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La ricerca della morale che non dipende da una cosa della trascendenza...
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ちゃんと読者をするということについて

(旧サイトからの転載)

今晩は。

何というか、ウンザリついでにものを書いていると、ついついはしょった言葉遣いになったりして、「手紙」が「届か」ないことがあるというか、実際そんなケースばっかなんだけど(苦笑)、それが自分ではじめたやりとりだった場合それなりに応じるのも義務というわけで、こればっかりは仕方がないよね。

何のことかというと、先日気まぐれでエントリー「共同体の排他性ーガンダム好き「に」共通する論調?」をアップしてみたわけだけれど、「ちゃんと読者をやる」ということについてもうちょっと説明しておいた方がいいかなと思ってね。まあ、どんなテクストにも誤読可能性というものはあるわけだし、誤読の自由は他の誤解と両立する限りにおいてのみ自由だけどね、あんまり相手の読解力に過大な期待をしてもいけないってことか。いや、あんまりイジワルして端折らないほうがいいってことかな。こうしてまた書く羽目になるわけだし。忘れてたよ、ガンダムマニアが「木を見て森を見ない」ニンゲンだってこと(苦笑)。

さて、「ちゃんと読者をする」とはどういうことか?

まず、小説や学術論文なんかの場合は「読む」というし、映画やテレビなどの場合は「視聴する」というわけだけれど、どちらも言語記号や映像記号(あるいはイコン、アイコンとも)などの記号によって構成されている。しかし、僕らが記号から意味を読み取る行為をする場合、文字通り「読む」という言い方をする。だから僕は、ものがアニメだった場合でも「ちゃんと読む」、「読者をする」という言い方をすることにするということを断っておくよ。あと、それぞれの「表現されているもの」のことを、総じて「テクスト」と呼んでおくことにしよう。

さて、斯様な意味において「読者をする」という言葉は、たんに文字情報やら映像情報を視界に入れることや音声情報を耳に通すということ越え、そこからなんらかの意味を読み取ることを示す。当たり前のことなんだけど、しかし、ここにじつは困難の源泉が潜んでいたりする。どういうことかというと、「意味を読み取る」といっても色々なレベルがあって、ただたんに単語のレベルで反応するという段階があれば、その上位には文のレベルで反応するという段階があり、その上位には文脈、さらにその上位には文章単位で「意味を取る」という事が問われてくる。ガンダムみたいなアニメでも同じことはいえて、(1)MSとか何かの個々の画像表象単位、(2)シャアとアムロが対話するというようなカット単位、(3)「第1話:ガンダム大地に立つ」などの各話数単位、(4)ファーストガンダムなどのシリーズ単位、(5)さらには、’ガンダムシリーズ’と呼ぶ場合の通シリーズ単位と、こんなところかな。

さて、こうしてレベルの異なるさまざまな表象単位には、それぞれ固有の意味があると僕達は考える。というより、そういう風に言語というものはできている。アニメだって言語みたいに構造化されているわけだから事情は一緒だね。ともあれ、そういうことになってくると、各表象単位ごとに意味があり、それが複雑に絡み合ってくるわけで、テクストの「意味を取る」といっても果たしてどのレベルで「意味を取」ればいいのか迷いがちになる。まさにテクストは樹海のような複合体となってしまうわけだ。だから、「読者をする」と僕なんかが言っても、じゃあどのレベルで意味を取ればよいのか、聞き手は迷ってしまうことになる。

そうなると、なにか手がかりがほしいよね。そこでひとつ仮定を置いてみよう。テクストというのは作者がプロデュースする単一のものであり、作者から読み手にメッセージを送る行為としてあらわれるものだ(プラグマティズムの格率)と。要するに、本にしろアニメにしろ、テクストというものは作者から送られてくるメッセージということなんだ。手紙をイメージしてみればいい。

さて、この仮定に従って、先の「ガンダムファンはちゃんと読者をやることを怠ってきた」というメッセージの意味を再考してみよう。まず、これはガンダムに限らないんだけど、「ちゃんと読者をやる」ということは一定のリテラシーを必要とすることで、しかも現代日本人はその能力が低下しているという指摘があって、ガンダムのケースもその一環なんだね。たとえば、いまや日本語のネット社会において重鎮とも言うべき存在となった糸井重里氏は、かつて宮崎駿との対談でこんなことを言っている。(強調は夜半による)

宮崎:不幸なことなのかもしれないけど、自分がもし涙流したら、いったいこの涙なんだろうと思ってね、立ち止まるのがほんとはこういう社会で生きている若者のやることなんですよ。わたし泣きました、っていうのだけでは、ちょっとね。
糸井:ま、それも趣味ですからね。
宮崎:だから自分の映画観に行くのが辛いんですよ。お客さんと一緒に観るのはね。
糸井:泣くだの、笑うだのは単なる自己主張なんですよ。映画作っている人にとっては、それを楯にとって映画評をされたのではたまらない。単に映画館の客っていうんじゃなくて。もっと、なんでだろうと考えて、読者をちゃんとやれる人って、いま少ないんですよ。
宮崎:アニメーションっていうのは、どんなにくだらなくてもファンは必ず生まれるのね。特に思春期の人間は、ほんのわずかその時の自分の気持ちと合うと、もう全部許してくれる。それで手紙をくれたりするでしょ。だから、現場のほうが、正確に自分たちを見る能力を失ってるのね。それで、評論活動をちゃんとやらなきゃいけないんじゃないかって話になるわけ。

(宮崎駿『出発点―1979~1996』P.378,徳間書店、下にAmazonへのリンクあり)

なぜ、泣くだの笑うだのを「楯にとって」評価をされたのでは「たまらない」のか?どうして「なんでだろう」と考える読者を持たない作者は不幸なのか?なぜそれが、「ちゃんと読者をやる」ということにならないのか?

僕はこう考える。先の仮定に従って考えると、作者がアニメーションをつくるとき期待しているのは、自分が作品に込めたメッセージがきちんと読者に届くことだといえる。なにしろ、創作という行為の本質がそうなんだから。となると、メッセージがきちんと「届かない」状態は、作者にとって不幸だということになる。開封されないことを予期して手紙を送る人はいないでしょう?

要するに、創作に携わる人は、なにかメッセージを送りたくて作品という封書を送る。そして、その封書を開封するという行為は、僕たちが作品をちゃんと「読む」ということ、つまり作者のメッセージをキャッチすることなんだ。しかし、いまやこの封書=作品はどんどん複雑になり、総体としてそれを把握し、きちんと合理的な意味を取るということが非常に難しくなっている。「開封」するのも大変なんだ。開封、つまり「きちんと読者をやる」ためには、時としてかなりの読解センスや教養が必要になる。本だってたくさん読まなくちゃならない。

しかし、それはとても大変なことだから、大概の人は「きちんと読者をやる」労に堪えられず、逃げる。その方が楽だからね。Read or die (読め、さもなくば死ね)という言葉があるけど、大概の人はそういう”死を賭した決断”なんかには堪えられず、どっちつかずのところにに引っ掛かって宙ぶらりんになる。つまり、手紙の封を開けないまま放置してしまうんだ。ハイデガーのいう'das Man'だね。

しかし、多分寂しいんだろうね、なかにはただ単に「宙ぶらりん」でいるだけでは我慢できなくて、手紙=作品をおもちゃにしはじめる輩まで出てきてしまう。その結果、次のようなことが起こる。作者は必死になって手紙=メッセージを送り続けているのに、読者に届いても開封もされず、放置されてしまう。それどころか、開封もされない手紙と戯れて遊びはじめてしまう。……作者が嘆くのも当然だよね。

考えてもみなよ。たとえば誰かが富野さんという人から手紙をもらったとして、その封書がとても見事な体裁だったとしよう。その人が、その手紙をありがたがるのはいいんだけど、そのあまり「富野さんから手紙が来た〜」と喜んで、開封もしなければ読みもしないまま、あるいは開けても読むこともなく「美しい字だ」とか言って、御輿に祀って担ぎ回ったらおかしいと思うでしょう。しかし、これまでガンダムファンがやってきたことはそういうことなんだ。彼らは『ガンダム』を読まずに祀ってしまっている。それを富野さんはずっと(それこそΖくらいの頃から)気に食わなくて、悩み抜いた末に(ばからしくなったのか)リアリズムを放棄することに決めてしまった。ファンのせいで。

そして、ファンの乱痴気騒ぎは数十年を経てすでに公認されたという空気が生まれるまでになった。そんなとき、その乱痴気騒ぎのレベルに合わせ、後継者が薄っぺらなメロドラマを『ガンダム』と銘打って送り出すまでに事態は悪化したというわけだ。僕も含めてseedを批判する人(特にいい歳をした人)は、こんなものができてしまったのは半分は自分たちのせいだと思った方がいい。

さて、ここまで僕はガンダムファンの頽落 Verfallen を口を極めて批判してきたけど、この僕のメッセージを受け取りそこなって「じゃあどうしたらいいんだ」と思う人もいるんじゃないかと思うんだよね。本当ならそういう人をこそ説得するべきなんだろうけど、こっちは本当、We're not the ones who're meant to follow.For that's enough to argue.と言うだけにしておきたいんだよね。「恩寵をもたぬ人間が義人となるのを待っていられるものではない」ように、<ゆりかご=世界>なニンゲンが主体性を持ちはじめるのを待っていられるものではないから。ま、元々気まぐれではじめたどうでもいい話だし。

じゃあ、ちょっともう厭きちゃったので、今宵はこれくらいにしておくよ。おやすみ。


【追記 2007.2.14】
やっぱりちょっと不正確だと思うので、(プラグマティズムの格率)の部分をスラッシュで消すことにしました。というのも、かの表記は文の前段には掛からず(テクストの単一性とは一切関係ない)、後段には掛かりますが、本来の意味でいうならあのような意味に限定されるわけではないと思われるからです。参考までに、野家啓一先生は<プラグマティズムの格率>のことを、「思考を疑念から出発して信念の確定に至る一連のプロセスとして捉え、信念を心理状態ではなく<行動の規則>として解釈しなおす」態度と定義されています(木田元編『現象学事典』弘文堂、「パース」の項目による)。

【追記 2007.3.27】
ガンダムシリーズそのものに関する具体的な話を聞きたいという人はこちら(→「ガンダムシリーズ諸作品に関するメモ」)をお読み下さい。



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PS.
これまたどうでもいい話なんだけど、西欧に行くとこれまた話が逆なんだよね。あっちは「手紙は届く」という信念が強すぎて、「届かない」可能性や「間違って届く」可能性にまで頭が回らない。だから、デリダみたいな人は、あえて宙ぶらりんになって、「届かない」可能性や「間違って届く」可能性を態度で示し、逆説的に読解の責任を問うといったことをする必要があった。しかし、日本で同じことをやったら単にオタク肯定ということにしかならないよね。西洋人から見たら余程異様に見えるだろうね、東のはじっこのこんな状況。

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