Cause we are the ...

La ricerca della morale che non dipende da una cosa della trascendenza...
<< November 2017 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 >>
 
SPONSORED LINKS
RECENT COMMENT
  • そして少佐はネットの海に消えた…|必然に抗う主体の往還二廻向
    よはん (09/09)
  • そして少佐はネットの海に消えた…|必然に抗う主体の往還二廻向
    よはん (09/09)
  • そして少佐はネットの海に消えた…|必然に抗う主体の往還二廻向
    よはん (09/09)
  • そして少佐はネットの海に消えた…|必然に抗う主体の往還二廻向
    宇根 康裕 (09/07)
  • 人は低きに流れ、そしてベヒモスに飲まれる?
    よはん (08/25)
  • 人は低きに流れ、そしてベヒモスに飲まれる?
    宇根 康裕 (08/20)
  • 人は低きに流れ、そしてベヒモスに飲まれる?
    宇根 康裕 (07/12)
  • 人は低きに流れ、そしてベヒモスに飲まれる?
    よはん (06/19)
  • 人は低きに流れ、そしてベヒモスに飲まれる?
    よはん (06/19)
  • 相変わらずの田幸和歌子
    よはん (05/28)
epigraph
  • 「低さ」と名づけられているものはすべて、重力による現象だ。(S.Weil)
  • 水は低きに流れ、人の心もまた、低きに流れる。(H.Kuze)
  • ハハハッ、アステロイドベルトまで行った人間が戻ってくるっていうのはな、人間がまだ地球の重力に引かれて飛べないって証拠だろう?(H.Karn)
Hanabi
iPod
logpi
MOBILE
qrcode
PROFILE
無料ブログ作成サービス JUGEM
 
スポンサーサイト

一定期間更新がないため広告を表示しています

- | | - | - | pookmark | |
君が代伴奏拒否の公民的価値
 今年の重判を読んだ。先頃話題になった「君が代ピアノ伴奏職務命令拒否事件」(最判H.19.2.27)の評釈が載っている(12頁,評者は淺野博宣神戸大教授)。イデオロギー的にきなくさい事件であり、じじつ去年あたりはネット界隈でもヒステリックな論調のコメントをたびたび見かけた。僕は基本的にそういうのを好かないので、いままでこの話題に触れることを避けていたが、そろそろ丁度いい頃合いだと思うので、これについてつらつら書いてみようと思う。
平成19年度重要判例解説平成19年度重要判例解説 by G-Tools


(ミネルヴァの梟は黄昏に飛び立つ、これでいいのだ。といっても、知識人のアンガージュマンをむげに否定したいわけではない。何事にも適切な時期というのはある。)



 その前に、<事実の概要>や<判旨>をくどくど引用しないので、そこは適宜参照されたい。参照文献はあまりに明白だからね。







一、まず、一般人の評価が極端に分かれる合憲判断の内容だが、僕としては直観的には「いいたいことはわかる」。





 (1) たとえば、小学校の音楽専科の教員が卒業式や入学式でピアノを伴奏したところで、その教員個人が右翼的だとか国粋的な思想の持ち主だとか思われる可能性は低い。誰がその姿を見たって「あの人は右寄りだから弾いてるんだ」なんて思わない。そもそも地域の小学校単位でみるならばピアノを弾ける人自体限られてくるのだから、弾かされたところで誰も「音楽の先生だから弾いてるんだ」としか思わないだろう。つまり、イヤでも音楽の先生なら立場上弾かなきゃならないってことは小学生でも知ってることだから、弾かされたところで「踏み絵」のような思想抑圧的効果を生ずるとまで言うことはできず、「ものすごくイヤだけどしょうがないから弾いた」との言い訳は立つ。だから、音楽の先生が入学式で君が代を弾くという行為そのものは、先生が「特定の思想を有するということを外部に表明する行為であると評価すること」は、たしかに「困難」なところがある。いいとか悪いとかじゃなくて、事実として「君が代を弾くことは、演奏者のイデオロギーの表明だ」と思う人は(まだまだ?)少ないということだ。





(2) 加えて、あくまで一般人目線で、客観的に見て、という留保付きではあるが、いくら自身の思想信条的に忸怩たるものであっても、君が代をピアノで弾く程度のことは仕事として割り切ってすることができることだということも、まあいえなくはない。「仕事は仕事、思想は思想」との割り切りは一般的には(!)可能だと思われているし、普通一般の人に出来るならこの先生にそれを求めてもそれほど不当とはいえないんじゃないかとの期待も成り立つ。その意味では、判決多数意見の言うように、君が代伴奏をしないことは「一般的には、これ(先生自身の歴史観ないし世界観:引用者)と不可分に結びつくものということはでき(ず)」ないといえるだけの蓋然性はある。要するに、それは思想・良心の自由の内容たる「沈黙の自由」を冒すものではない、と。ピアノ演奏それじたいは思想中立的行為なのだから、それを求めても「踏み絵」には当たらないだろう、と。





(3) こういった意味で理解するならば、一部の人の受け取り方とは異なり、この判決は、一見して不条理といえるほどの不当な判決と言うことはできない。当批評記事にて引かれている佐藤幸治『憲法』(青林書院)488頁には、以下のように書かれている。



憲法 (現代法律学講座)憲法 (現代法律学講座)佐藤 幸治 by G-Tools

「思想および良心の自由」が、上述の「沈黙の自由」を越えて、さらに「思想および良心の自由」に反することを理由に一般的法義務を拒否する(例えば、およそ世俗の政府は認めがたいという固い信念から納税を拒否する)自由を含むか。これを一般的に承認するならば、おそらく政治社会は成り立たないであろう。



 因みに、これに関連して「良心的兵役拒否」の問題があるが、これがアメリカ等で認められてきたのは、それが殺人という、職務としての割り切りを越えて信仰上の問題に直結する行為だからだと理解されている。つまり、人を殺すということは行為の性質上、殺す側の思想信条と不可分に関わるものと(一般的・客観的にも)考えることができる。「仕事と割り切れば何の心的抵抗もなく殺せる」なんてことは、やっぱり不自然なのだ。それと比べれば、ピアノ伴奏をするかどうかということは、たしかに話は簡単だ。







二、だから僕は、判決の立場を理解は(!)できる。しかし、やっぱり不当な部分があるとも思う。





(1) まず、淺野教授によると、原告からは「教員の思想・良心の自由」以外にも、「子どもが教育を受ける利益」その他、多岐にわたる上告理由が挙げられていたのだが、多数意見はどういうわけか(!)「教員の思想・良心の自由」についてのみ検討し、他の上告理由については判断しなかった。そこはやはり拘泥して然るべきだったろう。ひょっとしたら、僕もちらりと言った如く、判旨中「一般的には」「客観的に見て」の文言にその視点も「含まれている」ということかもしれないが、だとしてもやはり理が尽くされているとは言い難い。一般人の視点と子供の視点は異なるのだから、子供に対してどういう影響がありえたのか、もっと詳細に検討されるべきだった。尤も、藤田宙靖裁判官の反対意見は、「職務命令によって実現しようとする『公共の利益』の内容それぞれについて、具体的な検討が必要」だという文脈で、この点を指摘している。(が、ここではくどくど繰り返しません。)





(2)つぎに、再三述べてきた「一般的には」「客観的に見て」という言葉に示される論理が問題となる。つまり、原告において望まれているのは、公立小学校教員という公務員の一般的法義務たる職務命令服役義務からの免除なのだけれど、その免除の範囲を「一般的・客観的」に限定することは「思想・良心の自由」の理解として問題がないか、ということだ。つまり、個々人の思想・良心を保証するということは、「普通に見てだいたいこう思うだろう」という範囲で保証されるものではなく、ひとりひとりが抱く内容に即して保証されるものである。(そうでなきゃ、「思想・良心」という言葉の意味がない。)ならば、本件で採られるべきであった視点はむしろ、個別的・主観的なものでなければならないのではなかったかということになる。そして、本件事案について原告の個別的・主観的な部分を基準に判断した場合、この人にとってとても堪えられないことであったのは明白であり、校長は服役義務の免除を認めるべきだったから、戒告処分は違憲ということになる。





(3) しかし、この理屈をそのまま認めてしまうと大変なことになる。というのも、これを基準にすると、どんな義務違反であっても個別的・主観的には必然性があるわけだから、一般的法義務なんて空文化してしまう。たとえば、僕が「伊吹幹事長と町村官房長官の無自覚な失策により大きくミスリードされた現政権は不当だから、僕は一切の国税納入を拒否する!」なんてムチャを言っても通ってしまうことになりかねない。(気分としてはそうだけど、そこまで言いません。)それではまさに、「おそらく政治社会は成り立たない」のだ。





(4) じゃあ、どうすればいいのか?そこで考えるべきは、そもそも、こういった一般的法義務からの免除というのは憲法典を通じた法的効果の一種だということである。(「沈黙の自由」は、そうではない。)そうである以上、価値のベースは主観であっても、それは表明された限りにおいて効果を持つ、と考えるべきなのだ。



 たとえば民法なんかではこう考える。僕がA氏所有のポルシェを買いたいと思っているとする。買いたいというのは効果意思、いわば主観だ。でも、思っただけでA氏に引き渡しを求めるわけにはいかない。そういう効果を持つためには、僕がA氏に「買いたい」と申し出て(意思表示)、A氏がそれを承諾しなければならない。表示するということは、斯様に重要な意味を持っている。



 つまり、一般と違い特別に「義務から免除されること」を求めるためには、内心に留まっているだけでは足りず、それが表明される必要があると考える。そして、それが表示されていると考える限りにおいて、免除の当否が判断されるというわけだ。

 しかし、表明された内心の自由は、すでに内心の自由ではない。それはすでに表現の自由と呼ぶべきものである。





(5) 淺野教授の評釈の独自性は、本件を表現の自由の問題として構成する可能性に触れたところにある。曰く、



表現の自由といっても、ピアノ伴奏をしないという沈黙の自由(消極的表現の自由)としてではなくて、伴奏を拒絶することによって入学式における「君が代斉唱」に反対する意思を表明する積極的表現の自由として理解してみよう(このような理解は不可能ではない。藤田反対意見は、「ピアノ伴奏拒否が、Xの思想・良心の直接的な表現(←傍点付き:引用者)である」[傍点筆者]と位置付けうるとしている)。このように理解すると、本件のピアノ伴奏拒否は政治的な内容の表現であり、裁判所は表現の自由の中でも特に厚く保護しなければならない。また、裁判所は、政府が表現をその内容を理由として制約することは原則として許してはならず、内容中立的な制約であっても、それが偽装された内容規制ではないかを疑って、その目的が手段と関連しているかを実質的に審査しなければならない。



 以上のように構成するならば、原告のよりバランスの取れた救済が可能となる。ピアノ伴奏の職務命令は、「君が代斉唱」反対の意思表明にたいする内容中立的規制と考えることが出来る(たんなるサボりに対しても同様にあてはまるから)。とするならば、まずはこの職務命令の目的が正当かつ重要であり、しかもその目的を達するために、より制限的でない他の選びうる手段(LRA)がなかったことが証明されなければならない。



 まず、ピアノ伴奏の職務命令の目的を「入学式の円滑な運行」だとしよう。それは公益のために重要な目的と、ここでは一応考えておく。(疑問もあろうが。)では、ピアノを弾かなかった原告の先生を戒告処分とするのはLRA(ほかにどうしようもない最低限のこと)か?

 明らかにそうではない。なにしろ、この人は実際にピアノを弾かなかったが、君が代斉唱はテープ伴奏により問題なく行われたのだから。ようするに、伴奏拒否があっても「入学式の円滑な運行」は普通に達成されていたわけで、LRAどころかまったく無駄な制約だったと結論づけられることになる。







三、さいごに、伴奏拒否という行為の持つ政治性について。



(1)僕はこの件で、フルトヴェングラーを思い出す。20世紀最大の指揮者と言われる彼は、祖国ドイツがナチスの支配下にはいった時、多くの芸術家が迫害を怖れて亡命するなか、あえてドイツに留まり、指揮棒を振り続けることを選んだ。



 勿論彼は親ナチス的な思想の持ち主ではない。じじつ彼はその音楽活動を通じて、ナチスによるユダヤ人文化排斥に抗議している。そんな彼があえて(!)ドイツに留まって活動を続けたのは、真正なドイツ文化をナチスの魔手から防衛せんがためだった。彼は、いわば積極的な信念にもとづいて「仕事は仕事、思想は思想」との割り切りを行っていたのだ。



 しかし、フルトヴェングラーの良心は顧みられることはなかった。戦後彼は、ナチス支配の正統性を宣伝する広告塔となったとして、戦犯扱いされることになる。彼は、音楽家として世界的名声を持つ自分がナチス支配下のドイツに留まることの「表示としての効果」に気がつかなかったのである。(以上、将基面貴巳『政治診断学への招待』(講談社選書メチエ)8頁以下の記述を参照した。)





(2)このことは何を意味するのだろう。「職務と思想は、とりあえず別物と考えられるのだから、甘受しなさい」という、ある意味わかりやすい立場も不当ではある。しかし、主観としての良心の価値ばかりを見て、その表示としての効果に目を向けないのであれば、それは盲目と言うべきだろう。フルトヴェングラーの良心は疑い得ないが、彼が戦犯扱いされることの必然性もまた明白であった。彼は、内心の命ずるところに忠実だったという意味で、心情倫理的に立派だったことは確かであろう。反面、名指揮者のドイツ在留という事実のもつ「表示としての効果」に無頓着だったという意味で、政治的に判断を誤った。思想・良心の自由の主観的価値ばかりに気をとられるなら、フルトヴェングラーと同様の盲目に陥る危険性がある。





(3) だから僕は、原告の音楽教師の行動を、公民としての政治的意思表明という側面から評価したい。そのためにはまず、その表現が表現として尊重される必要がある。僕はかならずしもこの人の政治的立場に賛同するものではない(ましてこの人と反対の偽愛国的な立場に与することもないが)。しかし、そもそも表現されなければ批評のしようもないではないか。だから僕は、このケースで問題になった戒告処分はまったく余計な行動だったと考える。君が代拒否が思想的に気に入らないのなら、思想の自由市場に引き出して、堂々と渡り合えばよい。政治的他者を前に下手な権力を使った者より、公開された法廷に出てきたかの教師の方が、余程公民的に良心的といえる。 (了)









政治診断学への招待 (講談社選書メチエ)政治診断学への招待 (講談社選書メチエ)将基面 貴巳 by G-Tools


L'histoire et Étude|歴史・社会 | 00:28 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark | |
スポンサーサイト
- | 00:28 | - | - | pookmark | |
コメント
コメントする









 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://nornsaffectio.jugem.jp/trackback/81