Cause we are the ...

La ricerca della morale che non dipende da una cosa della trascendenza...
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そして少佐はネットの海に消えた…|必然に抗う主体の往還二廻向
以前のエントリ「人は低きに流れ、そしてベヒモスに飲まれる?」に関する話の続き。
http://nornsaffectio.jugem.jp/?eid=77#comments

この話は、下のリンク先の記事から続いているものです。
http://nornsaffectio.jugem.jp/?eid=42#comments

ところで、タイトルのネタ元は、…言うまでもありませんね。(記事最後尾参照)

さて、話を続けましょうか。。。



1,固有名とゴースト

 まずは、固有名をめぐる個の問題ですが、なかなか現代的な展開になってまいりました。(アガンベンあたりを思い出します。)

 結論からいいましょう。僕自身は、「個」も「主体」も他者と関係を持つことによる効果と考えるので、「固有名=個」と考えるわけでもなければ「固有名≠個」と考えるわけでもありません。「どうあるべきか」と「どうみえるか」を含んだ語りの構造が個や主体(攻殻用語でいえば「ゴースト」)を想像させるのだ、と考えます。ゴーストはシステムに宿る(?)わけです。

 とりあえず、確認する意味で、「どうあるべきか」と「どうみえるか」の関係を、ラカン語に翻訳してみます(苦笑)。すると、以下のようになります。

 S1 → S2
 ー   ー
 S   a


 レイアウトが崩れている可能性が大いにありうる(苦笑)ので一応説明しておきますと、S1の下に、横線を挟んでスラッシュを引かれたSがあり、S2の下に横線を挟んでaがある、という図式になります。(本当はスラッシュも「/」みたいに斜めなんですけどね)ジャック・ラカンの哲学(!)にいわゆる「主人の語り」のシェーマです。

 「どうみえるか」に該当する部分は、S1とS2です。シニフィアンsignifiantといって、ソシュール言語学に由来する用語ですが、ラカンはそれを独特の用い方をしています。まあ、言語、記号における表現の部分(「海」という文字や、「うみ」という音声)のことだと思ってください。これは、連鎖することにより意味をもつ。「カエサル」という言葉はそれひとつだけでは意味がなく、「ルビコン川」とか「ガリア遠征」等と結びつくことにより意味をもつ、というようなことだと考えてください。その連鎖を示す記号が、S1とS2の間にある矢印、「→」です。

 上記S1とS2の連鎖のいわんとするところを、「自分がなにものかであろうとすること」だと仮定しておきましょう。主体は何者かであろうとし、べつのもの(S2)と関係をもつ。そうすると、両者がつながった効果で、横線の下の領域、Sと a が生まれる。どういうことかというと、主体は主体であろうとするとき、「じぶんはなにものか」と問いを発することで、その答えを求めるわけですが、とにかく「答えはある」と想像する。そのとき、あるはずの自分についての答えが、S。そして、語りかけた相手はその答えを知っている(所有している)だろうと考える。その、想像のなかで相手が持っているだろうと考える「解答」が、 a だというわけです。この、横線の下の領域、とりわけ a が「どうあるべきか」でしょう。

 この a は「対象a」と呼ばれます。カエサルの例でいうと、カエサルは生きている限りどんなふうでもありうるので、カエサルに関する記述は満たされず、つねに解答は先送りされる。この先送りされる「解答」が対象aですね。つまり、対象aは空虚である。カエサルが死んだらそこは満たされますが、そのときにはカエサルは主体として存在しない。いいかえると、僕らが主体的であろうとする(S)限り、対象aは必然的に空無である。対象aは解答なわけですから、「じぶんはなにものか」にたいする答えは「無」ということになります。

 消費には対象と主体の間に精神的関係がない、と宇根君は言いました。主人の語りの図式でいうならば、横線の上の世界だけで動いているものと思ってください。S1,S2は主体の真摯な問いかけ(S←×← a )と隔てられ、ただ、なるようになってゆく。記号が意味を抑圧する世界です。ハイデガーはこれを「頽落」と呼びましたが、問題は、その「頽落」が必然的だということでしょう。

 僕は当初から「所有」はあらかじめ失われていると言っていますが、それはどうしてかというと、人の精神はそもそも消費を本質とする記号連鎖の効果に過ぎず、そうである以上、「所有」の求める主体的営為は空無の空無に対する関係にしかならないからです。つまり、テロか祈念のふたつの道かしかない(→http://nornsaffectio.jugem.jp/?eid=35)のです。

 以上のことを別の言葉で言うと、労働は商品に代理表象され、流通される過程で評価されるほかなく、そこにはじめて「所有」が顔を出す。だとすれば、「所有」は流通に従属している。そして、流通の果てに労働それじたいを忘却するのは簡単です。ゆえに、商品社会は必然的に消費へと向かうわけです。

 スピノザの慧眼は、こうした事情すべてを(実際に、あるいは潜在的に)踏まえた上で、それでも倫理的でありうることを示したところにあります。ふつうだったら確実にあきらめるところですが、かれはいっさいの記号、いっさいの商品の総体ということ(無際限)を含みつつそこを超えた無限の彼方を「神」と想定し、認識を根底からひっくり返すことにより、必然でがんじがらめになった世界に内在する自由を肯定したのです。スピノザがヴェイユと邂逅する地点は、おそらくこのあたりにあります。「神を一旦消費したのちに再度所有した」というのは、そういういことでしょう。そもそも消費に必然性があるのだから、すべてをいちどそこに還元する必要があった。そして、そのプロセスを通って、突き抜けてしまった。驚くべき発想です。

 さて、ところで、先の話において個の居場所はどこでしょうか?答えは「全部」です。あの図式それじたい、人の精神が主体として成り立つ構造であり、その効果が「ゴースト」ということです。

2,公共性について

 さて、今度は公私の話ですが、おそらくこれは前のエントリ(http://nornsaffectio.jugem.jp/?eid=88)を意識して書かれたものではないでしょうか。だとするならば、これは公法学の専門的な話になります。そうなると、話を正確にしたいので、副島のことは忘れてください。はっきり言ってしまいますが、副島の法学の理解はいいかげんです。(一例を挙げると、彼は法実証主義という呼称は間違っており、法人定主義と言わなければ不正確だと言っていますが、まちがった理解です。どうまちがっているかというと、「実証」と「人定」をクリアカットに分けることができると思いこんでいるところです。正しくは、両方のニュアンスを含んでいるのです。law positivism の法学は、法解釈の根拠を超越的なものに求めず、あくまで法と規範をめぐる人の営みに判断の基礎を求めなければならないと考える立場のことです。解釈の基礎を人の営みという形而下のものに求めるという意味では「実証」であり、それが専ら人の営みにターゲッティングしているという意味では「人定」であり、両者は不可分です。訳語を当てると選択的になってしまいますが、それは翻訳という作業が本来孕んでいる限界です。だいいち、原文のニュアンスをまったく損なわない翻訳なんてものがあるなら教えてほしいものですが、副島とか中川とかいう人にはそれが解らんのです。自然法論と実証主義の関係だって、ケルゼンが法実証主義ならどうして「根本規範」なんてことを言うのかというようなことを考えるだけでも一括りでいえないということがわかるはずです。)概念conceptというのは議論の上での約束事ですから、他者と共有しうるものでなければなりません。(con=ともに、cept=掴む、というくらいですから。)副島は「ともに-掴む」ことそのものを否定し、じぶんの定義が唯一正しいんだ、とする論法を多用しますが、それはたんに議論からはみ出すことを意味するに過ぎず、社会科学的に意味のあることとはいえません。勿論、そんなことは革命的でも革新的でもないことです。彼自身の自尊心の領域以外では。

 さて、それは本筋に関係ないので、この際措きましょう。

 公的というのは、一般的な理解では、私人の私的な利益追求を超え、その社会に属するメンバーすべてのために一般的に確保される財やサービスに関して言われることです。だから、公共財といえば、メンバーであればどの私人も利用できるが、一般的でなければならないゆえに誰も私有することはできないものを指します。Wikipediaがうまい説明をしているので、引いておきましょう。

公共とは社会全体に関することを取り扱う上において利用される用語であるが必ずしも抽象・理念的なものではなく、「私」や「個」と相互補完的な概念である。例えば、村に一つの井戸を村人総出で掘って共同利用することは、きわめて公共性の高い活動であり、結果として、個人にも私人にも恩恵をもたらす。ある種の協働や個人的なおこないが不特定多数の他人に、結果として広く利益をもたらすような状況はしばしば観察され、それらの類型がしばしば「公益」「公共行為」と見なされる。

しかし井戸の例では、井戸を掘ることが個人で井戸を私有することを否定するわけではない。個人私有よりも共同所有の方が合理的であるという個々人の合意が形成された場合に、はじめて共同井戸が成立する。「公共」の立場からは、「私」や「個」の利益を追求したとしても、全体の利益を考えた方が結局は合理的であるという結論にたどり着くという場合「公共」が成立するのであり、最初から全体の利益を優先して、個人や私人を意図的に信頼・重視しない全体主義とは異なる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/公共


 長谷部先生のいう公/私は、こういう社会科学の一般的な理解に由来するものであり、長谷部恭男という個人の編み出したものではありません。(だいいち、そんなことをしても憲法学の領域ではあまり価値はありませんからね。)あくまで一般的な理解を前提して、では憲法解釈の中でその公共性をどう扱っていくべきか、ということを考えます。具体的には、公共財確保の要請と人権保障の要請が衝突する場合、どちらをどの程度優先させるべきか、という点をめぐって学説が対立することになります。

 従来の公法学では、公共財の確保という社会科学的な視点は、法律のラインナップ中、公法と私法が区別されることにより解消されたと考える傾向がありました。行政法などでいう公法・私法二元論です。それを踏まえると、公共性は専ら公的部門即ち国家や自治体によって実現されるわけですから、公共性を考えるためには国家や自治体の役割を考えておけばよかった。そして、公的部門でなければ一様に私人ですから、かれらはなるべく自由に活動すべきだということになる。そのとき、その力の大小はあまり関係ありません。

 その点、新しい世代の憲法学は、近接の社会科学(とりわけ経済学・社会学)の進展を踏まえ、新聞社のような社会的権力にも公共性を見出す視点を採ります。そもそも、公的なものは、個別の私人がそれぞれバラバラに利益を追求したとしても、全体の利益を考えた方が結局は合理的であるという結論にたどり着いた場合にあらわれるものでした。大きな力をもつ社会的存在がなぜ許されるのかといえば、その公共性を期待されているからである。ならば、私人の正当な利益が侵害される場合、公共性の正しさがあやしくなりますから、私人の利益が優先されるべきだと、そういうことになる。マスコミの活動にしても、それが情報機関として個人に対し圧倒的優位にあることを許されるのは、あくまでかれらの情報提供が公共財としての情報の一部となるからであって、情報の受け手である個人の正当な利益が侵害される場合公共性の根拠があやしくなるのは行政などの場合と変わらない。だからマスコミ各社のような私人にも、その存在の様態に応じて公共性を見出すことができると考えるわけです。公/私を、存在の区別としてでなく、機能の区別として考える立場といってもいいでしょう。そうなると勿論、いち私人たる個人のなかにも公人たる可能性が肯定されることになります。政治家の場合を考えてみればいいでしょう。

 さて、ここまでの話には善/悪の話が出てきませんでした。それには勿論理由があります。公共財等の話をする場合、善ということはすでに公共財に関する社会的合意のなかに含まれており、前提されているからです。問題は、その善/悪というのは、人の営みとして科学的に記述可能な領域のことなのか、それとも「かくあるべし!」という超越者の命令であり、それじたいは超合理の世界にあるのか。前者であれば法実証主義になりますし、後者であれば自然法論に親しみやすくなります。

 さて、ここでニーチェ風に「それを決めるのは力だ」と言ってみたところでじつはあまり意味がありません。というのは、そうは言っても公共財は社会的に必要であり、それを政治的実力次第と言ったところでその合意を否定する理由がないし、だいいち公共財の分配の問題はそのまま残るからです。ラディカルな批判は社会における個別具体的な問題をなにひとつ解決しません。というより、そんなことはわかりきっているから、分配的正義だとかパレート最適だとか、公共財の分配のあり方が議論されているのだと言った方がいいでしょう。公共財の合意の政治性を指摘することが意味を持ちうるのは、新聞社の報道権のような「公共財確保のための権利」に対し「切り札としての人権」に属する個人ブロガーの表現の自由を優先するようなとき、その理由としてでしょう。因みにこの場合、善は弱者たる個人の方に前提されています。善悪を分配の問題として考えるのは、ジョン・ロールズ以降の常識です。分配の問題は、だれになにをどの程度分配すべきかという水準で議論されなければなりません。

3,アンダーカレントについて

 僕は前回、「悟の失踪という事態は、かなえにおいて、悟への信頼、およびそれと反射的に成り立つ「悟からの信頼」への信頼ということの根拠を奪」ったと書きました。それを修正する必要性は感じていません。

 そこで、宇根君の分析に合わせてもうちょっと敷衍するなら、悟の隷従というのも、ある種の信頼関係であったということができます。信頼といってもいろいろなあり方がありますから。勿論それは最終的に、悟の失踪によって破綻するわけですが、破綻するようなものだから信頼関係といえないというわけにはいかないでしょう。悟にとって虚言は、かなえから「みえる」自己を提供することにより、かなえの信頼を確保しようとする戦略だった。一方、かなえの側からすれば、無意識に悟の戦略に応え、かれの提供する悟像を受け入れ、信頼していた。これはこれで、ある種の信頼関係だったというべきでしょう。

 しかし、かれらは、というより悟は、こうした信頼関係のあり方に堪えられなかった。あまりにストレスが掛かるやり方であり、虚像を支えるために虚像を重ねる自転車操業ですからね。信頼関係を支えるには努力がいります。悟のやり方は最後にこうした破綻に到るやり方であった。それで人間関係を移動しても、結局同じことをしてしまう。なぜなら、それしか信頼の結び方を知らないからです。

 一方、かなえの場合、こうした悟のあり方を知らなかった。それは本作のテーマになります。悟により差し出された自己像は見ているものの、その自己像を差し出すことで信頼を確保する悟の戦略を知らない。無意識なんです。無意識なだけに、信頼関係の構造への自覚を欠いている。そして、その不安定さを知る間もなく、悟に失踪されてしまった。

 要するに、かなえと悟の夫婦は、それぞれの側において信頼関係はあったものの、それを維持しうる条件がなかった。維持し得たとするならば、早い段階でその関係性の構造を自覚することがあればあるいは続いたのかもしれません。最終局面ではそれがわかったわけです。しかし、その時には関係そのものが片付いてしまっていた。信頼関係は、片付かないうちは無意識ゆえの危うさ・不安定さを抱えているものなのでしょう。空虚(対象a)に支えられているだけに。



タイトルのネタ元
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現代思想冒険者たちSelect 鏡像段階 ラカン
福原 泰平
4062743574

比較不能な価値の迷路―リベラル・デモクラシーの憲法理論
長谷部 恭男
4130311662

反「暴君」の思想史 (平凡社新書)
将基面 貴巳
4582851320



【追記 9/11】
 物権としての所有権の基本を知るための著作と、近代物権の日本における躓きの石ともなった山野入会権に関する著作を紹介しておきます。(入会権については、Wikipediaの記事を参照。)

民法 1 第3版 (1)

我妻 榮

4326450851


民法案内3 物権法 上

我妻 栄

4326498293


民法案内4 物権法 下

我妻 栄

4326498307


物権法講義 5訂版

鈴木 禄彌

4423731053


民法基本判例〈2〉物権総論・用益物権

遠藤 浩

4882618702


法律における理窟と人情

我妻 榮

4535576769


温泉権の研究 (1964年)

川島 武宜 潮見 俊隆 渡辺 洋三

B000JAH0SQ


温泉権の研究〈続〉 (1980年)

川島 武宜

B000J87EN4


所有権法の理論 (1949年)

川島 武宜

B000JBO1B4


入会林野の法律問題

中尾 英俊

4326450177


林野入会と村落構造―北富士山麓の事例研究 (1975年)

渡辺 洋三 北条 浩

B000J9JI5K


小繋事件―三代にわたる入会権紛争 (岩波新書 青版 515)

戒能 通孝

4004100593


北富士演習場と天野重知の夢―入会権をめぐる忍草の闘い

斑目 俊一郎

4779111374


昭和前期農政経済名著集〈21〉入会権論 (1981年)

B000J80JC2


戦後入会判例集 (1966年)

中尾 英俊

B000JA5SJO


日本の山野村落の生活に根付いており、つねに所有権の発想と衝突してきた入会権の問題を考えれば、コメント欄の僕の懸念も理解できることと思います。所有はけして自然で理想的な制度などではなく、ときに抑圧的にも働く、多くの修正が必要な制度だということの歴史的証拠です。

Un passage fragmentaire|断章 | 03:01 | comments(4) | trackbacks(0) | pookmark | |
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コメント
from: 宇根 康裕   2008/09/07 3:13 PM
久々の徹夜明けです。

昨日は、マクドナルドに宅配ピザでした。
今日はまだ食べていません。
今ならマウンテンの鍋スパでも余裕でしょう。

まず、1ですが、
言葉で語られるときは、おっしゃるとおり、すべて消費の対象となると私も考えます。
そして、「所有(あるべき姿にあること)」は、言葉で語れないものです。
なぜならば、語る必要がないからです。対象との所有の関係からだけを原因として、言葉が語られることはありません。
私が目の前にある大事なペンを所有しているとして、その状態を記述する必要はありません。
語る必要があるとき、それは、他者との関係から生じるものです。(私とペンとの関係から生じるものではありません)
例えば、「これは俺の大事なモノだ」と訴える場合です。

(消費の場合、対象とは精神的関係だけではないという判断から、単に「関係」とします。
一方、所有には対象と精神的関係がある)

Xにとって大事なAを「所有」しているとします。
この所有をBさんに語る場合、その言葉・記号は、Bさんとの関係をもつための消費の対象aです。
自分自身のあるべき姿(自分自身の所有)をBさんに語る場合、同じく語られる言葉は消費の対象xです。
その言葉は、Bさんとの関係をもつためのものです。

X⇒A

B−X⇒A
↑ ↓
↑←a

B−X⇒
↑ ↓
↑←

Bさんとの関係をもつために語られる言葉でも、自分の消費の対象x’を語ることが可能です。
それが悟のとった手段で、自分がどうみえるか(自分自身の消費・記号)を語るものです。

B−X
↑ ↓
↑←’

またBさんを所有していたとすれば、その所有そのものは語れません。
Bさんにそのことを語るとき、Bさんは語られた記号以外(態度など)から、消費か所有か判断したり、思い込んだりします。
そこにズレが生じるのでしょう。
信じるか信じないかは、所有と消費の判断・思い込み(無意識の判断)です。
ガンダムを所有する人々と消費している人々。
ガンダムを語ってばかりでは、ガンダムはガンダム好きな人との関係維持のための単なる道具、消費の対象となっているかもしれません。
また、ガンダム好き以外から、そう映ることがあるんだと思います。

テロか祈念。このテロは、「反『暴君』の思想史」の清明心と通じるものがあるように思います。
消費の支配する世界では、二者択一となるのかもしれません。
でも、所有には、テロでも祈念でもない、別の可能性があると考えています。
「反『暴君』の思想史」の中では、共通善の思想です。
その可能性は、貴重だと思いますが。。

労働者と商品と購入者の関係ですが、
労働者と商品、商品と購入者、それぞれに所有と消費が独立して成立可能です。
労働者と購入者の間に所有の関係が生じる機会はゼロに近い。

最後に、私のスピノザの理解です。
神を所有し、神との精神的関係のために世界を消費することをやめて、
世界を記述していき最終的に記号を消し去り、世界を所有した。同時に新しい神も所有したというものです。

真ん中の2番は、しばらく考えることにします。

3、アンダーカレントについて

おっしゃるとおり、奴隷にも信頼関係がありますね。
破綻したから信頼関係がなかったというのは言いすぎだというのも理解します。
無意識がアンダーカレントということでしたね。
ついつい、登場人物の意識を考えてしまうものです。無意識に。
無意識をテーマにしているところが珍しく、そして、うまく描かれていました。
from: よはん   2008/09/09 12:15 AM
>>宇根 康裕 さん

>言葉で語られるときは、おっしゃるとおり、すべて消費の対象となると私も考えます。

言葉で語り得ぬものは存在しません。言葉には外部がなく、外部がないのでその外側は「無」です。基本的な言語観に誤解があるようなので断っておきますが、人間精神に言葉以外の領域があると安易に考えるのは間違っています。「私とペン」の例でいえば、「私」とか「ペン」とかいう対象が存在するように思えるのは、それじたい「私」「ペン」という言葉が存在することによる想像的効果なのです。「私がペンをもつ」という状況を認識するとき、すでにそこには言語か介入しています。

ペンをはえたたきにおきかえてみれば、「はえたたきをもった私」に追い立てられる蝿にとって、「私」と「はえたたき」の区別は有意的でないでしょう。つまり、「私」という対象も「はえたたき」という対象も蝿の世界には存在しない。そのかわり、渾然一体となった敵対的対象が存在する。

このような差異が発生するのは、そもそもはえたたきをめぐってヒトと蝿の抱く関心が違うせいです。関心が違えば対象も違ったように構成される。言語はヒトの関心そのものを分節化したものなので、ヒトが関心をもつ方向にはすべて言語が介入します。また、言語コードは共有されないと意味がないので、ヒトの関心は根本的に他者との関係性(=社会)に規定されることになります。

では、言葉を離れたらどのような世界になるか。「私」と呼ばれる領域と「ペン」と呼ばれる領域が接続し、ともに動いているという状況が、「私」「ペン」という区別なしにそこにある、そういう状況が現出します。それはひとつの連続体であり、そこに言語以外の断絶が存在しない以上、森羅万象すべてはこの連続体に統合されてしまう。その連続体そのものを把握するのは不可能ですし、把握できたとすればまさに「あの世の出来事」でしょう。(西洋人はそれをカオスと呼びます。時空を超えた無限の連続体という意味では、スピノザの実体に通じます。)


>記号以外(態度など)

ひとの態度その他を記号の外部とすることそれじたい間違いです。ひとの態度が有意的であるのは、それがなにかを表象しているからにほかなりません。それは文化的記号の一種です。ひとの態度は言語のように構造化されています。

その外側にアクセスすることは、「無」としての、あるいは「無 - 限」としての連続体そのものにアクセスするということと同義になります。

さて、そこで本題です。
根本的に社会により規定された「所有」という制度が、人間理性の限界を超え、連続体にアクセスすることができるか?


まあ、ここまでくると答えは一概には言えません。直観を通じて一気にアクセスできると考える向きもあります。しかし、そうなると、もう「所有」という言葉の射程をはみ出してしまうんですよ。所有という言葉の本来の意味は、特定の誰か(X)が特定の何か(a)を全的に支配し排他的に利用できることを他の人々に認めさせる(!)こと、ですからね。そもそも他人との関係を前提とした、社会的な属性なんですよ。(また、そうでなければ所有という言葉を使う意味がない。)このとき、語り得ぬ主体(=あるべき姿にあること)を語る関係性ということは、この属性のもと抑圧されています。

一方、抑圧された主体(=無)を解明するのは精神分析の仕事ですが、それはすでに社会(=存在)の領域をはみ出した部分に関わる出来事です。スラッシュを引かれたSを充足する意味を求めて彷徨う主体に対し、分析家がみずからを無として差し出し、主体を終わりなきグルグルから解放する、というのはラカンも考えたことで、そういう意味で主体と分析家の人間関係はありますが、そもそも要件の部分に無理がある。ふたりの関係が主従に陥らない(一方が他方を「所有」する関係にならない)ためには、分析家は無でなければならない、つまり、<存在=この世>からはみ出していなければならない…

だから、ハイデガーは公共性という頽落した状況(!)から脱却し、死へと先駆せよと言いました。公共という社会的領域は、主体をめぐる問いを抑圧する方向に働きますからね。勿論、所有などという頽落した属性は死へと先駆する英雄的行為を堕落させるもの(煩悩?)なので、ハイデガー的には切り捨てられることになる。

>共通善の思想

共通善の思想というのは、以上のような存在論的純粋さを犠牲にしたうえで成り立つものです。存在論的純粋さに従って生きることは、みずからの心情倫理(≠心情)に殉じて生きることにつながります。しかし、そういったことがいかにすぐれていたとしても、矢内原忠雄やフルトヴェングラーがそうであったように、政治的にはなんら意味
from: よはん   2008/09/09 12:16 AM
つづきです。

>共通善の思想

共通善の思想というのは、以上のような存在論的純粋さを犠牲にしたうえで成り立つものです。存在論的純粋さに従って生きることは、みずからの心情倫理(≠心情)に殉じて生きることにつながります。しかし、そういったことがいかにすぐれていたとしても、矢内原忠雄やフルトヴェングラーがそうであったように、政治的にはなんら意味をなさない可能性がある。それはいわば固有善であって、共通善にはかならずしもつながらない。共通善を見出すためには、あえて頽落のなかに身を投じ、可能な分配を検討する必要があるのです。
from: よはん   2008/09/09 11:20 PM
追記です。
話がややこしくなりすぎたので、所有という言葉の基本を確認しておきます。

所有というのはあくまで近代法の制度です。法によって定められた約束事です。最も基礎的な約束事であり、それだけに様々な思想や哲学の見方が流入しやすい制度ではありますが、それでも制度は制度です。じじつ、未開社会には所有という発想はありません。(日本だってそうです。他人のものを勝手に使って平然としているくらいですから。小室直樹も言ってましたよね。)

宇根君はどうしても所有権のなかに個人の尊厳や思い入れのようなものを読み込みたがっているようですが、いち法学徒として言わせていただくと、失礼ながら、それはまさに所有という制度に関する無理解を証すものというほかありません。

所有をはじめとした物権の考え方は、個々人のモノにたいする思い入れがそれぞれどんなであれ、いち主権国家の内ではなんら区別することなく一律に扱えるようにする制度です。たとえば、先祖代々の家に生まれてからずっと住んでいる農村の人の家にたいする思い入れと、マンション転がしをして儲けている業者の人の実際には見たこともない家にたいする思い入れは非常に異なりますが、そんなことを気にしていたら資本主義経済は成り立たない。だから、そういう思い入れや尊厳のようなものをいったん無視して、いち主権国家のうちにある限り同様の扱いがされるように平準化する。それが物権というものです。現在では条約による擦り合わせが進んでいますから、世界中で同じように扱われるように個々の特性は無視されます。こうして、個別の特性を無視=捨象し、それこそ定量的に扱えるようにするのが物権、所有権というものです。

要するに、所有という制度は個人の尊厳や思い入れを抑圧してはじめて成り立つ制度だということです。尤も、リバタリアン等の一部には、こうして平準化されたなかにも人の尊厳や思い入れが生きていて、取引のなかで尊重されるのだと考えたがる向きもあるようですが、それは転倒した見方というもので、近代的制度による原初の抑圧を経たいまとなっては、所有権を通して人の尊厳や思い入れを実現してゆくより仕方がなくなったというのが正しい。

しかし、あくまで所有権というのは、農村の人の家も業者の所有物件も、権利として同一に扱うためのものです。いわば、人の尊厳や思い入れを疎外して成り立つものです。だから、こうした疎外が気に入らないマルクスとかハイデガーのような人は、制度ごと蹴飛ばして人間らしい世界を取り戻せという発想に到るのです。その結論には賛同しかねるものの、少なくともある種の楽観よりもずっと物事を正しく認識できているように思います。リバタリアンの認識は、マルクス以前に先祖返りしたに過ぎません。実際には、所有権は<「人間」の死>に向かって踏み出した第一歩です。だから、宇根君の言うような所有にたいする理想は、はじめから失われていたのです。
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