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La ricerca della morale che non dipende da una cosa della trascendenza...
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離脱と発言再び
(旧サイトから転載)

紹介が遅くなりましたが、先のエントリー「教育バウチャー構想への批判について」に対し、言及相手の濱口桂一郎教授がエントリーを起こしてくださいました。有り難いことです。

◎離脱と発言再び/EU労働法政策雑記帳
http://eulabourlaw.cocolog-nifty.com/blog/2006/11/post_1a4b.html

コメント欄でも議論相手に付き合っていただきました。(なんて、過去形で言ってしまっていいのだろうか?)特に新たな発見が得られたとかいう種類のものではありませんが、そこそこおもしろい議論になったと思います。

ところで、そこで話題に上ったアルバート・O・ハーシュマンの離脱と発言exit-voice理論(一般的には「退出と抗議理論」か)について、ご存じない方も相当数あると思います。(だいいち、濱口先生みたいな研究者や僕みたいな好事家でもなければ、ハーシュマン自体知らない人が多いでしょう。)そこで、参考になりそうなリンクを張っておきます。

◎東ドイツの崩壊とハーシュマン理論/山川雄巳 ・立命館法学一九九六年一号(二四五号)
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/law/lex/96-1/yamakawa.htm

ハーシュマンは、従来の経済学が「離脱exit」、政治学が「発言voice」ばかりを採り上げ、両者の密接な関係に着目していないことを批判し、離脱と発言を同時に扱う政治経済学を構築すべきだと訴えた人です。例の教育バウチャー構想批判関連の話で出てきたフリードマン批判は、かれの教育バウチャー構想が、まさに経済学者がexitしか考慮に入れていない典型例だったからなわけですね。もちろんそれは、自由競争市場という理念型にもとづいて理論構築する上でどうしてもvoiceが捨象されてしまうことに基づく仕方のないことであり、いわば新古典派経済学の骨法そのものにあらかじめ含まれる限界です。そういうことでいうならば、発言voiceばかりに目が向きがちな政治学に対してもそれなりに批判のまなざしが向いているわけで、その傍証として、離脱カードなき抵抗運動だったハンガリー動乱(1956)やプラハの春(1968)がうまくいかなかったことを、東ドイツ分析の論文において指摘しています(「退出、告発、ドイツ民主共和国の運命Exit,Voice,and the Fate of the German Democratic Republic」)。

要するに、完全情報という前提に立つ自由競争市場モデルでは、各組織の運営は自動的にうまくいくものと想定し、運営において起こる問題に関しては、思考経済の要請によりわざと「忘れる」わけです。政治学における離脱や選好の問題も同様で、それが社会科学というものなのですから、そのこと自体は仕方のないことです。(この辺りの事情に関しては、やはりマックス・ヴェーバーのいわゆる客観性論文〔後で紹介〕は必読でしょう。)しかし、こうした縦割り構造がじっさいに見えなくしているものも多く、ハーシュマンはそれを明るみに出すべきだとしたわけです。

そういう意味でいうならば、ハーシュマンの指摘はフリードマンらの立場と正面衝突するわけではなく、彼らの見落としてきたものを補う関係になるわけです。カント的な意味での「批判」だと言ってもいいでしょう。ただ、濱口先生は経済学者に対して余程特別な感情がおありなのか、フリードマンらの立場そのものを悪辣だと糾弾される傾向があり、それに関しては懸念なしとしません。

ただまあ、僕も別にフリードマンを弁護しなければならない立場にあるわけではありませんし、この程度のことでフリードマンの権威がどうこうなるという話でもないので、それはそれで別にいいかなという気もします。(それに、フリードマンがちょっと調子こいた〔!〕ところがあるのは確かですからね。)だいいち、僕は僕でフリードマンの議論の一面性を批判しているわけですからね。

ともあれ、有益な機会をいただきました。濱口先生には誠心より御礼申し上げます。

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◎本文で触れた本その1:「退出、告発、ドイツ民主共和国の運命Exit,Voice,and the Fate of the German Democratic Republic」を含む論文集
方法としての自己破壊―“現実的可能性”を求めて
方法としての自己破壊―“現実的可能性”を求めてアルバート・O. ハーシュマン Albert O. Hirschman 田中 秀夫

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◎本文で触れた本その2:マックス・ヴェーバーのいわゆる客観性論文
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社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」マックス ヴェーバー Max Weber 富永 祐治

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◎追記(2006.12.23):参考エントリー
  • トポス盲
  • トポス盲 その2
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  • L'histoire et Étude|歴史・社会 | 21:30 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark | |
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