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藤島康介の詩学|第2項・『逮捕』の血脈1 … 全身の対話
(増補・再公開分)


《藤島康介の詩学・目次》


 承前。

 前項で僕は、藤島康介の作風の自立に、『逮捕』の血が関わっているということを指摘した。しかし、この時点ではまだ、仮説として提示するには弱いだろう。「時期の一致」という根拠しか挙げることができていないのだから。『逮捕』の完結が藤島康介の作風の自立にいかに深く繋がっているか、それを検証するためには、もっと積極的な論拠を見出す必要がある。

 では、『逮捕』の血は、実際どのようにその後の藤島作品に流れているのだろうか?まずは、その点についてざっと概観してみたい。

 とはいえ、『逮捕しちゃうぞ』も『ああっ女神さまっ』も、長年にわたって連載されてきた大部の作品である。『逮捕しちゃうぞ』で6年弱、『ああっ女神さまっ』に至っては19年も連載を続けてきて、いまなお連載継続中の作品である5)。そのなかから「血脈」をひとつひとつ網羅的に拾っていったら多すぎてキリがなくなってしまうので、とりあえずは、代表的なエピソードを抜粋して紹介しよう。

 まずは、FILE.66「お母さんは20歳」から。

 この話は、中嶋剣の年下の義母、瀬奈が初登場する話である。このエピソードのなかで、中嶋は瀬奈に買い物に連れ出されるが、その途中、瀬奈の口から、剣の父・中嶋大丸と彼女の馴れ初めについて語られるシーンがある6)

中嶋「なあ」
瀬奈「え?」
中嶋「なんで親父と結婚する気になったんだ?」
瀬奈「ふふ」
瀬奈(回想シーン)「初めてだったわ、私の庭ともいえるあの峠で負けたのは。しかも二輪によ。ショックだったわ。
 駐車場で休んでた彼に”ずいぶん走り込んだのね”って言ったら、
『いや、今日初めてだよ。俺は峠に道を聞いて走ったのさ。』
その時あの人の人間の大きさを感じたの。」
・・・(回想シーン終わり、引き続き瀬奈の台詞;引用者)
「それ以来、私の心はあの人に釘付けよ。」

 大丸は息子である剣にバイクのテクニックを教えた凄腕のライダーであるし、この話で初登場する瀬奈は、ケーターハムスーパー7という、小振りな車体ながら180馬力の出力を誇り、峠では最速と言われる車を愛車とする走り屋である。また、ふたりは単なるバイク/車マニアにとどまるわけではなく、走ることにおいて独自の美意識と倫理観を持っている点でも共通している。そんな二人の出会いも、やはりそれぞれの愛車の上だったわけだ。

 引用箇所によると、瀬奈が大丸に惹かれたのは、大丸が初めて通る峠を、始めてであるにもかかわらず、そこを「自分の庭のように」、走り慣れている自分よりも慣れた感じで走ったからだったわけだが、大事なのはなぜ大丸にそれができたのかということだ。

 曰く、彼は「峠に道を聞いて走った」。つまり、大丸は「峠に道を聞く」ことができる。いいかえると、バイクに乗る時、周囲の環境と自分から「対話」することができる。そこに瀬奈は、「人間の大きさ」を感じたわけだ。それは大丸、ひいては作者自身が実際にバイクに乗るときの身体感覚に起因するものであり、いわばライダーとしての藤島の肉声である。

 とはいえ、これは非常に簡潔な表現である。それは簡潔であるがために、ある種の爽快さを感じさせてくれるところがある。それは独特のグルーヴ感を醸成するもので、そこが初期藤島作品の魅力のひとつとなっている。ただ、簡潔であるということはその分、詳しく読むには手がかりが少ないということでもあり、読解のためには親切とは言えないことで、そこは難しいところだ。ただ、ある種のセンスがここで表明されているということは確かにいえるだろう。

 ところで、こうしたセンスは、のちの『ああっ女神さまっ』にて、濃厚かつ意識的に受け継がれている。以前僕は、「東洋の女神?」という記事を書いたことがあるのだが、そのなかでこの点について触れている。そのとき僕は、ベルダンディーが、スクルドたちに自転車に乗ることの魅力を話す場面について触れた。すこし引用してみよう。


ベルダンディーは言う。(13巻、Chapter.73「イジワルお姉さまっ」p.22)

『自転車は自分から踊る風と対話できるのよ
 時に激しく また穏やかにーーー
 季節のうつろいと共に 風の密度が変わるのがわかる
 周りを包む流れる緑や雲も
 全て自分の脚から対話が始まるのよ
 ・・・
 だから、わたしは自転車がとっても好き』

 風の密度、周りを包む流れる緑や雲、、、
 いずれも、西洋的観相からは出てきそうにない感覚だ。
 全身で自然と「対話」する、という感覚。
 まさに自分を自然に同化させているのである。
 東洋的感覚に包まれる「現在」の女神。
 彼女の言葉はじつに似つかわしいものだ。


 上のベルダンディーの言葉を聞いたスクルドと螢一は、うっとりと聞き入ってしまう。瀬奈が大丸に感じた魅力は、バイク乗りの身体感覚とそれが導いた結果であり、さらにはそのすべてを実現した大丸の「人間の大きさ」だった。それに対し、この詩的な表現において語り出されているのは、ベルダンディーが自転車に乗るにあたっての、ほとんど作法にまで昇華された身体感覚である。勿論これも、みずから動かす乗り物に乗るときドライバーに訪れる身体感覚であり、それはじっさいに自転車に乗る体験と切り離せるものではない。ベルダンディーの口から表明され、スクルドや螢一を魅了しているのは、その感覚なのだ。その意味では、彼らの感じた彼女の魅力は、瀬奈が大丸に感じたものと共通するものといってよい。

 かつて触れたように、そこには東洋的倫理観を垣間見ることができる部分だ。自然と自己とのあいだに絶対的な距離を措定してしまう見方では、この微妙な感覚のほとんどを捉え損なってしまうだろう。まあ、西洋と東洋という分け方がかならずしも適切とも思わないが、このさいそれは措いておこう。とりあえず、マテリアル同士のコンタクトとしての身体感覚が、とりわけバイクに乗るという行為7)を通じて突出しているということは確かにいえることだ。

 そしてその感覚は、たんに身体感覚であることを超え、乗り手の「人間の大きさ」を伺わせる本にもなっている。つまりそれは、乗り手がその身体感覚を通じて環界としての自然とある種の関係に入ることができることを示しているわけで、そうした能力あるいは作法というものが「人間の大きさ」というかたちで瀬奈、あるいはスクルド・螢一に伝わっているのだ。そしてそれは、行動における理想的なあり方、即ち倫理の提示ともなっていて、話を聞く者に対し現実の行動を要請する。じっさい、以上の如く「自転車に乗ることの楽しさ」を教えられたスクルドは、同じエピソードの続きの部分で、自ら進んで自転車に乗る練習をすることになる。

 以上のことから、大丸とベルダンディーと間には、共通する倫理観が流れていることを指摘することができる。そのことは、螢一が中嶋剣を引き継ぐキャラクターであるという見方にも通じてくるだろうし、それはやがて、藤島康介の自然観/生命観にもつながってくるだろう。

 ここでやっと本題に戻ると、1992年以降『ああっ女神さまっ』において際立ってくるのは、こうした香気である。次の項では、もうひとつの例を見てみよう。


第3項「『逮捕』の血脈2 … モノの生涯」につづく

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5) 2007年4月現在。
6) テレビアニメ第一期FILE.17「20歳のあの娘はお母さん」では、夏実と美幸の部屋で、2人に聞かれて話している。1シーン特別に用意することにより、このエピソードをよりクローズアップすることに成功している。
7) 原動機の有無は、恐らくあまり関係ないだろう。ただ、いまのところ4輪に対し2輪が、また完全に覆われた4輪よりもコンバーチブルタイプの4輪が優位にあるということは、指摘できるところである。「まわりの風との対話」という感覚に訴えるかぎり、やはり剥き出しの度合いの強いものが重視される傾向があるのも理の当然なのかもしれない。


「藤島康介の詩学」 | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark | |
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