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La ricerca della morale che non dipende da una cosa della trascendenza...
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自由をめぐるヴェイユとスピノザの邂逅
ちょっとした読書メモ。

一時は誰もが無神論者と信じて疑わなかったスピノザと、不在の神を待ち続ける思索者・ヴェイユを結びつけることは、ひょっとしたら突飛な考えと見えるかもしれない。しかし、ヴェイユの論述にはスピノザを意識して書かれたとしか思えない箇所が頻繁に出現するし、両者とも他人を惹きつけてやまない壮絶な生き方をしたことで知られている。『自由と社会的抑圧』の献辞はスピノザの『国家論』から採られているが、どうもそればかりではないような気がする。

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さて、同著にてヴェイユは言う。


恣意的な行為は判断にもとづかない。よって厳密な意味で、自由な行為とは呼べない。(p.84)


この記述は『エチカ』第四部を思い起こさせる。そこにはあまりにも有名な序文がある。「感情を統御し抑制する上の人間の無能力を、私は隷属と呼ぶ。なぜなら、感情に支配される人間は自己の権利のもとにはなくて運命の権利のもとにあり、みずからより善きものを見ながらより悪しきものに従うようにしばしば強制されるからである。」つまり、感情に流されるままの行為、恣意的な行為は「自由な行為とは呼べない」のである。それには知性にもとづく判断が欠けている。では、判断とは?


いっさいの判断は客観的状況を対象とする。したがって必然の網目を対象とする。生きている人間は、なにがあろうとも、頑として揺るがぬ必然に四方から圧迫されつづける。とはいえ、人間は思考する。ゆえに、必然が押しつけてくる外的刺戟に手もなく屈するか、みずから練り上げた必然の内的表象に自身を適合させるか、というふたつの選択肢を有する。ここにこそ隷従と自由の対立がある。(p.84)


必然は「頑として揺るがぬ」ものだから、どう足掻こうともわれわれを拘束しつづける。つまり、必然の圧迫から逃れる術はない。このとき、必然からの解放をもって自由を定義するならば、自由はどこにもないことになる。しかし、ヴェイユはそのようには考えない。必然の網目はわれわれの周囲すべてを覆っている。しかし、隷従と自由の対立は、その前提の先にある。僕らを拘束しつづける自然的、社会的拘束という必然に「手もなく屈する」か、それとも「みずから練り上げた必然の内的表象に自身を適合させる」かによって違ってくる、と。どういうことか?


肉体の非理性的な反作用にせよ、他者の思考にせよ、あらゆる仕草が自身の思考以外を源泉とする場合、その人間は完全な奴隷である。挙動の逐一が五臓六腑をえぐる痙攣から生まれる飢えた原始の人間、笞を手にした監視人の命令につねに身構えているローマの奴隷、流れ作業で働く近代の労働者は、このみじめな極限状況に近づく。完全なる自由については、しかるべく解かれた算術や幾何学の問題のうちに、抽象的な範例をみいだせる。(中略)完全に自由なる生とは、あらゆる現実的な困難がある種の問題として呈示され、行動に移された解答が勝利を意味するような生だろう。そのとき成功の要素はすべて与えられるだろう。いうならば数学者の記号群のごとく、既知にして操作可能なものとして。(P.85)


ここでヴェイユが完全に自由な生について数学を持ち出していることが興味深い。数学の問題もその解答も、論理的必然によってすべてが展開するという意味で、必然に支配された世界である。しかし、解決の糸口が問題に内在するものでしかなく、しかも解決に到るときおのれの判断にしか頼ることができないとき、数学者は状況を知的に支配している。結局は必然にしたがってなるようになっているに過ぎないかもしれないが、状況に知的に関わっているのだ。そして、その限りで彼は自由である。

つまり、自由は徹底的な認識とともにあるということである。揺るがぬ必然に囲まれて生きる僕たちにとって構想しうる自由は、こうした種類のものでしかありえないのではないか。そのように考えたとき、ヴェイユの考え方はスピノザの「神への知的愛」という考え方にきわめて近いところにある。(了)

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PS
因みに、シモーヌの兄アンドレは、ブルバキ代数の中心人物の一人である。
Un passage fragmentaire|断章 | 00:27 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark | |
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