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評価:
藤島 康介
講談社
¥ 651
(2004-07)
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(増補・再公開分)
→《藤島康介の詩学・目次》
承前。
前項では、中嶋剣の父親・大丸の「峠に道を聞く」という態度が、自転車に乗って「風と対話」するベルダンディーの態度に一脈通じているということを指摘した
8)。これは、ベルダンディーの東洋的倫理観に通じる脈なので、かなり大きな血脈だといえるだろう。
今回は、もうひとつの大きな血脈について見てみよう。それは、自然観/生命観に関わってくるものである。まずは『逮捕』の方から。
とりあげるのは、FILE.31「1万回転のMONUMENT」である。
昼休み、美幸は中華料理屋のにいちゃん
9)から、ワゴン車の店鋪で売っていたという「マクラーレンのピストン」を貰う。それは滅多に手に入るものではないF-1の部品であり、美幸も一瞬心踊る。が、すぐにそれが模造品であることに気がつく。実際にはそれは国産のツインカムのピストンらしきものだった。
10)そして、その直後に帰ってきた中嶋も、例のワゴン車で模造品のバルブを掴まされてしまっていた。大切な人まで騙されたとあっては美幸も黙っているわけにはいかない。彼女はひそやかに捜査を開始し、ほどなく一軒の解体業者に行き当たる。訪ねてみたところ、それは寂れた町工場で、元は自動車の系列会社だったのだがコスト削減により系列から切り離され、こんなことをやっていく以外途はなかったのだということだった。
その時美幸は、参考用として置いてあった本物のF-1のピストンを手に、以下のように語りはじめる。
「知らない人にはただの小さな金属の塊だけど、
世界の誰よりも速く走るために生み出されて、
圧送される大量のガスに、一千馬力の炎を点けるスパークプラグが、
「彼」に、1分間に1万回の上下を強要するーーー
そしてわずか2時間弱の、その生涯を燃やしつくした6個のピストンのうちのひとつ。
それを手にした人は、焼けたレーシングオイルの匂いをかぎ、アスファルトのコースいっぱいに充満する爆音を聞くのよ。
たかがピストンにすぎないけれど、ニセモノを売るっていう行為は、このピストンの生涯や生み出した人々に対して、あまりにも礼を失していると思うの。」
メカに対する慈しみに満ちた美幸の態度を非常によくあらわしている言葉である。美幸の趣味はしばしば単なるメカマニアのそれとしか見られていないが、実はそうではなく、それは大丸たちの身体感覚と一緒で、そこにはたしかな倫理観が見え隠れしているのだ。
マクラーレンか国産か、そういう部分ばかりに美幸が目を奪われていたのなら、それがニセモノだと気付かれることはなかっただろう。しかし、美幸は腕利きのエンジニアなので、手触りでわかってしまうのだ。それは触った感じが違った。彼女はその触った感じから、それがどういう生涯を送ってきたモノであるかを感じ取る。そしてそれは、きわめて過酷な二時間半を闘ってきたモノの手触りではなかった。まるで違うものが「マクラーレンのピストン」と呼ばれることにより、まったく異なる生涯が同列の交換価値を持つものとして扱われてしまう。それは実際に闘ってきた本物にたいして失礼ではないのかーーー。ニセモノを掴まされたということよりも、そちらの方が美幸には許せなかったのだろう。じっさい、無料でもらったものだから、経済的な意味で彼女が怒る理由はないのだ。手触りから伝わってくる「モノの生涯」が、「マクラーレンのピストン」という記号のもと無視されてしまう。そこを美幸は問題にしているのである。
モノを大事にする、という感性が、消費社会の進行とともに後退して久しく経つ。もちろん、それは時の経済関係を反映していることであり、一定の合理性のあることではある。しかし、だからといって、それが完全に後退しきってしまうのはどうだろうか。すべてが既製の記号に還元されつくし、モノの生涯というものが省みられなくなり、いっさいが既製品の記号に還元されつくしてしまったとき、人はメランコリーに支配されることになるのではないか。
美幸のまなざしはモノの生涯に向けられている。モノの記号=商品としての側面(=観念的に見られたモノ)にばかり目を奪われるのではなく、技術屋的なまなざしによってモノの生涯をまなざしているのだ。メカは何かを生産しつづけ、生産活動が不可能になったとき、その生涯を終える。美幸は技術屋として、その身体を通じてかれらとコンタクトし、その過程をまなざし、その生涯を慈しむのだろう。彼女は観念的な幻影を信頼しない。手触りでコンタクトできる、モノの生産過程を信頼し、そこに情熱を傾けるのだ。それは生産=創造活動であり、そうした側面こそがじっさいに価値を生み出すのである。
ここで少し、思い浮かべることがある。
「モノの時代からココロの時代へ」ということが言われるようになって結構長い時間が経過した。しかし、こうした一般によく耳にするまとめられ方は、こうした点から考えても完全に間違っている。少なくとも呼称が適切ではない。「モノの時代」などというが、それが実際にさしているのは1960年代の高度成長期からバブルの時代などの高度消費社会といわれた時代であり、いわば「記号=商品の時代」のことだ。記号=商品というのは交換価値だから、観念的なものである。
たとえば、バーゲンで買った量産品のバッグとクリスチャン・ディオールのデザインしたバッグなどを比較したとき、その違いはどこにあるか。モノとしては、つまり物質としては両者は同じものである。どちらも牛革なのだから、元の牛の育ちの違いはどうあれ、その構成元素などはほとんど違わないだろう。ならば、物質的には同じ牛革でできているといっていい。では、両者の違いはどこにあるのだろうか。
物質的には同じなのに価値に著しい違いがあるように見えてしまうのは、価格という観念的なものが働いているからである。もちろん後者は世界的に高名なクチュールが製作したものだから、製品としての仕上がりに大きな差異はあるだろう。しかし、例のバブルの時代にあふれたにわかコレクターたちすべてに、その実際上の違いが感覚的に実感できていたとは到底思えないし、ましてそれが価格の著しい差異を直接規定していたとは考えにくい。では、なぜかれらはブランドものをそんなにありがたがったのか?「ブランド」という付加価値があり、それを持つことが社会的なステイタスを伴っており、じっさいに高く売られていたからだ。つまり、その観念的な価値がそうさせていたのである。
多くの人が「モノの時代」ということで言い表すのは、そういう観念的な差異ばかりが支配的だった時代のことだ。するとそれは、むしろ「ココロの時代」と呼んだ方が適切なくらいだ。なのにそれが「モノの時代」と言い表されてきた。なぜそうなってしまうのか。恐らくそれは、ひとがさしあたってたいていは、観念の差異をモノそのものの差異と勘違いしているせいだろう。そして、「モノの時代からココロの時代へ」という決まり文句を見る限り、その勘違いはいまだに続いている。すると、結局われわれはバブルの時代になにを勘違いしていたのか、いまだに認識しきれていないということになる。
ならば、現状を変えるべきだと思うならば、向うべき方向がまったく逆である。ブランド的な観念の絶対主義からはなれ、具体的なモノ=生産関係に立ち還るべきなのだ。じっさい、「モノの時代からココロの時代へ」というフレーズで、時代はどう変わったのか。社会との繋がりをもてない「ココロ系」「セカイ系」の若者が増えただけではなかったか。そういう意味でなら、たしかに「モノの時代からココロの時代へ」という理念は実現されたともいえる。しかし、すくなくとも筆者には、それが健全な方向性だとはとても思えない。
資本主義の世の中である。観念的なものの価値を追求して行けば、すくなくとも日本に住んでいるかぎり生きてゆくことはできるだろう。しかし、観念的なものは結局のところは記号である。記号はひとつの表象としてモノを代理するが、そのとき実際の「モノの生涯」はつねに記号の背後に退き、隠蔽されてしまう。そして、観念をモノそれじたいと取り違えた現代人が、背後に隠された「モノの生涯」に気付くことは決してない。そういう認識論的倒錯にどっぷり浸かっているうちに、人はマクラーレンのピストンと国産のツインカムのピストンの違いもわからなくなってしまうのだ。たしかにそれは、多くの現代人にとってさしあたってたいていはどうでもいいことだろう。しかし、こうして観念の海に溺れ感性を鈍麻させているうちに、われわれはなにかを決定的に喪っているのではないだろうか。
そういう問題意識において先のエピソードをみるとき、美幸の問題意識が何に向かっているのかが明らかになってくる。あるいはそれは、こうした現代的なものに対するアンチテーゼなのかもしれない。
11)
このように、美幸のメカいじりは倫理的意味を持っている。そしてそれは、やがて生命観/倫理観にまで昇華され、藤島作品の根幹を為すに至るだろう
12)。
こうした美幸の倫理観は、もちろん『ああっ女神さまっ』に受け継がれている大血脈である。以前僕は、「ベルダンディーの宇宙観と生命観 | 『ああっ女神さまっ』解読の試みとして」という記事を書き、ベルダンディーの言動に含まれる哲学的な含意を引き出そうとしたことがある。そこで触れたのはおもにベルダンディーの生命観だが、他者との関係のあり方という意味で倫理的な含意を持つものでもあった。もちろん、美幸の技術屋的倫理観をもっとも正統に受け継いでいるのは森里螢一や藤見千尋だが。
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第4項「ピリオド」につづく
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8) 付け加えると、『ああっ女神さまっ』23巻に登場する螢一の父・桂馬は、最もストレートに大丸の路線を受け継ぐキャラクターであろう。
9) 比呂川という名前?
10) ピンと来ない人もいると思われるので一応説明しておくが、同じピストンでも、F1のものと市販車のものとでは貴重さが全然違う。美幸の台詞にも表れているように、F1のエンジンは注目度が高い上に稼働環境が過酷であるため、メーカーの技術の粋が尽くされる。加えて、大変レアなものでもある。なにしろF1のエンジンは、極端な話各チーム2セットずつしかないし、それも各レース一回こっきりの使い捨てのものとしてつくられているのだ。
11) 余談だが、ここまで書いたあと、経済学に通じた友人から、「これは労働価値説の復権か?」と言われた。書いた時点ではっきり意識していたわけではないが、言われてみれば確かにそう読める。社会契約説が復権を見る時代である。もちろん、素朴な労働価値説に回帰するだけでは仕方ないのだが、そういう方向性があってもいいだろう。いまさら消費社会論が画期的なわけでないことは、バブル経過後なのだから、そろそろ学習しないといけない。
12) したがって小早川美幸はバイクや四輪をいじる人でなければならないのだ。この点は作品の根幹を為すところなので、そこが違ったらまったくの別作品になるといっていい。
モノは、生産から消費までを生きているものではなく、
ただ“ある”(存在している)ものとして捉えるようになっていると考えます。
前者が育てられた花で、後者は道ばたの草のようなものです。
いつ、どこで、どのように作られたかリアルに感じられない自然なモノです。
人間も、存在するだけの存在になっていってるとすると、
1月18日の日記にある「《人間》の死」ということでしょうか。
もし創造者である人間が死ぬと、モノはますます自然なものになるでしょう。
「情報」もモノと同じような道を辿っていると思います。
「《人間》の死」というのはお遊びで引用した現代思想のクリシェですが、この言葉が時代認識としていよいよ現実味を帯びてきたことは確かですね。情報化の果てに、自然をコントロールして主体的に生きてきた(と、かたく信じていた)《人間》が「死に」、かわりに、システムの中で既定の反応を繰り返すだけの「ヒト」が生まれつつある、と。
しかし、自然をコントロールしてきたという信念が状況の変化により崩壊しただけだと考えるなら、相変わらず僕らは必然の網目の中で生きていることに変わりないのだともいえるわけです。ただ、主体的生という虚構が失墜した以上、モノとの付き合い方は変化するかもしれません。
そのとき、これまで操作対象だったモノが、ふたたび僕らを必然の桎梏に閉じこめる笞となるのか、それとも、「美幸のまなざし」を通じてコンタクトすることが可能な隣人となるのか。そこは難しいところですが、ともあれ、以前よりは“道ばたの草のようなもの”としてモノと付き合ってゆく道を探ってゆかざるを得なくなるような気はしますね。
勿論情報技術に関しても同じで、付き合い方が変わってきています。そこで、より「スマートに」、「自然と触れ合うように」という考え方をする人が出てきても不思議ではありません。Apple社の人とか。
>《人間》が「死に」、かわりに、システムの中で既定の反応を繰り返す
>だけの「ヒト」が生まれつつある、と。
なるほど。
せっかくなので、もう少し考えてみました。
《人間》は、自然を操作し、いろいろなモノを創造してきました。
これら《人間》による創造物は、創造の時点で《人間》が所有しているものです。
そして、ヒトがつくるモノは、創造者にあるような所有がありません。
例えば、職人が作るこだわりの一品には、職人にはそのモノに対する所有があります。
モノが創造者の望む相手(そのモノに対して心から賛美する人間)に渡れば、
その人間もまた、モノを所有します。このモノは、完璧です。
所有の逆が、消費です。
ヒトは、つくったとき消費し、買って消費するのです。
消費するとき主体がなく、
所有するとき主体があります。
「水源」(アイン・ランド著)より引用します。
(引用はじめ)p.784
「・・・『イエス』にせよ、『ノー』にせよ、そう言えるだけの見識、能力というのが、
所有権というものの本質です。所有権とは、あなた自身の自我をあなたが持っている
ということです。・・・」
(引用おわり)
インターネットによる情報の共有化によって、情報伝達の消費が出現しました。
情報伝達の消費とは、「情報を発信しているが受信の確認が不確か場合」とします。
例えば、6年ほど前のジオシティーズに多くあった、とりあえず作っただけのページです。
インターネットによる情報は、伝達を目的としているので、その目的達成に
よって情報伝達を所有すると考えます。
近年、この情報伝達目的を達成するための技術が発達しています。
たとえば、ブログのトラックバックです。
これらは情報の消費から所有へと向かうものです。
情報伝達の所有とは、インターネットの中で自分を出すということでしょう。
それは、現実世界のヒト化とあわせて、ネットの中での人間化と言えるかもしれません。
長くなりそうなので、続きは新エントリーを起こしますね。