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La ricerca della morale che non dipende da una cosa della trascendenza...
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禍福はあざなえる縄のごとし、か?
アフタヌーン1月号を読んで、嬉しいことが一つだけあった。

それは別に、ついに出た「ラピュタ」のパロディーのことではない。大森カズフサのハッピーバースデーでもない。(当たり前か。)そういうささやかなことではない。漫画に関わることでは、ここ最近で一番うれしかったことだ。

豊田徹也が帰ってきたのである。


正直言うと、ほとんどあきらめていた。「工場で働く」と言い残し、姿を消したと聞いていたからだ。また、振り返って『アンダーカレント』(氏が一冊だけ著した作品である)を読むと、この人がそういう行動をとるであろうことに異様な説得力を感じた。二つの出来事は、並べるとあまりにすんなりとくっついてしまうのだ。

しかし、豊田徹也は帰ってきた。失踪したかなえの夫が終には再び姿を見せたように、漫画家としての豊田氏は僕たちの前に戻ってきた。但し、弁解がましい疚しさを引きずって、ではない。堂々と、人を食うような読み切りをもって現れたのだ。

タイトルは「スライダー」。

淡々とした日常性のトーンは相変わらずである。そこには、彩られた華やかさとは無縁のむきだし感があり、裕福さのかけらもないギリギリ感があり、しかも、目に見えるスリルもサスペンスもないのである。…いや、それっぽい場面も今回あるにはあるが、手に汗握るというより間抜けで滑稽な展開の仕方をする。主人公の男は無職であり、子供にどやされるような男であり、しかもちょっと天然の気があったりする。そんな男のところに、似つかわしくも貧乏神が転がり込んで来るというのだから、ほとんど悪意である。

でも、その悪意にこそ、2年の時の流れが凝縮されているのだ。多分。

唯一の前作『アンダーカレント』にて、その日常感覚はほぼ完成されていた。何でもない日常。よく知っている、いや、知っているはずの人々、風景。そのすべては、無根拠な信頼を礎として成り立っている。そんななか、僅かな「まちがい(エラー)」が訪れた。蟻の一穴のような出来事。それはやがて、足許の虚無を仄めかしつつ、じわじわと、信頼していたあたりまえの生活世界を浸食してゆくだろう。そして物語は終末に到る。そこには衝撃も驚嘆もない。知っていたはずの結末。知っていたはずなのに、目を背け続けてきた結末。そのすべては、さりげなく静かにやってくるのだ。残されたのは、ぽっかりと大口を開いた虚無、ただそれだけ。

要するに、自分は何も知らなかった。そのことが、かなえを追い詰める。過日引用した内田有紀のコメントでも言われていたが、斯様に、僕たちの歩く道の途上には、自分には何もないこと、何も知らないのだということをどうしようもなく突きつけられる瞬間というのがある。その瞬間は、センセーショナルなかたちで訪れるとは限らない。希にそういう場合もあるだろうが、大概はさりげなく、静かに、致命的な傷を開いてゆくのである。

その、静かな足跡を、そのままむきだしで記録すること。豊田徹也が選択したのはこちらの道だった。こちらの道は、当然、作劇術としては非常に険しい道である。松尾スズキですらそうしたように、象徴的な平面に押し込めて、センセーショナルに描く方のが余程やりやすいし、安全なのだ。そうすれば、作者の実存は虚無にたいして適切な距離を保つことができる。しかし、豊田徹也はそうしなかった。正面衝突したのだ。

そして、2年の月日が流れた。

あきらめかけていた僕たちの前に投じられた一球は変化球だった。愚直に直球ばかり投げていた投手が故障明けの一球目に岩瀬仁紀ばりのスライダーを放ってきたら、普通なら面食らうところだ。ところが、今回の「スライダー」は、そういう違和感を全く感じさせなかった。それは、淡々とした作風や筆致が相変わらずだったということもあるだろうが、それ以前に、僕らは彼が変化球を投げられることを知っていたのかもしれない。そういえば、『アンダーカレント』でも、助平なサブじいの存在感は際立っていたし、うさんくさい探偵のバカらしさにもとても愛嬌があった。ただ、笑いが周縁に留まっていたのだ。

今回は、笑いが中心に向かっている。つまり、主人公のコーヘイを結節点としてネットワークされる人々、そのすべてが哄笑の標的となるように出来ているのだ。要するに、自分自身の実存を笑い飛ばすヒューモアが表れているのである。

たまたま福の神を手中にしたバカ社長は興隆の果てに壮絶な没落を遂げたが、彼に貧乏神を突きつけたコーヘイは別に金持ちになるでもなく、相変わらず調子こきすぎて小学生に怒鳴られる日々を過ごしている。まことに人生どーしようもない。しかし、このどーしようもなさが愛すべきものに見えてしまうのが、作者の高度な技量に眩惑されてのことではないはずだということは、無根拠ながら信頼しておくとしよう。(了)
Un film,Comiques,Autres...|映像文化・漫画 | 19:54 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark | |
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