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藤島康介の詩学|第1項・作風の自立
(増補・再公開分)


《藤島康介の詩学・目次》



 『逮捕しちゃうぞ』をきちんと読むのは、以外と難しいことだ。

 そのことは、執筆時期にも関係があると思われる。それが今回の出発点だ。
 藤島康介の作風が師匠(江川達也)の影響圏を脱して本格的に自立しはじめるのは、1991〜1992年頃であるといえる1)。それ以前のものは、江川達也『まじかる☆タルるートくん』を思わせるようなドタバタ感があった。コマ毎の情報量が多かったためだ2)

 僕はわかりやすいように、『ああっ女神さまっ』の背表紙のデザインが赤から青に変わった辺りをもって自立の地点とする。しかし、それは藤島風の成立が決定的になった時期のことであって、移行そのものは1991年にすでに開始していた。

 他方、『逮捕しちゃうぞ』の連載終了は1992年である3)。つまり、ちょうど移行期間を開始する辺りの時期に、『逮捕しちゃうぞ』は連載終了しているのだ。

 このことは単なる偶然とはとても思えない。何らかの必然性があると考えるのが自然だろう。そう思って読み比べていたら、パーティーKC版第7巻(最終巻)のカバー折り返しで、作者本人が以下のように言っていた。


みなさん、いよいよ最終巻となってしまいました。おかげ様で、大変思い出深い作品となりました。”逮捕”はこれで終わりですが、他の作品にも”逮捕”の血は流れ続ける事になるでしょう。

 一見、ありふれた決まり文句に過ぎない言葉であり、それだけに僕らは軽視しがちになる。しかし、このありふれた言明が単なるリップサービスではなかったという事は、その後の『ああっ女神さまっ』にて証し立てられてゆくことになる。

小早川「正義って正しい事って意味だけど、それを守る事は思った以上に難しいのよ4)。」
(原作FILE.71,アニメ第一期FILE.18,「遊撃ストライク少女隊」にて)

 ありふれたこと、あたりまえのことを最も素敵なかたちで実現する。思えば、『逮捕』の良さというのは、そういうところではなかっただろうか?


第2項「『逮捕』の血脈1 … 全身の対話」につづく

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1) その意味で僕は、内藤泰弘氏とほぼ同意見である。くわしくは月刊アフタヌーン2003年1月号の巻頭対談を参照のこと。
2) 情報を担った表現要素が一定の単位文節内に多ければ多いほど、受容時の印象は雑然とした感じになる。(漫画なら、それは「コマの中の表現要素の多さ+コマ割りの細かさ」で決まる。)そういう傾向のものは、様々な情報、意匠を盛り込むことができるので、ナンセンスギャグ作品には向いているのだが、雑然としている分物語の幹が埋もれ易くなるので、メッセージを担わせるストーリー作品には向かない。
3) 最終巻の発行が1992年5月23日。
4) 逆に、これを簡単だと言う者は、ストライク男と同レベルということになるだろう。原作FILE.71参照。


「藤島康介の詩学」 | 23:59 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark | |
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