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La ricerca della morale che non dipende da una cosa della trascendenza...
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法理学的に面白い記事がたまたま同時に出てきました
こんばんは。

唐突だけど、客観的な記述って何だろう。みんな普段、普通に客観的という言葉をつかっているけど、この「客観的」というものの基盤は、思っている以上にたよりない。結局、それを支えているのだってニンゲンの営みなんだから、ニンゲン的な臭気も背負ってしまっているってわけ。

ところで、客観的に記述されたもの、たとえば法律のようなものが、根本的に政治のような社会的実践、およびそういう関心によって規定されたものだという議論は昔からある。それこそホームズ判事以来の、現代法理学の正統だね。これはいまではかなり基本的なことなんだけど、その「基本的な」指摘のクリティカルな威力は未だ失われてはいなくて、実際にこの論法はアクチュアルな問題の批評によく使用されている。

で、過日、そういう思考を触発する記事をふたつ、ネット上で発見したよ。どっちも説明の必要もないほどの有名人のblogで、しかも専門分野は別なんだけど、同じことを考えさせるような記事がどういうわけかほぼ同時に出てきたので、せっかくだから一本書いておこうかと思った次第。

……

◎ウィキペディアのガバナンス/池田信夫 blog
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/767af1e9429731aea46b3c1fa50925a3

◎古めかしく彩られた新しさに感染した私/宮台真司
http://www.miyadai.com/index.php?itemid=479


どちらの記事も、客観的に記述されたものとしての「法」が、じつは根本的に政治性を孕み、しかもその政治性を隠蔽することにより最大限の政治的効果を挙げることを企図して構築されたものだということを指摘する。ウィキペディアのガバナンスは非常にナイーブにそれに依拠しているがゆえに、信念の対立する政治的・宗教的な問題を解決するツールとしてひたすら無力である。廣松渉の場合、まさにこの「真理の政治性」を革命のため積極的に利用せんとしていたので、真理性の要求に執って「自己言及の思考」を却けた。

ナイーブに真理性の要求に則って古めかしい記述に甘んじていたかに見える廣松渉の記述は、宮台氏によると実は「振る舞いにおいて新しくあるため」の、いわばそれじたい政治的な企図を含んだものだったということになる。その点、小サークル的な「政治からの退却」志向ゆえ、政治的情況および自らの政治性についてひたすらナイーブで、それゆえ政治的対立に対し無力であり続けるウィキペディアとは、振る舞いにおいて正反対だ。要するに、廣松が秀でていた部分において、ウィキペディアは劣っているのである。記述の客観性について、廣松の方が決定的に老獪であり、また試合巧者だったというわけだ。但し、試合巧者がいつでも試合に勝てるというわけではない。そこは歴史の女神の気まぐれというやつだろう。

では、僕たちは、法あるいは記述の客観性や真理性へのナイーブな信頼を捨て、より政治的に仕掛けてゆくべきなのか?ある意味ではそうだともいえる。記述の客観性というものがそもそも政治的に措定されたものであるならば、僕らは客観的な記述に対しいつでも眉に唾をつけておく必要がある。では、客観性はついに政治に屈するものであり、また屈すべきものなのか?否。いまある客観的記述が「正義の特殊構想」に過ぎないということを直視し、その政治性を懐疑に付すことにより、よりよい社会的状態(あるいは政治的対立の解消)を目指すべく、つねに政治的に(!)手を打ってゆくべきなのだ。正義(の一般構想)というものは、そうした営みの彼方にしか見えてこないのだから。

ともあれ、ウィキペディアは、このままではその客観性を危うくする一方だろう。客観性の政治的利用を企図する勢力は星の数ほどもあるのだから、それでもそういう政治性に染まらない客観性を確保すべきだと考えるならば、その客観性を確保すべく、政治的利用を企図する勢力にたいしそれこそ政治的に(!)仕掛けてゆく必要がある。それこそ廣松渉のように、そうするのだ。それは不可避の道だろうし、でなければやがてウィキペディアもこの「大きな」情報戦に敗れ、無秩序なプロパガンダ装置に堕するしかなくなるだろう。

……

僕もウィキペディアはよく使うから、その行く末には無関心でいられない。そうすると、かのサイトの客観性志向がナイーブだってことは、当然いろいろ読むにつけ思うところがあったりする。池田氏が言及しているような政治的になまなましい例なんかは特に言えることだけど、それ以外にもつまらないことで編集合戦やら何やらが起きて半保護ってケースは珍しくないものね。

それだけ客観的認識というのは問題含みのものなんだ。それで、かつて哲学者はその支えを神に求めたんだけど、そういう意味の「神」は残念ながら死んでしまったので、人はニンゲンの臭気に充ち満ちた「客観」というものを扱いあぐねるようになってしまった。ウィキペディアのような、書き手たるニンゲンの善意を頼みにしているような場所で、かえってこの臭気があふれ出してしまうってのも、当然というわけ。

難しいところだね。結局ニンゲンの善意なんてアテにするもんじゃないってことなんだけど、アテにできないからといって捨てていいってもんでもないからね。

とりあえず今宵はここまでにしておくよ。じゃ、おやすみ。

L'histoire et Étude|歴史・社会 | 03:38 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark | |
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