近頃ちょいちょい覘くようになったブログで、面白い記事を見つけた。
後藤和智『おまえが若者を語るな!』 - logical cypher scape
最近話題になっている本の書評記事であるが、まあ、この本自体はリンク先冒頭の
これは、悪口が書いてある本である。
の一言に尽きるような代物である。後藤氏といえば、本田由紀氏らと組んで俗流ニート論批判を行っていた人で、それなりに面白いものを書く人だと思っていた。それだけに、こういうスタイルの本が出てきたのを見て「なあんだ」という思いが一瞬僕の頭をよぎったのは事実である。尤も、そうはいってもこの本でも後藤氏なりの一貫した問題意識による構成は表れているわけで、お前も佐高や日垣と同じ轍を踏むのか、という心配はとりあえず不要ではあるわけだが、さて、それにしても、というのが残る。
とはいえ、
後藤氏の憤りがリンク先で指摘されているようなものだとするならば、実はとても共感できたりもするのである。つまり、
後藤が憤っているのは多分こういうことである。
つまり、何の実証的なデータにも基づいていない、思い込みのような言説によって、政治が進行している(具体的には教育行政や少年法改正など)ことに対しての憤りである。
ということだ。その標的となっているのは、レジーム先行型の言説、つまり、「論者の中に何らかの枠組がまずある。そして、その枠組に基づいて、あらゆる現象を説明している。しかし、何故その枠組が採用されたのか、何故その枠組が有効なのか、そういうことについての説明は一切なされていない」ものである。
まあ、僕自身大陸哲学というレジーム先行型の権化のようなものに長年興味を持ち、またそういう臭気のあるエントリやら何やらを書いてきたわけで、そういう僕の言うことだから、こういうものに共感するといきおい自己批判に近い部分も出てくるわけだが、言い訳臭いことを一言いうと、僕は哲学のレジーム先行を言祝いだことなど一度もないし、そういうスタイルを人に勧めたいと思ったことも一度もない。むしろそういう閉域から脱出したいがためにかえってそっち系の言葉を使って予防線を張るわけであるが、結局レジーム先行臭くみえてしまうのは、問題そのものの難しさもあるだろうが、たぶん僕が下手なだけである。
これは実は六年以上前、ブログという言葉もないような頃からずっと思っていたことで、ブログの前身のようなところでハイデガーだの藤島康介だのと書きながら、バイク好きやメカ好きやオタクや社会科学系が相互理解できるようなコトバがあったらとか夢想していたわけであるが、まさにそれは夢想であって、そんな難しいことは誰にも実現できない。むしろ、そのためにした工夫が徒となり、やがて、僕のクセにあふれた妙な言い回しに喰らいついて、僕にしか通じないことを書きはじめるような人が登場した。
その一例が、僕が「黒衣の花嫁事件」と呼ぶエピソードである。僕は昔、とあるゲームのいちエピソードについて評論を書いた(何のゲームかは推して知るべし)。そのとき、その記事によって自分のごく個人的なエピソードが採用・紹介されたという(ありえない)勘違いをした人が出てきて、丁寧に誤解を解いたわけであるが、それがかえって徒となり、「私の心をよく解ってくれる人」みたいなことになって苦労した。この人は僕のことをカウンセラーか何かと勘違いしていたようである。
要するに、話題の幅を広げるどころかかえって話題の幅を狭くしてしまい、その幅は僕のネット上の人間関係の幅にまで極小化されたのである。いまにして思えば、それはレジーム先行型の論述スタイルを採用したがゆえに必然的に陥った閉域であり、呪いのようなものであり、呪いゆえに「穴二つ」で陥った約束された結末だったわけだ。
それに気付いて以来、僕は哲学に冷淡になった。僕自身の実存にとって必要なごく一部の少数の愛読書を除き、基本的にストレートに哲学上の話題を出すことをしなくなった。それでもたまにこういうエントリーを書いてしまうのは、僕自身が過度に実存的だということだろう。忌々しい。
ところで、そんなわけなので、レヴィナスだのなんだのを引いてニート論などの個別具体的な社会的トピックスを語る(騙る?)ような人を見ると物凄く腹が立つようになった。レジーム先行で社会を語ると、レジームそのものの枠組みに最初から規定され、社会について語ってもそのトピックスにとって何の進展にもならず、たんに論者の実存を語るだけに止まってしまうというのはよくある話だ。その枠組みがジャーゴンで構成されているなら尚更である。
だから、後藤氏の憤りというのは、とても理解できるのである。根拠のない、実存的語りにすぎない言葉を用いて、若者について語るな、まして政策に口出しするなと。そのとおり。僕らが社会的トピックスについて読んだり調べたりするとき、あくまでその関心は実際上の必要にむけられているのである。論者各個の実存などに興味はない。実存に興味があったら、最初からドストエフスキーかファイナルファンタジー(ただしXまで)等の方に興味を持つのである。何が悲しくて、評論家(まして市井の一般人)の実存に興味をもたなきゃならないのか。実存的ジャーゴンが語るものは無に過ぎず、ゆえに無の無に対する関係にしかならない。
とはいえ、社会科学が個別の実存を軽んじていいという話ではない。むしろ、別の形で尊重しなければならない。ただその場合、それは社会的制度を通じた一定の抽象化(疎外)を経た先で行われることであって、なまの実存が顔を出す余裕はない。それは、科学的命題の実証のプロセスにおいて、データを通して、理論の修正原理として関わるに過ぎないのだ。逆にいえば、だからこそ実証は重要なのである。
さて、そこで難しいのは法学である。たとえば「後藤氏が東氏を殺害する目的でアルカロイドを服用させたのは、不能犯であり、傷害罪を成立させるに止まる」とか、「三浦氏が寺脇氏から土地を買う契約をした後、移転登記を経ないうちに寺脇氏から香山氏に同土地が売り渡されたとき、対抗要件がないから三浦氏は香山氏に対抗できない」などと言うとき、果たしてその判断プロセスに実証が働いているといえるかどうか。そういうのが個別の紛争を解決するのは間違いないし、それが文学でないということは誰でも知っているが、かといって胸張って科学だと断言できる人は少ない。これは法理学上の難問であり、これからも議論され続けるだろう。
さて、法理学はともかく、こうなってくると僕にとっては相も変わらず困ったことになってくる。過度に実存的であり、かつ法学くらいしか社会的トピックスと実証的に関わる術を持たない僕が、社会的トピックスについて語る上で実存の罠にはまりこまない保証はどこにもない。……となると、せめて先行する事例や言葉遣いと、その歴史くらいは気をつけたいものである。たとえば、所有という言葉はあくまで民法物権編に記述され、その想定する社会的制度をさすに止めるべきものであり、哲学的に隠語化したくはない。それは法学のためにならないのは勿論、哲学のためにもならない。哲学は哲学に、法学は法学に還るべきなのである。(了)
14歳からの社会学 ―これからの社会を生きる君に宮台 真司 (みやだい しんじ)
存在論的、郵便的―ジャック・デリダについて東 浩紀
「ニート」って言うな! (光文社新書)本田 由紀
PS
こんな記事を書いてしまうのも、近頃自分自身の業の深さというものを実感してしまうせいだろう。やれやれ。ところでそういえば、後藤氏周辺の人って、昔
濱桂先生と揉めてたね。