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La ricerca della morale che non dipende da una cosa della trascendenza...
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JUGEM IT! from WaiWai騒動後に想像力を働かせる時期 - 雑種路線でいこう
WaiWai騒動後に想像力を働かせる時期 - 雑種路線でいこう

はてブでもコメントした(直下の引用参照)のだが、やはり100字では舌足らずになったので、ちょっとだけ補足。

はてブで付けたコメントは以下の通り。

[毎日新聞][表現の自由]表現の自由を守るという点でネット規制に対して共闘<この理解は今ではあまり正しくない。マスコミは組織であり巨大社会権力なので、個人と区別して考える趨勢が有力になっている。アクセス権の発想などは好例。


 さて、本題である。この人(mkusunok氏)の懸念は、Waiwai騒動によりネットがマスコミと分断されると、表現を規制する側(=行政等、国家権力)にとって都合の良い状況になるのではないか、という点に集約されるように思われる。

 たしかに、騒ぎすぎは宜しくない。毎日新聞が道義に反することをしているからといって、批判する側が何をしてもいいということにはならないのは当然だ。ところで、今般事態をここまで発展させた「電凸」の手法が、まっとうな批判・抵抗活動の範疇をはみ出すものであるかどうかは議論の余地がある。

 そのまえにまず、ブクマで言ったことの補足から。mkusunok氏はマスコミとネットについて、「表現の自由を守るという点でネット規制に対して共闘し得る」と仰っているが、それは表現の自由の理解として正しいのかどうか。その点について僕は、「あまり正しくない」と書いた。

 どうして「あまり」正しくないのかというと、きわめて大まかな、一般教養や中等教育くらいで習う程度の基本的な憲法学の知識を前提に考えるなら正しい可能性もあるのだ。つまり、人権は自由な主体を国家権力から守るものだという理解と、その「自由な主体」というのは「私人」であるという理解、公私二元論である。


1,マスコミと表現の自由

(本項は表現の自由に関する説明です。すでにひととおり知っている人は、1を読み飛ばし、2からお読みください。結論だけ知りたい横着な人は、3だけでも結構です。)

 表現の自由というのは、数ある人権のラインナップ中でも最も優先的に保護される自由権である。なぜなら、個人の尊厳を守るためにはかれが自由である必要があり、自由であるためには自分の意思を表明することができなければならないのだ。嫌なことを強制されようとしているとき、抵抗する以前にそもそも「嫌だ」と言うことすらできないのでは、自由だとはいえないだろう。というわけで、個人の尊厳を守る最前線として、表現の自由は手厚い保護を期待されることになる。

 では、何から保護されるのか?もちろん、意思表明そのものを抑圧する能力をもった強者からである。たとえば、表現の抑圧といったら真っ先に挙げられるのが書籍等の検閲である。表現物が発表されるまえにいっせいに内容をチェックし、審査する側が「よろしくない」と判断するものを発刊禁止にする…等ということをするには、それなりの人的社会的裏付けが必要で、相当、それこそ超越的といえるほどに社会的に「強い」存在でなければならない。そんなものは、警察や軍隊などを動員して大規模に実力行使することのできる公的権力、つまり国家くらいのものである。従って、公的権力を憲法で縛っておけばOK、…ということになる。

 そして、いち国家の下にあり、公的権力を構成しない組織や人(つまり「私人」)は、そういう実力をもたないという意味において「弱者」であり、そうである以上、かれらは一様に、公的権力による人権侵害から保護されるべきである、…。

 それを前提に考えれば、たしかにネットユーザーもマスコミも公的権力に非ずという意味では「私人」だし、「私人」である以上、国家権力から表現の自由を守られるべき立場にあるということになりそうだ。じじつ、マスコミ各社はそのように考えるか、考えたいところだろう。ここまでの図式に依る限り、mkusunok氏の懸念は一見正しいように思える。

 しかし、さらに突き詰めて考えると、この理解には大きな問題がある。それは、社会的権力の大小という発想がない、ということだ。この点を氏は見落とすか、あるいは捨象するかしているわけだが、じつはここは捨象してはいけない部類に属する区別である。

 個人の表現者とマスコミは、公的権力に非ずという意味では「私人」である。その点を重視すれば、マスコミも個人の表現者もひとくくりにできる。だから、少なくともある時期までの法学の限度内でいうならば、両者を同様に扱うことができる。しかし、社会学的に見ると、両者を混同するのは論外の沙汰である。誰が見たってマスコミの方が圧倒的に強いことは明白だからだ。

 たとえば、マスコミが無実のA氏を、「こいつは人殺しだ!」と言い立てたとする。かりにA氏とマスコミが社会的に対等な影響力を持つ存在であったなら、A氏がマスコミに対して反論すればいい話なので、特にA氏を強く保護する必要はない。しかし、じっさいには個人がマスコミほどの影響力をもつ表現をすることは考えられない。だから、マスコミが「人殺し」と言ったならA氏は社会的には「人殺し」ということにされてしまい、それにたいする有効な反論をする術は殆ど残されていない。

 今日の法学は、社会学的視点を重視する。表現の自由の問題でいえば、表現に関する社会的権力の大小を考えるということが不可欠になっているということだ。だから、今日の憲法学者は、表現に関する圧倒的強者となったマスコミについては多かれ少なかれ個人レベルの表現者と区別して考える。先の例でいうなら、マスコミがA氏の釈明を事実上不可能にしてしまう事態は、国家権力が検閲によりA氏の意見表明を発表不可能にする事態に比べ悲惨でないといえるのかと、そういう問題が生じるのだ。

 もちろん学説の対立はある。たとえば一方では、いくらマスコミ等が社会的権力を持つからといって、法的に正当な実力行使ができる公的権力とは依然として重要な差異があり、憲法によるチェックまで及ぼす必要はない、と考える向き(浦部、高橋など?)がある。他方では、個々の表現者の権利は個人の尊厳が掛けられたギリギリの線で行使される「切り札」であり、ひろく一般の人の公共の福祉に供するためのマスコミの権利とは、その切迫した必要性からしておのずから重要性は異なる、…と考える向き(「切り札としての権利」論)がある。しかし、マスコミの社会的強さを前提とし、個人の保護をどうするかと考える意味においては両者一致している。保護の程度が違うだけだ。

 したがって、表現の自由について考える上では、マスコミは個人と一段違った水準で考えなければならない。僕は「切り札としての権利」論を採るので、マスコミの持つ報道権と個人の表現の自由は別類型と考える。一緒にして考えることはできない。


2,表現におけるインターネットの性質


 さて、以上を前提とした上で、インターネットはどうか。インターネットはマスコミに比すべき社会的強者なのか。それとも、あくまで個人に還元されるだけのはかない存在に過ぎないのか。

 これに関しては学界でも目下議論中であり、安易な断定はしづらいところである。しかし、ひとついえることがある。それは、ネットはマスコミと違い、ひとまとまりの主体として存在していないということだ。ネットは組織的にまとまっているわけではなく、あくまで個々のネットユーザーが、トピックスを巡って刹那的に連合しているに過ぎない、雑然としたものだ。ゆえに、実力行使することができなかった。マスコミ各社なら、報道することそれじたい実力行使である。組織として意思決定すれば、強者として権力を発揮することができるわけだ。しかし、ネットにはまとまった意思決定の主体がない。どんなに影響力の強いアルファブロガーでも、かれの意思決定はあくまで個別の意思決定に過ぎない。かれやその周辺が騒いだところで、ごく局地的な現象に過ぎないのだ。

 要するに、マスコミの方が強い武器を握っているのである。マスコミは、意思決定次第で個人や組織を社会的に葬ることができる。それほどに強大なのだ。他方ネットは、精々ブログを炎上させるくらいが関の山。あきらかに実力が欠けているのである。

 しかしそれも、今や過去形で語るべきなのかもしれない。というのも、今般のWaiwai騒動は、どうやら毎日新聞というマスコミの一翼に一撃喰らわせることに成功したかもしれないのだ。もしこれが毎日新聞にとって痛手となるならば、ネットははじめてマスコミの優位に対し有効なカウンターを放ったといえるかもしれない。そうなると今後は、ネットを社会的権力として認識してゆくべきことになりそうだ。

 しかし、ネットはまだその段階まで達していない。マスコミに対峙するほど社会的に大きい存在になっているわけではないのだ。だから僕は、依然としてネットは国家やマスコミから守られるべき弱者として認識すべきと考える。勿論電凸は決して行儀の良いことではないが、広告主の無関心により容易に無力化されてしまう電凸は、マスコミの一撃に比べると依然として脆弱なのである。精々、ネズミがネコの首に鈴を付けた程度ではなかろうか。


3,Waiwai騒動は、マスコミとネットを分断するか


 そこで、ようやく本題である。国家のネット規制に対し、マスコミはネットと共闘しうる存在なのか?

 僕は、否と答える。マスコミが依然として表現者として圧倒的優位にあり、かつネットという新興勢力に脅かされているとするならば、後者を庇い立てする理由はない。ネットのような「分を弁えない不届きな連中」はどんどん取り締まるべきだと考えても何ら不思議はない。じじつ、毎日新聞は『ネット君臨』等と書いているのである。つまり、現段階においてマスコミとネットは共闘する関係にはない。むしろ、記者クラブ談合のもと国家権力と癒着的な状態にあるマスコミは、国家と共闘してネットを規制する側に回る可能性が高い。

 ゆえに、Waiwai騒動は、マスコミとネットを分断し、あらたに(!)国家権力の介入を招くことにはならないだろう。なぜなら、マスコミとネットはもともと分断されているのだから。


4,おまけ:電凸は威力業務妨害に当たるか?


 さいごに、今般の毎日Waiwai騒動で脚光を浴びた「電凸」だが、これについて威力業務妨害の可能性に言及されているので、一応書かせて頂く。

(ところで、僕は法曹関係者ではないので、以下に書くことはあくまでいち法学徒の参考意見に過ぎないことを断っておきます。)

 はじめに条文。

 虚偽の風説を流布し、または偽計を用いて、人の信用を毀損し、又はその業務を妨害した者は、3年以下の懲役または50万円以下の罰金に処する(233条)。
 威力を用いて人の業務を妨害した者も、前条の例による(234条)。


 さて、まずは、直接の「電凸」行為が威力業務妨害に相当するか。業務妨害と言うからには、だれかの業務でなければならない。今回の場合、考えられるのは、毎日新聞と、そこに広告を出しており、そのために「電凸」を受けた広告主。その二者だろう。

 毎日新聞相手の場合はどうか。毎日新聞は広告収入が激減しているはずであるし、その信用は著しく失墜している。つまり、業務妨害と見える結果はある。問題は、その結果を「電凸」主に帰属させることができるかどうかである。これについては、否定せざるを得ない。というのも、「電凸」主と毎日新聞との間には広告主の自主的な判断が介在しているからだ。他主体が介在している以上、そこの因果関係を肯定するためには、間接正犯を構成するしかない。つまり、広告主は専ら「電凸」の手足として、その自主的な意思を奪われて広告の取り下げ、あるいは直接の抗議を行った、といえるのでなければならない。言うまでもなくそんな構成は事実に反するので、毎日新聞相手で威力業務妨害罪を構成するのは不可能であろう。

 広告主相手の場合はどうか。この場合、「電凸」主は直接広告主に当たっているわけだし、広告主はそれに煩わされている。因果関係はあるわけだ。問題は、広告主が電凸に煩わされることが違法な法益侵害結果といえるかどうかにある。電凸というのは、そういう言葉で呼ぶといかにも暴力的な感じがするが、要するに消費者の意見である。広告主に取引の自由があるとすれば消費者にも取引の自由があるわけで、「あんなとこに広告を出すなら、もうあんたのとこの商品は買わないよ」と告げる自由も当然認められることになる。広告主側に消費者の意見を聞く気があり、窓口を設けている以上、電凸を受けることは業務を妨害するどころか、正当な業務の一環と理解するほかない。正当な業務である以上、それがどんなに忙しくなろうともそのこと自体は違法な結果でも何でもないのである。したがって、こちらで業務妨害罪が成立する可能性も低い。

 さて、直接の電凸が威力業務妨害罪を構成しないであろうことがわかった。では、まとめサイト等が電凸を勧める行為(いわば「あおり行為」)はどうか。これは一言でいって、無理である。まず、電凸による毎日新聞や広告主の業務への影響は、電凸主という他者の自主的な判断で行われている。ということは、まとめサイトの勧めは正犯ではない。勿論、違法だとしたらの話であるから、電凸行為そのものが適法であるならはじめから問題にならない。

 また、電凸行為が違法だと仮定しても、特定の誰かに正犯行為を指示しているわけではなく、不特定多数に呼びかけているに過ぎないので、教唆にもならない。「あおり行為」と呼ぶ所以である。「あおり行為」を処罰するためには、「あおり行為」そのものを処罰する規定が必要になる。労働争議とかならともかく、電凸に関してそんな規定は存在しない。したがって、電凸のあおり行為は不可罰と言うほかない。

 但し、電凸あおり行為の危険性を憂い、処罰すべきだという意見は、立法論としてはありうる。とはいえ、「あおり行為」処罰は表現内容に対する規制とならざるを得ず、憲法問題になる。そつのないことで知られる内閣や両院の法制局がそういう「臭い」法案をすんなり通すとは思えないので、やっぱり難しい。

 総じて、電凸もそのあおり行為も違法とされる可能性はきわめて低いと考えられる。というより、そうでなければ、ネット規制がこれほど議論になるはずがない。殺人や自殺のあおりですら立法府が頭を悩ますくらいなのだから、電凸あおり規制などと、よりハードルの高いことを考えている余裕はないのではなかろうか。

 因みに、本項には判例への言及がないが、その理由は、見込みの話をしているからということもあるが、それ以上に、その必要がないのである。判例というのは、解釈によって判断が分かれる可能性があるからこそ意味があるのであって、争点にもならないところに出て来るものではない。電凸のケースの場合、刑法各論はもとより、総論ではじかれる部分が多いので、引きはじめたらキリがなくなるし、またその意味もあまりないのである。(たとえば、他主体の介在したケースで因果関係を肯定する解釈は、戦前の学説にすら見あたらない。)唯一、広告主の忙殺が違法性が問われる余地があるが、広告主が電凸に忙殺されるのはたくさんの人間がアクセスするからであり、一本では忙殺にならないことを考えると、個別の電凸主を可罰とする論理はないだろう。しかし、ここだけは論理的推測に止まる。(了)




憲法 第4版 (新法学ライブラリ 2)
長谷部 恭男
4883841200

刑法総論 補正版
浅田 和茂
4792317541




PS
それにしても、何かにつけ「威力業務妨害罪に当たるかも」って言うの、流行ってるんだろうか。尤も、警察業務に威力業務妨害罪が成立するとかいう珍奇な説に比べれば、議論の余地がある分今回のは大分マシではある。

尚、「活動に当たっては法令遵守を充分に配慮し、問題を指摘された時に備えて理論武装も必要」という点は、まったく同意見。ただ、ちょっと目の付け所がズレていると思っただけです。悪しからず。
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