Cause we are the ...

La ricerca della morale che non dipende da una cosa della trascendenza...
<< March 2024 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 >>
 
SPONSORED LINKS
RECENT COMMENT
  • そして少佐はネットの海に消えた…|必然に抗う主体の往還二廻向
    よはん (09/09)
  • そして少佐はネットの海に消えた…|必然に抗う主体の往還二廻向
    よはん (09/09)
  • そして少佐はネットの海に消えた…|必然に抗う主体の往還二廻向
    よはん (09/09)
  • そして少佐はネットの海に消えた…|必然に抗う主体の往還二廻向
    宇根 康裕 (09/07)
  • 人は低きに流れ、そしてベヒモスに飲まれる?
    よはん (08/25)
  • 人は低きに流れ、そしてベヒモスに飲まれる?
    宇根 康裕 (08/20)
  • 人は低きに流れ、そしてベヒモスに飲まれる?
    宇根 康裕 (07/12)
  • 人は低きに流れ、そしてベヒモスに飲まれる?
    よはん (06/19)
  • 人は低きに流れ、そしてベヒモスに飲まれる?
    よはん (06/19)
  • 相変わらずの田幸和歌子
    よはん (05/28)
epigraph
  • 「低さ」と名づけられているものはすべて、重力による現象だ。(S.Weil)
  • 水は低きに流れ、人の心もまた、低きに流れる。(H.Kuze)
  • ハハハッ、アステロイドベルトまで行った人間が戻ってくるっていうのはな、人間がまだ地球の重力に引かれて飛べないって証拠だろう?(H.Karn)
Hanabi
iPod
logpi
MOBILE
qrcode
PROFILE
無料ブログ作成サービス JUGEM
 
スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

- | | - | - | pookmark | |
人は低きに流れ、そしてベヒモスに飲まれる?
先日寄せられたコメントへの返答です。(下にリンクするコメント欄参照)

http://nornsaffectio.jugem.jp/?eid=42#comments


(文中に登場する「1月18日の日記」については、リンク先の双方の記事を参考にしてください。)
所有と消費の対比ですが、おそらくそんなところだと思います。所有の概念が確立された頃は近代黎明期で、熟練労働者の職人仕事というのがまだ普通にありました。だから、労働と交換のあいだにある種の安定した関係を構想することができた。それに基づいて近代社会は開始したわけですが、しかし、程なく産業資本主義社会が到来すると、熟練労働にもとづく創造は、資本の所有(!)する大工場における疎外された労働に取って代わられることとなった。ここに「消費」の起源があるとすると、生まれ落ちたその時から「所有」は緩やかな死を迎えつつあったと言うことができます。つまり、創造者の人格的価値を十全に体現したものとしての「所有」の観念は、あらかじめ失われたものとして登場したのだということができる。

そして、情報社会においても「所有」の死は反復されつつ深化しているわけです。ブログの基になる技術を構想した前世紀末のハッカーたちは、おそらく仰るような意味での情報の「所有」を思い描いていたのでしょう。しかし、実際に起きたことは情報リソースの消費でした。

6年前の状況というと僕もいろいろ思い出すところがあります。人がある意図を込めて書いたものを、別の人はまったく顧慮することなく手前勝手に解釈して消費してしまう。その状況に僕も頭を痛めたものです。それで頭に来て解釈しようのない変な文(!)をアップしたことがありますが、その結果、錯乱した挙げ句似たような変な文を書く人が複数出てきたわけです(苦笑)。あれは興味深い現象でした。

その後、本格的にブログが隆盛してトラックバック技術が普及しました。しかしそれも、前述の状況を強化しただけのように思えます。じじつ、付けられるトラックバックの殆どは、スパムか、そうでなくても精々、記事に触発された一人語りというところですからね。互いの人格を尊重した丁々発止のやりとりになることは、あったとしても殆ど奇跡的な確率です。実際、そういうエネルギーを使う対話に入るよりは、スタンドアロンの模倣者となる方を人は選ぶわけです。

つまるところ、人は《人間》であるよりは《ヒト》であろうとするのでしょう。水は低きに流れ、人もまた低きに流れるわけで、地球の重力に引かれて飛べない人間は所有より消費を、自由より隷従を選びがちなわけです。必然の桎梏にたいして倫理的であろうとするよりは、力への意志に翻弄されて生きる方を選ぶわけです。(ヴェイユのいう「重力」ですね。)情報社会においては、情報の並列化の果てにひとは個を喪失してゆくわけです。そこで個をとりもどすにはどうしたらいいか、というのは、これからの思想的課題でしょう。(神山健治はその可能性として「好奇心」を挙げましたが、それが何を意味するかはそれこそこれから掘り下げなければなりませんから。)

ところで、僕はいまではリバタリアニズムは必然的に挫折すると思っており、だから共和主義者を名乗っているのですが、それはリバタリアニズムでは人が低きに就く歯止めにならないことが明白だと思うからなんですね。ランド女史がじっさいのところその点をどう考えていたかは詳らかではありませんが、一般的なリバタリアニズムは「重力」に対して楽観的すぎると思います。彼らが「自動的にうまくいくもの」と仮定して思考から放逐してきたことが、実際のところ上手くいかないわけです。僕らはリヴァイアサンとベヒモスの狭間でだましだまし生きていくほかないわけですが、彼らが思うよりこの二巨獣の力の潮汐力は強大ですからね。実際、人はヒトに流れがちで、自由より隷従を選びがちなのです。その点を考え直して社会構想を練らないと、自由を確保するどころかベヒモスに隷従を強いられることとなるでしょう。(了)




攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX The Laughing Man攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX The Laughing Man
士郎正宗 田中敦子 阪脩

バンダイビジュアル 2005-09-23
売り上げランキング : 2932

Amazonで詳しく見る
by G-Tools


重力と恩寵―シモーヌ・ヴェイユ『カイエ』抄 (ちくま学芸文庫)重力と恩寵―シモーヌ・ヴェイユ『カイエ』抄 (ちくま学芸文庫)
シモーヌ ヴェイユ Simone Weil 田辺 保

筑摩書房 1995-12
売り上げランキング : 131854

Amazonで詳しく見る
by G-Tools


水源―The Fountainhead水源―The Fountainhead
アイン・ランド 藤森 かよこ

ビジネス社 2004-07-08
売り上げランキング : 25115

Amazonで詳しく見る
by G-Tools



Un passage fragmentaire|断章 | 02:59 | comments(8) | trackbacks(0) | pookmark | |
スポンサーサイト
- | 02:59 | - | - | pookmark | |
コメント
from: 宇根 康裕   2008/02/07 5:45 PM
こんにちは。
お返事を書こうと思いながら、1月26・27日と風邪で寝込んでました。
病み上がりの28日からずっと仙台に出張していて、
あまり時間がとれずにいます。
2月と3月はほとんど仙台でホテル暮らしです。
また、落ち着いたら書きます。
寒くなったので風邪ひかないように気をつけてください。
それでは、また。
from: よはん   2008/02/16 12:27 AM
>>宇根 康裕 さん

こんにちは。
実は僕の方でも先月27日に身内で不幸があり、目下その後始末のため忙殺されております。スパム削除程度の最低限の管理はしていますが、ちゃんと読んだり書いたりできるのは来月以降になるでしょう。

先週、二七日の日にはうち近辺でも雪が積もりました。仙台はさぞかし寒いでしょう。お互い身体には気をつけて、落ち着いたら続きをしましょう。
from: 宇根 康裕   2008/05/27 8:53 PM
よはんさん、ご無沙汰しています。
ブログの更新がないので心配していますが、お元気でしょうか?
私は仙台へ引越して、なんとかやっています。

さて、自由と隷従とそのほかについて、書いていきましょう。
自由は、個の性質を有します。つまり個を所有しています。
隷従は、集団の性質を有します。個を所有されていると考えます。
隷従は、集団への帰属意識から個の代替になると考えます。
自由と隷従のない状態は、個もしくは個に代わるものがない状態です。
それは社会との関わり合いがない状態です。これが消費された個です。

隷従には、集団を通して社会と関わり合いがあります。
自由には、個を通して社会と関わり合いがあります。
前者は、集団への信仰に基づき、後者は社会と自分自身の認識に基づくものです。
これは、よはんさんのメモ「2008.01.18 Friday 00:27 自由をめぐるヴェイユとスピノザの邂逅」
の考察を読んで考えました。

自由を手にする人間と隷従を選んでしまうヒトのほかに、関わり合いを持たない人がいます。
隷従先を拒絶したか、隷従先に捨てられたか、ようは重力のない人です。
力の勾配がなくなったせいかもしれません。
小室直樹がいう無連帯(アノミー)で、良くも悪くも力(命令)に従いやすい状態です。
この問題の解決策は、「良い命令」がもっともらしいのですが、
今は力への憧れとともに力へのアレルギー反応が強いように思います。
より良い力(命令)は悪い力(命令)とともに消滅するのかもしれません。

ついでに、ちょっと前に読んだ「アンダーカレント」に関しても書きましょう。
 かなえは悟をわからないのが辛いのではなく、悟が自分にとってどういう存在か認識できない、
悟にとって自分はどういう存在だったのか考えるのが辛いんだと思います。
 人をわかるということよりも、その人が自分にとってどういう存在かという認識が大事です。
だから、かなえを理解した堀で終わるのではなく、どういう存在か認識した堀で終わらなければなりません。
失うとき、失ったものとの関係を突きつけられます。

間があくといろいろ考えることも増えますね。
それではまた。
from: よはん   2008/06/19 7:50 PM
>>宇根 康裕 さん

 ご無沙汰しております。こちらへの返事を考えている間に半月経過してしまいましたが、その間にそちらで大変な地震がありましたね。ご無事でしょうか。

 そちらの無事と安息を信じる意味でも、このまま話を続けたいと思います。

 まず、自由と隷従について、<個を所有する/される>という視点から定義されました。このように見た場合、「個」とは何かということが問われることになります。

 そこで僕が思い出すのは、ソール・A・クリプキあたりの固有名をめぐる問題です。例えば、ユリウス・カエサルという言葉は何を意味するか。記述主義の人は、カエサルという固有名をめぐっては「カエサルはガリアに遠征した」「カエサルはルビコン川を渡った」…というような記述(確定記述)がたくさんあり、その総体に還元されると考えたわけです。その確定記述のひとつひとつは真/偽の判断が可能ですから、そうすることにより、カエサルという固有名の意味は論理的に記述可能なものとして確定するわけです。いわば、<個=固有名>が、論理言語によって「所有される」わけです。

 でも、じつはそれでは十分な説明になっていない、と、後の哲学者は考えました。というのは、ガリアに遠征せず、ルビコン川も渡らなかったカエサルというのも十分想像可能なことですから。そうなると、固有名を確定記述の総体に還元することは出来なくなってしまいます。いわば、固有名には確定記述の総体から「はみ出す部分」があり、そこにこそ固有名の固有名たる所以があるのだ、と。

 そこで、そのはみ出す部分をどう考えるのかという難しい問題が残るわけですが、ひとつ言えるのは、そうは言ってもやっぱり確定記述が記述可能なものでなければ固有名の居場所はない、ということです。いいかえると、個=固有名というのは、何かしら述語になるもの、つまり世界との関連性を持つことにより辛うじて存在しているようなもので、個それじたいとしては何も意味を有しないといえる。個は、存在としては無なわけです。

 個が具体的な記述に取り込まれ命題として確定されることは、個の可能性を限定することになりますから、その限りで記述対象に「隷従」するものといえます。しかし、そうしなければそもそも個は個たるものとして存在することができない。そこに、個が重力に引かれる必然性がある。

 だから、仰るところの「関わり合いを持たない人」については、きまって悲惨な結果に到るわけです。そもそも世の必然との関わりをもたなければ存在すらできないわけですから、社会を拒絶すると、かれは端的に「無」になってしまう。たとえば、『火垂るの墓』の清太は、妹を道連れにして社会を拒絶しましたが、それで妹を死なせる羽目になってしまった。(あの作品の場合、その罪をこそ問われなければならないのにそれに失敗した、というのが僕の一貫した見方なのですが、論点がズレるのでここでは深入りを避けておきます。)

 個としての誇りを求めて直截に隷従を拒絶すれば、存在として無に還元されるほかはない。しかし、隷従に甘んじる限り、個としての誇りはない。そこに、この問題の根本的な難しさがあります。だから、さしあたってたいていの人は、このアポリアを避けて通るべく、消費による個の代替を求める。一方ヴェイユの場合、それがゴマカシにすぎないとわかっていたので、最後まで壮絶な道を選びつづけました。すべて理解しつくしたうえでやっていたヴェイユは凄い人です。

 さて、アンダーカレントですが。

>人をわかるということよりも、その人が自分にとってどういう存在かという認識が大事です。

 僕もそういうつもりで先日、簡単に一本書きましたが、もうちょっと詳しく書く機会が欲しいですね。中々かつてのように綿密にはいきません。

 要するに、話は信頼の根拠をめぐっているわけです。悟の失踪という事態は、かなえにおいて、悟への信頼、およびそれと反射的に成り立つ「悟からの信頼」への信頼ということの根拠を奪いました。ひとの精神と社会生活は信頼に支えられていますので、それはかなえの日常生活可能性を根本から脅かすものとなってゆくのです。(そこで、銭湯営業の危機というエピソードが重要になります。)

 堀の件ですが、僕は、彼は彼なりに信頼の根拠を問い、それについて彼なりに結論を得たから去っていったのだと理解しています。堀にとって、かなえは何だったのか。妹を奪った憎い奴なのか、妹とともに傷ついた「かわいそうな妹の友達」なのか、自分自身わからなかった。だから、かつての妹そっくりに成長したかなえを見て、ひどく動揺した。そして、確かめたくなってかなえの傍に潜り込んだ。結果、かなえのトラウマを知るところとなり、それが答
from: よはん   2008/06/19 7:56 PM
 続きです。(どうやら字数制限がちゃんとあったらしい:苦笑。)

 堀の件ですが、僕は、彼は彼なりに信頼の根拠を問い、それについて彼なりに結論を得たから去っていったのだと理解しています。堀にとって、かなえは何だったのか。妹を奪った憎い奴なのか、妹とともに傷ついた「かわいそうな妹の友達」なのか、自分自身わからなかった。だから、かつての妹そっくりに成長したかなえを見て、ひどく動揺した。そして、確かめたくなってかなえの傍に潜り込んだ。結果、かなえのトラウマを知るところとなり、それが答えとなった、と。

(因みに、何故ここであえて「愛情」という言葉を使わず、「信頼」という表現を選んだのかというと、「愛情」という言葉を使うと話がとてもズレ易いということを経験上イヤというほど知っているからに過ぎません。内容的には同一視してもいいと思います。)

 この件でもうひとついうなら、あの漫画はやはりハッピーエンドだったのでしょうね。やはり悟自身の口から、自らの虚言癖と、それゆえの申し訳ない思いが告白される必要があった。そして、そのことこそ、かなえにとって救いとなったわけで。

 豊田徹也は新連載をはじめましたね。毎月の愉しみがひとつ増えました。尤も、『EDEN』が次号で最終回なので、差し引き0になってしまいますが。

 それではまた。このやりとりはゆっくりやっていきましょう。ボリューム的にも内容的にも、「寝かした方が美味くなる」性質のものだと思いますからね。
from: 宇根 康裕   2008/07/12 7:26 PM
こんにちは

地震は、かなり大きい揺れでしたが大丈夫でしたよ。
「個」については、考え中です。近いうちにまた書きます。
from: 宇根 康裕   2008/08/20 9:06 PM
こんにちは。おひさしぶりです。
お元気ですか?
私は日焼けで激痛でしたが、マシになってきました。

さて、「固有名=個」は、初めて考える内容でした。ここから始めましょう。
私は、「固有名≠個」という考えです。

最近、「反『暴君』の思想史」を読んで、印象に残った言葉があります。(このホームページのどこかにリンクがあったので読みました)
「どうあるべきか」と「どうみえるか」について書かれていた部分です。
(引用しようと思ったのですが、手元にないのでできませんでした)

言葉は「どうみえるか」しか表現できないと考えます。
したがって、固有名からはみ出す部分は、個が「どうあるべきか」という内容です。
カエサルが死んだら、カエサル自身が持つ個(=自分自身どうあるべきか)は消滅します。
あとに残るのは、固有名が表現する「どうみえるか」と、他者が固有名を対象に「どうあるべきか」思考するということです。

「どうあるべきか」という表現に所有の本質があります。
所有には、対象と主体の間に精神的関係があります。
それに対して「どうみえるか」が消費の本質です。
消費には、対象と主体の間に精神的関係がなく、第3者と主体との精神的関係があります。
英語の冠詞のaとtheも同じわけ方だと考えます。

このように考えるとスピノザは、神を一旦消費したのちに再度所有したといえます。

以上のことから、自由と奴隷は、自分が(1)「どうあるべきか」と(2)「どうみえるか」(2)の違いだと考えます。
また、上の関係とは別に、しかも同時に、社会(公)を対象に、(3)「どうあるべきか」と(4)「どうみえるか」という二種類があります。

次に、このHPで見て買った長谷部先生の憲法本に書かれている、公と私の「公」について書きます。

公とは、公平なものです。これにしたがって、例えば「公認」とは、「公が認めたもの」ではなく「(公が)公平と認めたもの」とします。
よって、公の問題はすべて公平の在り方の問題になります。
問題は、どこまで公平にするべきかの線引きです。
副島隆彦先生のいう自然権や実定法(人定法)の対立は、公平の線引きの対立のひとつです。
結果同じにするか、与えられるものを同じにするかの対立と考えています。
線引きが出来れば、善悪が現れます。公平が善で、善が公平となるからです。
公平であるべきものが公平でなければ悪であり。公平でないものすべてが悪ではありません。公平でないものの中の一部に私があります。
善悪の線引き自体は、善悪ではなく、正しいか間違っているかです。
どちらが正しいかは力によると副島先生は言っています。
日本の公私の分け方は、公は公務員で私は自分という役割分担だと考えています。
長谷部先生の立憲主義での公私の分離は、人間の分離ではなく、一人の人間の中の思考と行動でなければなりません。

さて、アンダーカレントの話に移ります。
探偵の質問にかなえは、悟が「どうみえるか」は答えていましたが、
「(自分にとって)どうあるべきか」は答えていません。
一方、かなえの亡くなった友達に対する関係は、自分は「どうあるべき(だった)か」でした。
悟は最後の告白で、「どうみえるか」に執着していたと言っています。
したがって、第3者には信頼関係にみえていた、悟のかなえに対する「どうみえるか」の奴隷関係の破綻であると考えます。
悟がかなえから去るという行動は、悟が自分自身に対する「どうあるべきか」の判断と行動でした。
虚言癖の告白と謝罪は、悟るのかなえに対する「どうあるべきか」の判断です。
そして、かなえも、もっと早くこうあるべきだったと発言しています。
悟とかなえはお互いがお互いに対して消費の関係で、耐えられなくなったのが悟のほうだったということだと思います。
以上が、私の分析です。

普段は、麻雀漫画と格闘漫画とゴルゴ13しか読んでいませんが、EDENはブックオフで買って読みました。
ヴェイユに関しては、少しづつ読んでいます。
『火垂るの墓』は実はまだ見たことありませんので、これはいずれみたとき。
アフタヌーンは初めて買って読みました。今月号の「珈琲時間」に、「公平」を垣間見ました。続きが楽しみですね。

これ以上考えるのをやめて、書き込むことにしましょう。^_^;

それでは、また。
from: よはん   2008/08/25 6:21 AM
>>宇根 康裕 さん

 ども、ご無沙汰してます。(毎回言ってる気がする…orz)

 この夏はなか卯でカツ丼ばかり食べていた気がします。どうやら食欲ばかりは元気だったみたいです。

 さて本題ですが、確実に長くなるので、エントリを起こします。
 http://nornsaffectio.jugem.jp/?eid=89

 僕の紹介する込み入ってわけのわからない本をきちんと読んでくださる奇特な方は宇根君だけです。すこしでもお役に立てれば幸いなのですが。EDEN読まれましたか。ならば、「神様なんて信じていない僕達のために」(『遠藤浩輝短編集1』所収)も必読ですね。

 麻雀漫画ですか。僕の麻雀経験はスーチーパイのイカサマ麻雀程度ですが、今度『アカギ』でも読んでみようかな、等と思うこともあります。西原理英子の『まあじゃんほうろうき』も捨てがたいですが。
コメントする









 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
トラックバック機能は終了しました。