって彼にセンスを持たせるなど、弥勒菩薩でもあるまいし時間が足りたものではないのだ。

    したがって僕達は、ネット生活を営むにあたり、いつでもトポスというものに気をつけておく必要がある。(時間がかかるだけに)常日頃から自分がトポス発見のセンスを磨くよう心がけることもそうだが、誰かと議論になったとき、相手にセンスが欠落していると見たらさっさと引き上げることも大事なことなのだ。トポスを共有しない議論ほど不毛なものはないのだから。(了)

    つづき

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    ●トポスに関して参考となる文献●

    ◎その1:そもそもの端緒ーアリストテレス
    弁論術
    弁論術アリストテレス Aristotelis 戸塚 七郎

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    ◎その2:法哲学における検討例ーとても精密で参考になる
    トピクと法律学―法学的基礎研究への一試論
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    ◎その3:トピック(そういう言い方ではないが)の役割を重視した近世哲学
    学問の方法
    学問の方法ジャンバッティスタ ヴィーコ 上村 忠男 佐々木 力

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    stars論理の力にだけ頼ると、かえって真相が見えないこともある

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    ●トポスに関して参考となるネット上の記事●

    ◎「ライプニッツ × ヴィーコ」 by ”対戦型哲学史”
    http://homepage1.nifty.com/kurubushi/card70467.html

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    P.S.
    プラグマティックな議論てのは中々できないもんなんですかねえ。全然関係ない話だけど。

    Un passage fragmentaire|断章 | 17:51 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark | |