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教育バウチャー構想への批判について
(旧サイトから転載)

政策大学院大学の濱口桂一郎教授が、ご自身のブログにて、安倍政権により蒸し返されようとしている教育バウチャー構想を批判されています。教育バウチャー構想は、先日亡くなったミルトン・フリードマンが提唱したものです。

http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/11/post_3c8e.html

教育バウチャー構想とは要するに授業料クーポン制度のことで、国や自治体が直接義務教育の授業料を負担することに代えて授業料クーポンを発行し、親はそれを使って子供を通わせる学校を民間から自由に選べるようになるというもの。エントリーのメインになっているのはハーシュマンからの引用で、フリードマンの議論があまりにも経済学的偏見に囚われていると批判した一節ですね。つまり、フリードマンは学校からの「離脱」の自由を過度に強調する反面、言論を厄介で迂遠なものと嫌いすぎているという、定番の批判です。

まあ、ハーシュマンの強調する言論の重要性はわかるのですが、その言論への期待ぶりは僕には理想論に過ぎると感じられる面もあります。言論において相手に理解してもらえるという期待が大きすぎるきらいがあるのもさることながら、「迂遠」という指摘の切実さについて配慮が不足している気もします。

とりわけ学校の場合、特定の親子が学校に対する自らの考え方を民主的プロセスを通じて反映させようとしても、反映される前に子供が学校を卒業してしまいますので、間に合わないということは留意されるべきでしょう。子供が卒業した後になってから何かが変わっても、その親子からすれば完全に手遅れなわけです。そういう意味でいうならば、政治的経路を通じた意見表明のプロセスは確かに迂遠に過ぎるというべきです。そのとき、学校を「移る」ということは、生徒数の変動として明確に数値化されますし、学校の収入にも直結しますから、直接発言だけをするよりも意見表明の手段としてより強力な手段となりえるわけです。その場合、従来の制度とバウチャー構想と、当事者がどちらに魅力を感じるかはほとんど明白であるような気がします。

とはいえ、教育バウチャー構想も所詮は極論であるのも事実です。じっさいにこれをやろうとしても、受け皿となるべき民間教育機関が整備しきれないでしょうし、選ぼうにも似たような学校ばかりだったら選ぶメリットもあまりないわけです。まして日本はアメリカと違い、千日王国ユートピア実験共同体の伝統みたいなものはありませんから、学校の多様性は最初からあまり期待できません。その場合、現にある学校の改革をどうするかという論点に結局のところは回帰するわけで、それを考えると教育バウチャー構想というのは、いま現在問題となっている教育問題について(少なくとも中短期的には)何ら実効的な解決策をもたらすものではないようにも思えます。自由競争は、経済主体に対し生産の拡大と効率化を煽る要因にはなりますが、かといって多系発生を導く積極的動因になるわけではありません。この点、フリードマンの論理はあまりに楽観的すぎるというべきでしょう。ハーシュマンの議論の力点も実はそういった部分にこそあるわけで、この意味においては僕も彼の議論に概ね同意することができます。

濱口教授ご自身の見解に関しては、資料が少ないのでノーコメントということにしておきます。


◎参考:「市場原理主義」が日本で根づかないもう一つの理由/PRESIDENT Online
http://www.president.co.jp/pre/20050704/003.html



◎採り上げられた本
離脱・発言・忠誠―企業・組織・国家における衰退への反応離脱・発言・忠誠―企業・組織・国家における衰退への反応
A.O. ハーシュマン Albert O. Hirschman 矢野 修一

ミネルヴァ書房 2005-05
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◎追記(2006.12.23);このエントリーに関連するその後のエントリー
  • 離脱と発言再び


  • L'histoire et Étude|歴史・社会 | 21:33 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark | |
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