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La ricerca della morale che non dipende da una cosa della trascendenza...
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<ゆりかご=世界>なニンゲンたち

(旧サイトからの転載)

今晩は。

今宵は随分温もっていて、僕の季節ももうすぐ終わりかな、などとつい柄にもないことを考えてしまうよ。猫も化けるほど生きていると色々なことにウンザリするようになるものだということはtopでも言ったけど、おかしなことに、何か物事にウンザリしている時の方が饒舌になったりするらしいということに最近気が付いた。うろ覚えだけど、煩悩が肉体の組成を導き、ひいては輪廻へと至るという仏教徒とかいうニンゲンの言うことが本当なら、マイナスの情念と生命のエネルギーとの間には密接なつながりがあるのかもしれないね。

とまあ、それは半ば(?)冗談として、昨日あんなのを書いたせいで、気も進まないのに言葉が出てきて仕様がなくてね、もうちょっと余計なことを書いておこうかと思った次第。

それにしても、この東のはじっこの島、「ゆりかご」への固着が並々ならないニンゲンが多いよね。ろくすっぽ説得術の基礎も踏まえず舌足らずなレトリックを弄した挙げ句、あらぬ受け取り方をされて嘆くということを繰り返している困った学者先生(かりにAさんとしよう)がいるかと思えば、仲間同士”濃い”話題で盛り上がっている人たちを横目で見て羨んだ挙げ句、仲間に入れてもらおうと半端な知識で口を挟んでけんもほろろの目に遭い、その恨み言で一本文章を書いてしまう厄介なお嬢ちゃん(同じくBさん)もいるみたいで、いやはや。まあ、それじたいは別にどうでもいいんだけど、そういうのを見てちらっと思った。ひょっとしてこの世界の辺縁に棲んでる人たち、自分の話は誰にでも通じるということを前提にして生きているんじゃないか、あるいは、自分の求める状態はねだればいつでも与えられると思って他人と接しているんじゃないかってね。

僕の尊敬する知己はかつて、「ねだるな、勝ち取れ、さらば与えられん」なんて言ったものだけど、とりあえずこういう類の認識はさっき言ったような人たちには縁遠いものらしい。要するに、Aさんの場合は聞き手の理解を、Bさんの場合はいわば共同体の承認を求めているわけだけれど、両者に共通しているのは、その欲望の対象を「勝ち取」ろうとしている形跡がまったくないということだ。Aさんは舌足らずなレトリックに自足しているだけだし、Bさんは共同体の”濃い”話題をまともに身につけようともせず、共同体の通過儀礼を知ったかぶりでやりすごそうとしている。これは、それぞれの欲望の対象を「ねだる」行為であって、「勝ち取る」行為ではない。要するに、ろくすっぽ努力しなくても手にはいると思っているってこと。対象を獲得するために、じぶんから積極的に仕掛けていく必要性を感じていない。だから、周到に準備をすることもない。それで失敗している。

じゃあ、どうしてこうなるんだろう?

つまるところ、かれらの基本的な認識の部分に誤謬があるんだ。この世界、話が通じる相手より通じない相手の方が圧倒的に多いし、自分と近しい他人よりもよそよそしい他人の方が圧倒的に多い。世の中、僕みたいに意地悪な読者はいっぱいいるし(苦笑)、与党に対する野党みたいに、腹に一物あってわざと誤読(!)しようと待ちかまえている輩もいっぱいいる。それがこの腐った世界の常態だ。ならば、自分の主張を理解させようとするなら弁論術の基本くらいは押さえ、相手を説得することについていっぱしの戦略くらいは持っておくべきだし、共同体からはじかれた疎外感を克服しようと思うならきちんと通過儀礼をこなすべきだということになる。そうしなければ通じない相手には永久に話は通じないし、よそよそしい他者はよそよそしいまんまで終わるからね。

ところが、AさんとかBさんみたいな人はこういう認識を欠落させている(あるいは信じていない)。そのかわり、逆のことを信じている節がある。Aさんでいうなら、たとえ舌足らずな表現でも聞き手はなんとか理解しようと努力してくれるから大丈夫とかたく信じているし、Bさんでいうなら、たとえその場しのぎの半端な同調であってもみんな親切で仲間に入れてくれるとかたく信じている。もうこれはかれらの無意識の部分にまで浸透していて、何も考えなくてもかれらはこの信念を前提に行動してしまう。だから、話をしても誰も説得できないし、いつも疎外感におびえていなくちゃならないことになってしまう。

じゃあ、この逆さまな信念って、いったい何なのか?

さて、ここで例の信念を僕がどう表現したかをふりかえってみよう。曰く、「たとえ舌足らずな表現でも聞き手はなんとか理解しようと努力してくれるから大丈夫」、「たとえその場しのぎの半端な同調であってもみんな親切で仲間に入れてくれるから大丈夫」。……こういう信念、もちろん現実と合致しないんだけど、あるきわめて限られた条件下においてなら現実と合致する可能性があるんだね。どういう条件か?それは、母親に庇護された乳幼児の場合だ。いわば、「ゆりかご」の中にいる場合に限り、上の信念は有効である可能性がある。なぜなら、母親だったら何の力もない我が子をかわいがるので、赤ちゃんが何を要求しているか理解しようと努力してくれるからね。

別の言い方をすると、子供は時々の物質的条件により色々な要求を持つ。おなかがすいたとか、おしっこがでる(でた)のでなんとかしてほしい、等々。こういうほとんど物質的というか、本能的な水準で生じてくる個々の要求を欲求と精神分析なんかでは呼ぶわけ。この欲求というのは、乳児の場合、大概母親が全部満たしてくれる。「欲求の充足=母親」ってわけ(全能の者としての母親)。ならば、子供からしたら母親を求めておけばすべて満たされるし、じっさい全部満たされるから「求める」必要すらない。母子未分化の固着状態だ。かりにこの状態を「ゆりかご」と呼んでおこう。

しかし、この「ゆりかご」ってやつは長続きしない。だって、子供の身体は大きくなるから、やがて「ゆりかご」から身体がはみ出してしまうもの。まあ、これは端的な表現。もうすこし詳しく言うと、母親が子供に四六時中付きっきりでいられる期間なんてのはそもそもあまり長くない。母親だって全知全能じゃないわけだからね。やがて母親が子供の欲求に応えきれなくなる時期がやってくる。すると、母親は欲求の充足とイコールでなくなってしまう。このときはじめて、子供はじぶんの欲求充足のために母親を「求める」ことが必要になる。母親が「求め」の「対象」になるわけだ。こういう「求め」のことを、精神分析は欲求と区別して欲望と呼ぶ。

そうなるともう子供は必死。なんとかして母親の注意を引こうとする。デパートに行けば、要りもしない玩具をほしがって駄々をこね、買い物に夢中の母親の気を引こうとする。弟か妹でも生まれれば、弟/妹につきっきりの母親の気を引くべく、悪戯をしたり弟/妹をいじめたりする。

でも、やがて気がつくわけだ。そんなことをしても母親はもうもとどおり密着してはくれないと。つまり、どこかで母親を「あきらめる」ことを迫られる時期がやってくる。分析家はこの時期の説明にいろいろ苦慮していて、ある者は父親からの強い禁止(去勢)というモデルを、またある者は「妄想分裂ポジションと抑鬱ポジション」なんてモデルを、またある者はシニフィアンの抑圧なんて言ったりしてるけれど、みんなうまく説明しきれていない。でも、どこかで母親を「あきらめる」段階があるということでは一致している。そして、欲望の対象は母親の代替物へと移行する。たとえば、母親本人のぬくもりの代替物としての、ライナスの安心毛布とか。

この転換は決定的で、これ以降、例の信念は根底からひっくり返ってしまう。「たとえ舌足らずな表現でも聞き手はなんとか理解しようと努力してくれるから大丈夫」?……まさか。「たとえその場しのぎの半端な同調であってもみんな親切で仲間に入れてくれるから大丈夫」?……冗談でしょう。そんな親切な対象(=母親)はもう存在しない。僕たちは「ゆりかご」を出たんだ。これから僕たちは、不親切でものわかりが悪く、よそよそしい「他者」であふれた世界のなか、なんとか自分の居場所を見つけて行かなくちゃならない。「ねだるな、勝ち取れ、さらば与えられん」……。この定言命法を受け入れたとき、漸くかれは大人になる。さあゆけ、少年よ。………。

さて、いささかけったくそ悪い参照のもと、例の”逆さまの信念”の一代記を演出してみたけれど、もちろん現実はそんなにトントン拍子で運ぶわけではない。転換に失敗する奴も少なからずいる。そういうのは、「ゆりかご」の温もりを忘れることができないまま大きくなり、やがてAさんやBさんみたいな大人になってしまう。……ウンザリだね。

AさんとかBさんとかは、いつまでも「ゆりかご」にしがみついていて、ひとりでに「求め」を満たしてくれる「母親」という対象をあきらめきれていないから、ろくすっぽ説得術も磨かず舌足らずな言い方をしては誤解されて嘆くし、その場しのぎで通過儀礼を避けようとして仲間はずれにされては他人を恨んだりする。いわゆるイタいという状態になるわけだ。

さて、こんなに書いておいて何だけど、僕としては誰がイタかろうが別にそれを咎めるつもりもない。当人からしたら子供っぽかろうが大きなお世話だろうし、だいいちどうでもいいしね。しかし、このイタいのが日本人として普通の在り方だ、なんてことになってくるとちとタイヘンだ。そうなってくると僕もさすがに居心地が良くないからね。

さて、日本人というニンゲンは果たして「ゆりかご」から出ることができるのか。それ以前に、なぜ日本人はこうも「ゆりかご」にしがみつくのか。やっとこれからそれを探求する段になるわけだけれど、気が進まないのでとりあえずきょうはこれで終いにしておくよ。じゃあ、おやすみ。

(いかん。これじゃまるで誰かさんのようだ:苦笑。)

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P.S.
まあ、学者先生お嬢ちゃんも普通の日本人だと思えば……。(?)

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