まず、話をはじめから辿りなおしてみないと始まらない。思えばずいぶん遠くに来てしまった。それは、宇根君の一言からはじまった。
わたしにとって、新しい認識が得られました。
モノは、生産から消費までを生きているものではなく、
ただ“ある”(存在している)ものとして捉えるようになっていると考えます。
前者が育てられた花で、後者は道ばたの草のようなものです。
いつ、どこで、どのように作られたかリアルに感じられない自然なモノです。
人間も、存在するだけの存在になっていってるとすると、
1月18日の日記にある「《人間》の死」ということでしょうか。
もし創造者である人間が死ぬと、モノはますます自然なものになるでしょう。
「情報」もモノと同じような道を辿っていると思います。
それに対する僕の解答がこれ。
「《人間》の死」というのはお遊びで引用した現代思想のクリシェです
言うまでもなく、フーコーのことである。哲学に興味を持つ人なら誰でも知っているので、それこそお遊びで引用できるはずだった。詳しく知りたかったらフーコーについてググればよい。著作に当たると尚良いのだが、さすがにフーコーは重すぎるので、宝島社あたりが出している現代思想の入門書でよかろうと思う。(この点、「ふん、ポストモダンか」の一言で逃げる、自分の無知を認められない副島厨等のような人はこの時点で置いていく。お互い勝手にやればよい話なので。)
しかし、さすがにググレカスで終わらせてしまっては身も蓋もないし、人間関係にヒビが入るので、それなりに説明を試みた。それが続きの部分。
情報化の果てに、自然をコントロールして主体的に生きてきた(と、かたく信じていた)《人間》が「死に」、かわりに、システムの中で既定の反応を繰り返すだけの「ヒト」が生まれつつある、と。
いまにして思えば、何とも舌足らずな説明である。フーコー的な文脈では、(と、かたく信じていた)の部分がとても重要なのだが、そこに突っ込んだ解説を加えるわけにもいかず、端折ってしまった。宇根君はすでに物心二元論を前提しているので、この時点でデカルト的コギトってことでバッサリ行ってしまってもよかったのだが、対決を先送りしてしまった。それがその後の混迷への端緒となったのだろう。因みに、今更ながら指摘すると、
もし創造者である人間が死ぬと、モノはますます自然なものになるでしょう。
もう前提がすでにおかしい。いつ人間が造物主になったのかといいたくなるところだが、まあそこまで意地悪を言わないとしても、要するに人間が自然を支配し、つくりかえることによってモノを不自然な状態にしている、という、典型的な物心二元論。形而上学である。
勿論僕はそんなことを言っていない。「自由な主体=人間」などというのは、近代社会の諸制度が抱かせた夢想にすぎないという、現代哲学のクリシェを引いただけなのだから。そして、それを理解しなければ、その次のくだりを理解することができない。
しかし、自然をコントロールしてきたという信念が状況の変化により崩壊しただけだと考えるなら、相変わらず僕らは必然の網目の中で生きていることに変わりないのだともいえるわけです。ただ、主体的生という虚構が失墜した以上、モノとの付き合い方は変化するかもしれません。
そのとき、これまで操作対象だったモノが、ふたたび僕らを必然の桎梏に閉じこめる笞となるのか、それとも、「美幸のまなざし」を通じてコンタクトすることが可能な隣人となるのか。そこは難しいところですが、ともあれ、以前よりは“道ばたの草のようなもの”としてモノと付き合ってゆく道を探ってゆかざるを得なくなるような気はしますね。
ポイントは、「自然をコントロールしてきたという信念」という文言と、「主体的生という虚構」という文言である。まさにそれは信念に過ぎず、虚構なのだと、すでに僕は明言している。英米流儀に大陸流儀、いろいろな説明が可能だが、この現代に「人間は自然をコントロールしている」等と言ったら、なら環境問題は何なのかとか、なら金融不況はどうして起こるのかとか、メッタクソに反証されるに決まっているのだ。人が資源を吸い上げ、その安定的確保を願ってそれぞれ不確定に政治的行動をとるが、その勢力争いの落とし所は予測不可能だし、他方では資源は有限で環境は失われつつあり、そのすべてが作用して、個々の主体には思いもよらない事態が出来する、……これのどこが自然をコントロールしているのかと。
まずこの部分を踏まえないと話が先に進まない。ここで僕がすべきだったことは、「自然をコントロールする自由な主体なんてものは本当にあるのか」という問いに拘泥し、そこで共通了解が得られない限り話を先に進めないことだったのだ。
しかし、話は先に進んでしまう。
>自然をコントロールして主体的に生きてきた(と、かたく信じていた)
>《人間》が「死に」、かわりに、システムの中で既定の反応を繰り返す
>だけの「ヒト」が生まれつつある、と。
なるほど。
せっかくなので、もう少し考えてみました。
《人間》は、自然を操作し、いろいろなモノを創造してきました。
これら《人間》による創造物は、創造の時点で《人間》が所有しているものです。
そして、ヒトがつくるモノは、創造者にあるような所有がありません。
例えば、職人が作るこだわりの一品には、職人にはそのモノに対する所有があります。
モノが創造者の望む相手(そのモノに対して心から賛美する人間)に渡れば、
その人間もまた、モノを所有します。このモノは、完璧です。
所有の逆が、消費です。
ヒトは、つくったとき消費し、買って消費するのです。
消費するとき主体がなく、
所有するとき主体があります。
はっきり言って、宇根君はまったく誤解している。単なる信念だ、虚構だといっているのに、まだ「《人間》は、自然を操作し、いろいろなモノを創造してきました」などと言ってしまっている。そもそもそんな状況は過去も現在も存在していないのだが。ともあれ、主体に関する「虚構」についての共通了解を素っ飛ばしたまま、話は独自の「所有」概念に突入する。
ここで僕が犯したミスは、所有という言葉の使用をやめさせなかったことだ。宇根君は明らかに、所有権を中心とした物権諸制度に関する知識を欠いている。そのことは、
これら《人間》による創造物は、創造の時点で《人間》が所有しているものです。
この一文だけで十分明らかだ。所有権というのはいわゆる用益物権、つまり、ものをどの程度利用できるかという点についての社会的合意のひとつである。どの程度利用できるかという観念なのだから、生産活動(創造?)とは直接関係ない。じじつ、歴史上生産活動の主体と所有の主体が分離するという現象は、あったどころか、むしろそうでなかった方が例外的だったほどなのだ。たとえば、前近代の農奴制の下では、生産活動に従事するのは農奴たちなのに、所有権(的なもの)は封建領主に帰属する。(的なもの、と言ったのは、厳密には所有権とは呼べないからである。少なくとも、近代所有権とは異なる。)人がモノをつくり、つくったモノを所有し、それを取引に供するなんていうシアワセな状況は、殆ど妄想のなかにしかない。中世自由都市の職人はそれに近いかもしれないが、それでも結局ギルドの流儀と親方には逆らえなかった。自由な(!)主体による創造・所有とは呼べまい。
要するに、「これら《人間》による創造物は、創造の時点で《人間》が所有している」というのは、空想である。空想なのだから、そんなものは存在しない(頭の中にしか)。引用では「人間」と「ヒト」が分けてあるから、それを踏まえて言うと、《人間》は空想である。そして、その状況を所有という言葉で表すならば、所有は空想であるということになってしまう。勿論、所有の制度はじっさいに存在するので、宇根君の言う空想としての(!)所有はじっさいの所有制度とは関係ない。以後、「所有」という言葉は、現実の所有制度とは関係ない哲学的ジャーゴンと化す。(しかも、通用する相手が二人しかいないという極端なローカル言語である。)ここで混迷は決定的となった。
じつは僕はこのとき、僕なりに話の筋を修正しようとした。そこで書いたのがエントリ
「人は低きに流れ、そしてベヒモスに飲まれる?」である。
所有と消費の対比ですが、おそらくそんなところだと思います。所有の概念が確立された頃は近代黎明期で、熟練労働者の職人仕事というのがまだ普通にありました。だから、労働と交換のあいだにある種の安定した関係を構想することができた。それに基づいて近代社会は開始したわけですが、しかし、程なく産業資本主義社会が到来すると、熟練労働にもとづく創造は、資本の所有(!)する大工場における疎外された労働に取って代わられることとなった。ここに「消費」の起源があるとすると、生まれ落ちたその時から「所有」は緩やかな死を迎えつつあったと言うことができます。つまり、創造者の人格的価値を十全に体現したものとしての「所有」の観念は、あらかじめ失われたものとして登場したのだということができる。
そして、情報社会においても「所有」の死は反復されつつ深化しているわけです。ブログの基になる技術を構想した前世紀末のハッカーたちは、おそらく仰るような意味での情報の「所有」を思い描いていたのでしょう。しかし、実際に起きたことは情報リソースの消費でした。
「所有」という言葉遣いを修正していないのでこんな書き方をしているが、それでも所有を「所有」とカッコ書きしていることがお分かり頂けると思う。このときちゃんと「それはじっさいの所有制度とは関係ない」と言えばよかったのだが、それを言わなかったために、以後話は平行線を辿る。
そして、そもそも話のはじまりがヴェイユに関するエントリだったことから、自由と隷従に話をつなげたことがダメ押しとなる。
6年前の状況というと僕もいろいろ思い出すところがあります。人がある意図を込めて書いたものを、別の人はまったく顧慮することなく手前勝手に解釈して消費してしまう。その状況に僕も頭を痛めたものです。それで頭に来て解釈しようのない変な文(!)をアップしたことがありますが、その結果、錯乱した挙げ句似たような変な文を書く人が複数出てきたわけです(苦笑)。あれは興味深い現象でした。
その後、本格的にブログが隆盛してトラックバック技術が普及しました。しかしそれも、前述の状況を強化しただけのように思えます。じじつ、付けられるトラックバックの殆どは、スパムか、そうでなくても精々、記事に触発された一人語りというところですからね。互いの人格を尊重した丁々発止のやりとりになることは、あったとしても殆ど奇跡的な確率です。実際、そういうエネルギーを使う対話に入るよりは、スタンドアロンの模倣者となる方を人は選ぶわけです。
つまるところ、人は《人間》であるよりは《ヒト》であろうとするのでしょう。水は低きに流れ、人もまた低きに流れるわけで、地球の重力に引かれて飛べない人間は所有より消費を、自由より隷従を選びがちなわけです。必然の桎梏にたいして倫理的であろうとするよりは、力への意志に翻弄されて生きる方を選ぶわけです。(ヴェイユのいう「重力」ですね。)情報社会においては、情報の並列化の果てにひとは個を喪失してゆくわけです。そこで個をとりもどすにはどうしたらいいか、というのは、これからの思想的課題でしょう。(神山健治はその可能性として「好奇心」を挙げましたが、それが何を意味するかはそれこそこれから掘り下げなければなりませんから。)
はっきり言って、これは僕が馬鹿だったのである。所有に関する誤解を修正してオシマイという話でしかないのに、僕は宇根君の意図を深読みし、
本格的な哲学の論点につなげてしまったのだ。括弧付きの「所有」が哲学的ジャーゴンに化けてしまったのは、僕の不注意のせいである。以降の状況は、宇根君が所有でないなにものかを所有と呼びはじめ、そのたびに僕が深読みし、哲学語に翻訳しなおすという、まったく不毛な内容となる。
たとえば、「個を所有する」と言い始めれば、僕はそれをいわゆる自我に関する話と解釈し、クリプキ=柄谷の話につなげる。柄谷行人の名前は出ていないが、暗黙に彼の『探究鵯』におけるクリプキ論を、さらには東浩紀の『存在論的、郵便的』等を想定した記述をしたわけだ。我ながら嫌になる知的バックグラウンドだな。
で、宇根君はそれを『反『暴君』の思想史』の文脈にネジ込む。もう混迷の極みである。だれも話についていけまい。なにしろ、「所有」という言葉を使いながら自我の話をしているところに政治思想史まで混ざり込んでしまったのだから。このあたりでだんだんと僕は気付きはじめる。哲学の話にしたのは失敗であったと。
だが、もう後の祭りである。期待された解答を実現するべく、僕は自我の哲学と政治思想の両方を射程に収めた記述をする必要に迫られた。そうなると、もうラカンしかないのである。そして僕はエントリ
「そして少佐はネットの海に消えた…|必然に抗う主体の往還二廻向」をアップする。ラカン=ヘーゲルに話を接続し、ヘーゲル的でないラカンを経由してドゥルーズ=スピノザへと突破口を開き、すべてを哲学に収拾するしかない!
勿論、そんな難しいことが成功するわけがない。なにしろ相手は物心二元論を疑いもしない人なのだ。言語が主体を構成するとか、抑圧だとか言ったところで、話が通じるわけがないのである。ついに混迷は極点に達し、所有、公共性、自我理想と理想自我、テロや清明心などの政治思想…といった文脈が、それぞれ混じり合わないまま混在するという状況になってしまう。そしてそれは、そのまま「所有」概念の暴走を意味した。この混迷したやりとりのなかで、それでもつねに中心に据えられてきた「所有」という言葉は、法学や社会学というホームグラウンドを離れ、あるいはそれをアメーバ的に取り込んで、自我の哲学と精神分析、政治思想からアニメ文化論にまで外延の及ぶ、ラヴクラフトの描くモンスターのようにとらえどころのない怪物と化してしまったのだ!
…などと冗談を言っている場合ではない。公共性をめぐる話はなんとか切り離したものの、論点の混乱はすでに極まっている。もはや、まともに話を進めることは不可能である。かといって、投げ出すにはやりとりを長々と続けすぎた。ではどうするか?原点を確認し、混迷の核を撃つことにしたのだ。所有概念の修正である。僕は腹をくくった。変な遠慮をして対立を先送りすることをあきらめ、まず、哲学的には宇根君の依って立つ形而上学と言語観を否定した(
9月9日AM12:15の書き込みである)。そして、あえて愚直に法学・社会学的本義に拘り、ジャーゴンとしての「所有」を追放することを決意したのである(同日PM11:20の書き込み)。
因みに、同時期に僕は、いま話題となっている後藤和智『おまえが若者を語るな!』についての書評を読み、面白いと思ったので一本書いてみた。しかし、業が深いというか、引きずった混迷がうっすらと記述ににじみでてきてしまい、余計なことをいくつか書いた。「黒衣の花嫁事件」までバラすとは思わなかった。しかし、お陰で気分がスッキリし、この勢いでいっぺん話をスッキリさせてやろうと思った。で、書いたのがこのエントリである。
問題はこの後どうするかなのだが、まあ、僕としてはやりとりをすること自体はやぶさかではないので、宇根君はべつに遠慮無用ではある。が、これ以上話が入り組んだり、独自語に悩まされたりするのは御免蒙りたいので、大要以下の条件のもと行うことにしたい。
- 所有という言葉を使わないこと。宇根君の用法は不適切な用法であり、他人の理解を阻害するものである。すでに一般的に確立した概念なのだから、それぞれどの分野でどのような意味で使われているのか、きちんと調べてから使うべきである。しかし、現状宇根君はそれができる段階にはない。
- 僕の引く事項やそのバックグラウンドについて、きちんと知識を得ること。勿論僕の知的バックグラウンドをすべて踏まえる必要はないし不可能だからそこまでする必要はないのだが、「人間の死」のようなクリシェさえ通じないのでは困ってしまう。クリシェなのだから、その知識を要求したとて無理な要求をしているわけではないと思う。ならば少なくとも、哲学史と(法)社会学の知識は必要だろう。
- 自分の実存を暗黙の前提にしないこと。宇根君が「新しい認識を得」るのは結構だが、それはたんに既存の見方を学習したというだけのことで、別に画期的な発見をしたわけでもなければ民族あるいは人類にとって新しい認識を啓いたというわけでもない。(それを混同することを僕は副島病と呼んでいる。)もちろん学習プロセスとして個人的には意味があるのだろうが、そういうのは哲学でも社会科学でもなく、精々告白文学なのだから、僕に興味はないし、ひとのブログで開陳されても反応に困るだけなのである。
さて、厳しいことを言ってしまったが、僕は宇根君の学習意欲やチャレンジ精神は素晴らしいと思っているので、あきらめずに頑張っていただきたい。ただ、このまま妙なクセを引きずってしまわないかと懸念する。フォームに変な癖のついている野球選手は選手生命が短いと言われているように、明快に書けることを明快に書けないのでは生産的な議論をすることはできない。(たんに「やりとり」になるだけである。)残念ながら、いまの宇根君には適切な思想的言辞を組み立てられる段階にはないと思われる。せっかく意欲はあるのだから、独学に溺れず倣うべき流儀に倣って、時間を掛けて基本を身につけていただきたい。
しかし、根本的には、僕が上手に書けていないってことなんだよな。思えばずいぶんミスを重ねてしまった。なんとも難しいものだ。(了)
社会学 |
| Anthony Giddens 松尾 精文 藤井 達也
而立書房 2004-12 売り上げランキング : 62999
おすすめ平均 社会学のバイブル 社会的想像力の養成 現代社会をひも解く一冊
Amazonで詳しく見る by G-Tools |