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La ricerca della morale che non dipende da una cosa della trascendenza...
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アディダス・スタンスミス /adidas 'STANSMITH 670461'

(旧サイトから転載)

近頃、妙に足の裏が痛むと思っていた。特に、アスファルトやコンクリートなどの硬い地面の上に長時間立っていたり歩き回ったり、要するにアクティブな一日を過ごした日には、必ずと言っていいほど足の裏が赤く腫れるようになった。理由は明白だった。靴の底が薄かったのである。

やはり、靴というのは重要だ。考えてみれば、自分の全体重を預ける相手である。要するに、自分の肉体の基礎に関わる道具なのだ。軽視して良い道理がない。そういうものを侮ると、文字通り痛い思いをすることになるのだ。

だから、靴はしっかり自分の足になじんだ靴を履きたい。日常僕は Hawkins Traveller を愛用しているが、これは今月で使用歴7年目に突入しようかというロートル選手だ。まあ、山本昌がノーヒット・ノーランをするご時世でもあり、ベテランの味もなかなか捨てがたいところがあるのだが、ベテランにはベテランらしい活躍の場を与えて然るべきだ。あまりアクティブな用途にはもう使えないだろう。

というわけで、スニーカー調達の考えはだいぶ前からあったのだが、この度ようやく計画実現の運びとなった。今回調達したのはこれ。

adidas 'STANSMITH'


アディダス・スタンスミス670461。1965年に「ハイアット」という名称で世に出て以来、世界中で愛用されつづけているテニスシューズの名選手だ。「永遠の定番」と呼ばれるほどの人気シューズだが、別にブランド信仰があって選んだわけでも、もとからアディダスのファンだったわけでもない。これを選んだのは、何回も何回も履き較べてみた結果だ。

やっぱり最初はハイテクシューズの類を試してみたのだが、どうもしっくりこない。足の形に合わないのもさることながら、ごてごてと要素過多なデザインが気に食わないのだ。僕の選ぶ靴である以上長いつきあいになるのだから、デザインに違和感を感じるというのは大きなマイナス要素になる。かっこいいとか悪いとかいうことより、根本的に僕の生活の文脈になじまない感じなのだ。

その点、まずデザイン面でぴったり来たのがアディダスだった。何といってもシンプルな美しさには普遍性がある。しかし、ご存じの通りアディダスのスニーカーは細いシルエットのものが多く、幅広の足では土踏まずあたりに狭苦しさを感じてしまうものが多い。そこをきちんとクリアしてくれたのがスタンスミスだったのだ。

また当然、購入の経緯からして、硬い路面を長時間踏みしめる衝撃を吸収してくれるものでなければならないわけだが、この点についても、定番テニスシューズのスタンスミスは合格点を出せる公算が高いと判断した。そういうわけで、今回はスタンスミスを選んだ。

もちろん、この選択が正しかったかどうかはしばらく履いてみないとわからない。レザーが僕の足にしっかりなじむまでしばらくかかるだろうが、こいつとはいい付き合いをしたいものだ。

今回は久しぶりにしつこいくらい履き較べをした。その際、種類を変える度に合うサイズの靴を取りに行かせてしまったが、嫌な顔ひとつせず付き合ってくれた店員の方に感謝したい。

アディダス STAN SMITH I LG
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P.S.
 ええ、中日ドラゴンズには大変感謝してますよ、僕。……意味はわかりますね。

Marchandises|グッズ・アイテム | 17:16 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark | |
「根こぎ」にされたリベラリズム ------ ロールズと井上達夫の狭間で
(旧サイトから転載)

後期ロールズが陥った「政治的リベラリズム」も、それを批判しロールズ以上にロールズらしいリベラリズム像を模索する井上達夫の正義基底的なリベラリズムも、それぞれがそれぞれの陥穽を抱えている。その両方を同時に批判し、生かしつつ乗り越える思想的ポテンシャルは、シモーヌ・ヴェイユの内にしか埋まっていないのではないか。

と、『重力と恩寵』を読みながら思った。
シモーヌ・ヴェーユ著作集〈3〉重力と恩寵―救われたヴェネチアシモーヌ・ヴェーユ著作集〈3〉重力と恩寵―救われたヴェネチア
シモーヌ ヴェーユ 橋本 一明 Simone Weil

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リベラリズムからアウラを奪った「政治的リベラリズム」は、正義の特殊構想を公共的討議に向けて開きながら、なおかつその討議空間を特権化することを拒否することにより、正義の一般構想が新たなる(そして最も悪質な)正義の特殊構想に身を堕する危険を回避しようとする。リベラリズムを純粋に「地上のもの」にしようというのだ。だが、この「リベラリズムの脱哲学化」を推し進めることは、すでにある討議空間そのものにたいする批判の契機を奪うことにもなり、結局、討議空間がただの「強者連合」に堕してしまう危険を内包してしまうことになる。この点を批判する井上達夫は、批判の原理としての「哲学的リベラリズム」の復権を唱え、討議空間の普遍的性質を維持すべしとする。しかし、こうして再構築され再定義されたリベラリズムの哲学は、まさに「定義」されているがゆえに過度に具体的な内容を抱えすぎる虞をもつ、具象の罠を抱えるものであり、前者よりも動的ではあるものの、やはり「特殊が普遍を騙る」危険を拭いきれていない。それは水が高きより低きに流れるが如く、重力に引かれ、やがて普遍とは違うものを帰結してしまうだろう。

やはり普遍的なもの、無限なるものという「恩寵」は、語られた瞬間に僕たちの手をこぼれていってしまうものらしい。望まれた恩寵は恩寵ではないというわけだ。とするならば、公共的討議空間の普遍性を「定義」する試みは、ついに堕落の運命から逃れ去ることを許されないだろう。やはり公共的討議やリベラリズムというものは、いつでも「語られざるもの」である必要がある。その点に勘づいたことに関しては、さすがロールズというべきだろうね。しかし、井上の指摘にも一理あって、メタ討議的視点を奪われた公共的討議の場は、それじたいをチェックする視点がない。すると、井上のいうとおり、そこは現状の「強者連合」を追認するだけの、弱者の参入をあらかじめ排除したものに堕してしまう、つまり「低きに流れる」危険性を孕むことになる。やはり重力に引かれているのだ。

可能なるリベラリズムというものがあるとするならば、あるいは真に普遍的な公共的討議空間というものがありうるとするならば、それは「根こぎ」にされたものとして粛々と実行され続けるものでしかないだろう。そして、そこに至る道も恐らく、現実の「特殊な」政治構想を「根こぎ」にし続けることによって見出されるよりないのだ。その在処は、運命の女神nornsだけが知っている。

◎参照論文:井上達夫「リベラリズムの再定義」、『思想』2004年9月25日号P.6~28、岩波書店(申し訳ありませんが、左記論文は図書館等でお探し下さい)

◎参考文献:本文で紹介した本の別訳
重力と恩寵―シモーヌ・ヴェイユ『カイエ』抄重力と恩寵―シモーヌ・ヴェイユ『カイエ』抄
シモーヌ ヴェイユ Simone Weil 田辺 保

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- | 17:08 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark | |
シモーヌ・ヴェーユ「一叙事詩をとおして見たある文明の苦悶」読了
(旧サイトから転載)


僕たちが地球上で人間として生きる限り、なんらかの「国」と関係を持つ。たとえば日本。それは、統一された「ひとつのもの」として把握される。それと同時に、ある一定の領土とそこに住まう国民がその「ひとつのもの」に属するものとして統一的に認識される。「ひとつの国」という想像が成立するわけだ。その一例が、「日本国」という観念。これはちゃんと祖国を持つ者にとっては空気のような存在で、ふだんはあまり気にも留めていない。「よし、空気を吸おう!」なんて気合いを入れて呼吸をする者がいないのと同じだ。しかし、ひとたびその空気がなくなったとき、僕たちはあらためて空気が存在していたことを痛感する。そのことは祖国分裂者やクレオール、無国籍者の例をみれば想い半ばに過ぎるだろう。たとえば前田日明、たとえばフジ子・ヘミング。ひとたび祖国を「選択」すべき立場に立たされたとき、空気のようだった「ひとつのもの」は、何か異質なかたまりのようなものとなり、「根こぎ」になってわれわれの目の前に現れるだろう。

ヴェーユが「一叙事詩をとおして見たある文明の苦悶」と「オク語文明の霊感は何にあるか?」をものしたとき、彼女は祖国喪失の淵に立たされていた。そういう時期にあった彼女が、「フランス」という観念のヴェールにより上書きされロストしてしまった、もはや地球上に存在しない「ひとつのもの」、南仏オク語国家に想いを寄せていたのは、いかなる内的必然があっただろうか。いまとなっては想像力に訴えるしかなくなってしまった事情は、運命の女神nornsのみぞ知るところだ。

今宵僕は二つの論文のうちひとつを読了したわけだが、これを読むとヴェーユがいかにこの中世ラングドックの都市文明に「想いを寄せていた」かを思い知らされる。なにしろ、歴史において精神的自由と寛容、豊穣さが高度に達成された時期はたったの二回だけで、それが古代ギリシャ文明と中世オク語文明だというのだ。近代文明を生きるわれわれは、いま現在こそ最高度に精神的・身体的自由が達成されていると考えがちだが、ヴェーユに言わせれば、近代の自由はその達成度の高さにおいて、ギリシャ文明やオク語文明に遠く及ばないという。

ヨーロッパは、この戦争の結果失われた精神の自由を、以後おなじ程度に見出したことはけっしてなかった。というのは、十八世紀と十九世紀の思想闘争から除去されたのは、もっとも粗雑なかたちの力だけであった。(P.210)

「この戦争」というのは、アルビジョア十字軍戦争のことである。当時フランスはカペー王朝を中心とする北仏と、トゥールーズ伯家を政治的中心とする南仏とに分裂していた。中世ヨーロッパといえばカトリック教会権力の全盛期という認識をされるのが一般的だが、当の南仏の場合はそれにあてはまらない。当時の南仏は都市文明が栄えていて、カタリ派信仰に象徴される独自の文化をかたちづくっていた。そこはあらゆる精神の富が流入してくる条件を備えており、北方、イタリア半島はもちろん、アラブやペルシア、さらにはエジプト文化までも流入し、それらがほどよく混交していた。南仏の精神文化は寛容で、異なるものを受け入れる土壌をもっていたのだ。ある意味ではカタリ派の信仰こそそうした多文化的状況を象徴するもので、それはキリスト教異端信仰のひとつとみなされているけれども、その実態は東方正教会の信仰(とりわけブルガリアのそれ)やグノーシス思想、さらには遠くマニ教の影響も指摘される、地中海精神文化の見本市のようなものだったらしい。

ところが、この多様性が問題だったのだ。ヴェーユも指摘しているように、現代を生きる僕たちは西欧中世について、不寛容こそその時代の宿命だったと考える。もちろんそれはカトリック教会の権威によるものだ。中世カトリック教会は、自らの教会こそ地上に実現された神の王国だと考え、その組織の中にキリスト教信仰のすべてを包摂しようとした。もともと多様でバラバラだった信仰をひとつのパースペクティブのもとに統合しようとするときに起こることは、信仰の内面化である。内面化された信仰は自己同一性をもちはじめ、つねにそれが「地上唯一のもの」であることを確認しようとする衝動をもつ。もちろん不純な要素があってはマズイ。不純な要素は、せっかく打ち立てた「地上唯一の」システムをふたたびバラバラにしてしまう。だからカトリック教会は、みずからの解体の契機にもなりかねない異端信仰を敵視した。それがグノーシス主義の生き残りとあっては尚更だ。グノーシス主義は、原始キリスト教会確立期において最大の脅威だった。カタリ派は、カトリック教会のトラウマを呼び起こしてしまったのだ。

ましてカタリ派の故地・南仏はトゥールーズ、カルカソンヌ、フォワ、モンペリエ、マルセイユ等の都市文化が栄え、西欧でもっとも繁栄した土地だった。首府だったトゥールーズは、ヴェネツィア、ローマに次ぐ、西欧第三の都市だった。それに対し、カトリックの支配地域は農村主体の土臭い田舎。北仏の諸侯たちは南仏都市国家群の繁栄をさぞ嫉ましく思っていたことだろう。そんなときに下った異端カタリ派排撃の勅命は、かれらにとって願ったり叶ったりだったに相違ない。こうして、1209年のカルカソンヌ侵攻から1244年のモンセギュール要塞陥落まで前後36年にも及ぶアルビジョア十字軍戦争は始まった。

まさにその精神的自由と豊穣ゆえに呼び寄せた災厄は、大量虐殺、略奪と放火などのかたちで南仏全体に降りかかり、地中海精神の精華だった南仏文明を徹底的に破壊した。以後、信仰を失い、独自の文化も言語も失った南仏ラングドックは、フランスという「ひとつのもの」のなかの一部分=片田舎と化し、存在を忘却されてゆくことになる。ヴェーユが注目した「一叙事詩」、即ち『アルビジョア十字軍叙事詩』(略して『十字軍詩』)がつくられたのは、この戦争も最末期に近い時分のことだ。

『十字軍詩』には、ひとつの文明の崩壊がうたわれている。ほんの少し以前には飛躍の一途を辿っていたひとつの文明のことごとくが、突然の武力の暴威によって死の痛手をこうむり、永遠に消え去るべき運命のもとに置かれ、そして最後の苦悶にあえぐ姿は、トロイア文明の崩壊の物語としてホメロスが『イリアス』にうたいあげたところだ。現代人は『イリアス』に「崇高」の概念を付すだろうが、未曾有の繁栄と永久消滅とを同時にうたったという意味では、『十字軍詩』もおなじ「崇高な」境遇に置かれている。ヴェーユがラングドック文明をギリシャのそれに準えたのも肯ける。


力も精神の諸価値を滅ぼすには無力であるという月並な表現ほど、過去にたいして残酷なものはない。こうした意見のために、人は軍隊の暴力によって滅亡させられた文明がかつて存在したことを否定する。しかも、人は死者たちの否認を恐れずに、そうすることができるのだ。こうして、人は滅びたものを再び滅ぼし、そして武力の残酷さに同意してしまうのである。(P.219)


ヴェーユは力の歴史を見続けた人である。ある勢力はその実力をもって他の勢力を圧倒し、やがて支配/被支配の秩序を確立するが、それもやがて新たなる力のもとに屈服する。人々は「力への意志」に衝き動かされ、歴史の一頁を飾る。何人も「力への意志」に逆らうことは出来ない。この残酷な下等神デミウルゴスの世界のなか、わたしたちの「けだかさ」はどこにあるのか。ニーチェの歴史認識を受け継いだヴェーユの行き着いた答えは、俗流ニーチェ主義にかぶれたナチスとは正反対のものだった。


敬虔さはわれわれに命じる、たとえ稀なものであるにせよ、滅亡した文明の跡を慕いその精神を銘記することに努めよ、と。(P.219)


中世地中海の太陽の如くあったラングドック文明は、「力」に関しても独自の感覚を持っていた。通常、国家秩序をもたらす支配/被支配の関係は、一方の他方にたいする暴力をともなって実現する。そこで実現されるのは権力だが、権力は権威を必要とする。前にも話した、自発的服従の契機である。中世におけるそれは、カトリック教会の権威とその信仰だった。通常はこのように、内面化されたひとつの世界観に帰属させられることにより、支配は正統性を獲得する。こうした伝統の嫡出子たる現代世界でもそれは変わらない。自由と民主主義、あるいは資本という「内面化されたひとつの世界観」に人々は衝き動かされ、その権威のもとに資源を奪い合い、支配し、服従し、脅威にさらされる。今日カトリック教会は、アングロ=サクソン文明によって周縁に追いやられた挙げ句、かつてとは逆に危殆に瀕した多様性の擁護者の役割を(とりわけ南米において)果たそうとしているが、じつに皮肉な話だ。かれらも「力への意志」の前に無力だったわけである。

ところが、異質な信仰どうしの容れ物でもあったラングドック文明にあっては、いささか事情が異なる。中世の他の例に漏れず、ラングドック地方の各都市はそれぞれ諸侯の領地だったが、それら諸侯はトゥールーズ伯の家臣だった。こう聞くと僕たちは、いかにも中世らしい典型的な身分制社会を想像するが、実態は違ったようだ。なにしろ、政治のトップであるトゥールーズ伯からして、「何事においても町全体、(中略)すなわち騎士や町民や庶民に諮」って市政を行っていたのだ。その市政が、民主的に選出された住民代表のカピトゥールの手により行われていたのはその一例である。自由な精神の持ち主であったラングドック人は、自由を愛する者すべてがそうであるように、みずからの矜恃の念を傷つけてまで他人に服従することを好まなかった。そこには秩序があり、治安が保たれていたにもかかわらず、言論においても信仰においても人々は自由であり、かつ階級は一体化していた。その支配の特色は、ヴェーユの説明によれば、騎士道に裏打ちされた住民の高度の公民的徳性により支えられた、文字通りの自発的服従だったという。

こういった「力」にたいする感覚がよほど身についていたものと見えるのは、アルビジョア十字軍戦争の真っ只中にあり、トゥールーズ伯の実力が完全に奪われた時点になっても、住民が自発的服従を表明し、トゥールーズ伯を支えようとしたことからも窺い知ることができる。『十字軍詩』において、トゥールーズ伯は戦いに敗れ、地位も財産も奪われ乞食同然の地位に陥り流浪するが、アヴィニョン自由市の住民は、トゥールーズ伯が領地をとりもどすために、みずからすすんで生命をなげだすことを約束するのだ。すでにまったくの無力の徒と化していた者に嫌々服従する義理がないことを考えると、その騎士道精神の寛大さがどれほどのものであったかが知られる。

どうして彼らはそこまでしてトゥールーズ伯にすすんで服従することができたのか。なにが彼らをしてそこまでの献身に駆り立てたのか。かれらが守ろうとしたのは何か。ヴェーユによると、それは文明の精神的価値そのものにあった。文明などという概念はまだ存在していなかったため『十字軍詩』の作者は言語化に苦慮しているようだが、その詩情は、ラングドック(=オク語の土地)において、その自由と豊かさがトゥールーズ伯の治世と渾然一体となっており、自由を愛することがトゥールーズ伯に服従することと不可分だったことを示している。


こうした精神と公民的感情の合一、そして自由と正当の領主とにたいするおなじように強烈な愛着は、十二世紀のオク語の国以外のところでは見出せなかったものである。(P.214)


現代社会において、自発的な献身ということほど不自然なものはない。現代人は公民的徳性を捨て去り、せせこましい私人にみずからを矮小化することにより、資本という名の怪物にいやいやながら献身させられ、隷従の一生を送る。それは、シエラレオネの少女売春婦からアメリカ大統領に至るまで変わらない、現代人の業病だ。

当然、ヴェーユはそのことを知っていた。誰よりも深く知っていたと言っていいだろう。彼女は、すでにナチスの手に落ちたフランスにあって、政治的指弾の脅威に晒されていた。資本に見捨てられんとしたが為に独裁者を戴き、精神文化から国民の生命に至るまで浪費的な投資の糧としてきたナチズムは、現代人の業病の急性転化した症状だった。彼らと闘ったヴェーユは、最後までこの業病にたいする服従を拒否しつづけた。そして1942年5月、マルセイユの港から出国したヴェーユは、清冽な拒絶の姿勢を貫き、一年と少し後、短い生涯を閉じる。まるでそれが必然的な運命でもあったかのように。(了)



◎参考:松岡正剛の千夜千冊『重力と恩寵』シモーヌ・ヴェイユ
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0258.html

◎参考文献1:ヴェーユの主著その1・『自由と社会的抑圧』
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◎参考文献2:ヴェーユの主著その2・『重力と恩寵』
重力と恩寵―シモーヌ・ヴェイユ『カイエ』抄
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◎参考文献3:マルセイユの時期のヴェーユを知るための好著にして、最適の入門書
サマー・アポカリプス
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【後記 2007.4.1】
のちにアップされたエピグラフ(~2007.4.1)は、このエントリに関連したものです。

秩序というものは、正当な権威にたいする感情によって、自分を卑下せずに服従できるような土地にしか存在しえない。それがおそらく、オク語の人たちがParage(けだかさ)とよんでいたものなのである。

(シモーヌ・ヴェイユ「一叙事詩をとおして見たある文明の苦悶」より)



L'histoire et Étude|歴史・社会 | 17:04 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark | |
クローネンブルグ1664 / Kronenbourg 1664
(旧サイトからの転載)

隣県で入手したクローネンブルグ。フランスを代表するビールで、世界でもトップクラスの売り上げを誇っている。日本でも比較的入手しやすいそうだが、ハイネケン等のように日本のメーカーがライセンス生産しているわけではないので、そういうものに較べるとさすがに見掛ける頻度は落ちる。

先程フランス代表と言ったけど、クローネンブルグが生産されているのはあのアルザス地方。

アルザス(アルザス語・ドイツ語:Elsass,フランス語・英語:Alsace,ラテン語:Alisatia)は、フランス北東部に存在する地方であり、住民の大部分はドイツ人の一部であるアレマン人だといわれ、130万人の住民がドイツ語の方言であるアルザス語(Elsässisch, alsacien, Alsatian)を話しており、アルザスはドイツ文化において重要な役割を果たしてきた。王制時代は「ブルボンに仕えるドイツ人」と呼ばれていた。首府はストラスブール(ドイツ語ではシュトラースブルク)。(Wikipediaより引用)

アルザス地方といえば、近代を通じてフランスとドイツが領有を争った、独仏対立を象徴する地域としても知られている。というのも、この地方はドイツとフランスの接触地帯として軍事的に重要な位置にあったのに加え、鉄鋼、石炭、カリウムなどの鉱産資源が豊富だったからだ。

中世を通じて神聖ローマ帝国(ドイツ)に属していたアルザスは、同帝国を徹底的に疲弊させ、後の分裂時代へと扉を開いた三十年戦争の講和(ウェストファリア条約:1648)により、フランス領となる。その後、17、8世紀を通じてフランスに属し、フランス革命以後はフランス同化政策を推進されたりもしたが、1870〜71年の普仏戦争でプロイセン軍が大勝利をおさめた結果、フランクフルト講和条約でドイツ領となる。このときプロイセンは、アルザス領有の引き替えとして、フランスに50億フランもの賠償金を支払っているが、どうやらドイツにとってもそれだけの価値はあったらしい。普仏戦争を契機に悲願の国内統一を果たしたプロイセン・ドイツは、宰相ビスマルクの辣腕により国内の近代化を推し進めていくのだが、鉱産資源の豊かなアルザス・ロレーヌ地方は、ドイツ工業の飛躍的発展に多大な貢献を果たすことになった。そしてそれは、第一次世界大戦で大敗し、ふたたびアルザス・ロレーヌ両地方の領有権を失うまで続くことになる。いわばアルザスは、大国ドイツの浮沈と運命をともにしてきたともいえるわけだ。

そして、現在アルザスはフランス領。現在でもドイツ文化の色彩の濃いアルザス地方だが、そこで生産されているクローネンブルグはいまやフランスを代表する味覚のひとつとなった。その味は、やはりホップの香りが鮮やかに漂い、さっぱりしているが、しっかりと味が付いている印象。クローネンブルグの製造手法にはドイツの影響が大幅に入っているという話だが、実際に飲んでみると、この国際的銘柄はかならずしもドイツビールの変種という枠組みに還元できるわけではないようだ。じじつ、僕の好きな銘柄のドイツビール、デア・レーベンブロイと飲み比べてみると、味の傾向がちょっと違うことがよくわかる。バドワイザーとは違った飲みやすさだ。

大陸を代表する二大強国が領有を争ったアルザス地方は、その領有とともにそれぞれの国に近代化という名の繁栄をもたらしてきた。しかし、それも今は昔。両国が慢性的な対立をやめて久しい現在、地域を代表するビールは、国際的銘柄として世界中で最も親しまれるビールとなり、僕のグラスを満たしている。

それはともかく、どうやら僕は、グリーンのエンボス入りボトルに弱いらしい。

◎参考:kronenbourg/ビール友の会
http://www.office-soleil.com/beer/enjoy/euro/krone.html

Nourriture et liqueur|食・酒 | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark | |
「1票格差5.13倍合憲」……?
(旧サイトからの転載)

毎度恒例の定数配分訴訟。今回は5.13倍に及ぶ一票の格差を巡って争われた。

◎1票格差5.13倍合憲、参院定数訴訟 - 東京/AFP通信
http://www.afpbb.com/article/953952

◎[参院選]「1票の格差」5.13倍は合憲 最高裁/livedoorニュース
http://news.livedoor.com/webapp/journal/cid__2529868/detail?rd

これらのヘッドラインを見て、僕は思わず顔を顰めたよ。

「え?5.13倍の格差に合憲判断が出たってこと?事情判決の法理はどうしたんだよ?

この二つのヘッドライン、誰が読んでも5.13倍という格差そのものに合憲判断が出たと思わせるような文面だ。しかし、大学で憲法をマジメに勉強した諸氏ならすぐ疑うと思うけど、最高裁が5.13倍を合憲と明言してしまうとはちょっと考えにくい。まあ確かに、当件で争われたのは参議院議員選挙だし、参院に関しては格差に関する判断が比較的甘いから、(いつも通り)違法宣言をするとまでは(衆議院と違って)行かないだろうとは思った。ただ、事情判決の法理ってものがあるので、違法宣言が出たところで選挙そのものが無効になる可能性はどのみち低い。

なら、わざわざ格差の数値そのものを合憲と明言する必要はないわけだ。これまでどおり、「ま、望ましくない状態なのは確かなんですがね、参議院の選挙制度は一種独特なもんがありますし、数字だけで一概に違憲かどうか問題にするのは……」って感じで逃げておけばすむところ。にもかかわらず、上記事ヘッドラインには「1票格差5.13倍合憲」とはっきり書いてあったのだ。

おかしいなあと思っていたら、やっぱり違っていた。

◎参院定数訴訟:配分は合憲「1票格差」は是正を 最高裁/MSN毎日インタラクティブ
http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20061005k0000m040049000c.html

従来通りの立場じゃないですか、これ?前の選挙のあと格差の是正をしきれなかった政治部門に対してちょっともの分かりがよすぎるきらいがあるのはいつものことだし、あとは憲法の教科書にも書いてあるくらいの定番の論理構成。いま現在の格差は問題あるかもだけど選挙そのものがダメってわけじゃないよ、って。「配分は合憲」ってのは、要するにそういうこと。5.13倍が合憲ってわけではない。そっちに関しては判断を避けている。

とすると、「1票格差5.13倍合憲」ってのは、明らかにミスリーディングだ。法律を知らない人が記事を書いたんだろうね、きっと。


◎内容に関連した本1:P.114~116にこれまでの判例を通じた詳細な説明あり
憲法
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それにしても、livedoorニュースの記事、毎日の記事をソースにしてるっつーのに……。

(注意:夜半は法曹三者や法律学者等、法律に関する情報に職業的責任を持てる立場にある者ではありません。このエントリは一介のペダンチストが彼独自の理解に基づき、かなり大胆に戯画化して判決を評したものです。あまりマジにとらないようにしてください。)

(注意2<転載時追加>:livedoorニュースの記事はすでに削除されています。)

(注意3<再転載時追加>:いくつかのリンクは途切れています。)

◎内容に関連した本2:P.185~186に「事情判決の法理」に関するまとまった記述あり
憲法
憲法長谷部 恭男

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Le courant des fois|時流 | 00:00 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark | |