ある健康情報番組が問題となっています。
テレビが食や健康といったトピックスをあつかう際のセンセーショナリズムは今に始まったことでもなく、それをことさらに批判するのもまるで土砂降りの日に「今日は天気が悪い」と言うような話だと思っていたので、こういう採り上げ方をすることは控えていたのですが、たまには気まぐれで書きたくなります。
さて、例のセンセーショナリズムに関する規範ともなっていたフジテレビ系の人気情報番組「発掘!あるある大事典II」ですが、ついにやっちまったようです。
◎記事
あるある大事典:「納豆ダイエット」はねつ造 関西テレビ(MSN毎日)
納豆ダイエット実験ねつ造…手口悪質、番組打ち切りも(Yomiuri Online)
「あるある大事典」納豆ダイエットで捏造 関テレが謝罪(asahi.com)
* * *
番組ねつ造:関西テレビ社長会見 認識甘く、後手後手(MSN毎日)
番組ねつ造:「あるある」出演教授、事前に構成知らされず(MSN毎日)
番組ねつ造:「あるある」に消費者から怒り(MSN毎日)
番組ねつ造:総務省が関西テレビ調査へ(MSN毎日)
夜半としては、こうしてエントリーを起こしている割には別段驚くほどのものでもないと感じているのですが、事前に今般のゲリラ的な納豆需要増加の情報を(ネットやニュース経由でなく)入手していただけに、印象は強いものがあります。
◎参考記事:納豆に異常人気! 増産、対応に大わらわ/お豆腐ランド
→
http://www.toyoshinpo.co.jp/topics/t0701_8.html
「発掘!あるある大事典」シリーズの存在は、テレビ番組製作や、過度にその影響を受けた主婦層の日常行動において、少なからず規範形成的な影響力を持つ存在でした。だからこそ、ゲリラ的な納豆特需(?)もあったわけです。その「あるある」の起こした事件ですから、それなりの影響は出るでしょう。
まあ、製作サイドの暴走については行政がそれなりに対処するでしょうし、それ以上別段のコメントはありません。せいぜい、昨日(つーよか、さっき)あげたばかりのエントリー(→
スキン変更に伴いエピグラフ追加:『重力と恩寵』より)の線で、テレビマンの「力への意志」を制御する術について思いを馳せる程度です。
まあ、それはいいとしましょう。
それにしても驚くべきは、彼ら(関西テレビや番組製作関係者など)がこういうことをしたことそれじたいではなく、こういう番組が斯様に影響力を持ち、マスな大衆の日常的な行動をこうも直接的に規定してしまっているという事実です。例の1月7日の放送後、普段納豆を食す習慣がないのに納豆の購入に走った人が大量発生したことは先に触れたとおりですが、その人たちの意志はどこに存在するのか。むしろ、こうしてマスメディアの構築した世界観が動機なき者の無意識に侵入し、その行動を斯様に直接的に決定している状況を見ると、個人の自由意志なるものはどこかに雲散霧消してしまっているのではないかと、そんな風にさえ思われるわけです。とりあえず、今度のことで「騙された!」とか「信じてたのに…」などと思った人は、テレビという「つくられたリアリティ」に脳みそを冒されすぎていると思った方がいいです。もはやそれは、貴方の無意識まで蝕んでいることでしょう。
……といっても、じつは僕、もともとひとの自由意志なんてものをほとんど信頼していません。それは事実として存在するというより、そういうものとして扱おうと人間社会が取り決めている、いわば当為としてあるのではないか
(「意志」という規範)と考えているわけです。この考え方を前提にすると、言い方を変える必要があります。有力番組が人々の行動をほとんど直接的に決定する現象がこうも明確に現出している以上、「意志」という規範はすでに規範力を失っているのではないか。いわば、「個人の意志」という法は死文化しているのではないか、というわけです。
この認識を前提とすると、個人の意志をどうしていくかということは、少なからず政治的な問題になります。これまでどおり、個人の意志というものの存在を前提とし、その個人意志に基づいた判断を尊重すべきだとする
(個人主義的な選択)ならば、まず先に「意志」という規範の再構築に取り組まなければならないでしょう。そのとき、個人の意志というものは、所与の前提ではなく、政策により積極的に確保しなければならない対象ということになります。個人が意志を持ち続けるということが、文字通り政策的課題となるわけです。すると、具体的には、今回「あるある」が放送法を根拠に総務省のチェックを受けたように、問題のあるケースごとに当局が指導するという基本姿勢の延長線上で考えていくのがいちばん穏当でしょう。(じっさい、今度の件でも、こうして行政や社会によるチェックが入っているのだからそれなりにうまくいっているのだと判断することも可能なわけです。)
他方、個人意志という失効した規範への信頼を捨て、もっと大きな共同体レベルでの良識を重視すべきだとするならば
(共同体主義的な選択)、その共同体レベルでの良識が人々の行動に関与する仕方を、それこそプロセス的に構築する必要が生じます。たとえば、今度のような場合、購買決定因子となりうるもの(今回のケースでいえば、番組「発掘!あるある大事典II」)が個人に直接届く以前に、その信頼性を吟味し、チェックし格付けするプロセスを置き、個人に購買決定因子が届いた段階ではすでにその正体が判明した状態になるようにする。そして、そのプロセスは公開、明文化し、民主的アプローチも保証しておく、とか。
僕としては、後者はあまり気が進みません。あまりにもパターナリズムが強すぎるからです。僕たちがそこまで共同体なるものにオンブにダッコでなければならなくなったとき、犠牲になるのは個人としての自由です。たとえば、コンテンツの事前チェックなんてものは容易に検閲へと転化しうるもので、下手をしたらこうして自由にブログを書くことすらできなくなる可能性がある。そういうのは嫌だから、規範としての個人は維持される必要がある。とはいえ、その個人がすでに判断力を失っている(=個人の自由意志なんてものはすでになくなっている)状況は多かれ少なかれ現実のものとなっているわけで、現に「納豆のダイエット効果」なるものを信じて納豆を買う個人が大量発生してしまっている。これでは、その個人も困れば納豆の製造業者も困る(→
記事)わけで、これではこのまま個人の判断力を信頼しつづけるわけにもいかなくなってくる。となると、機構として設けないまでも無力な個人の代わりにものごとを判断する奴は必要で、そういう市民ブレーンみたいのが市井にいて目を光らせる、そういう批評の機能を果たすサービス業みたいなものを形成してゆくしかないかと。リップマン流共和主義ではないですが、そういうことしか仕様がないのかなとも思うわけです。
新種のテンションへようこそ!
全てがOKだとは限らない
そういう意味の「外国」を数多乗り越えて
テレビは明日を夢想しやがるけどさ
オレ等はそんなもん食傷しているのさ
もうウンザリだよ
とりあえず、僕たちはもうちょっと個人の意志というものについて反省的に考えてみた方がいいようです。少なくとも、個人意志への信頼が社会秩序を不安定化する程度には状況は悪くなっているのですから。(了)
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◎参考文献その1:つくられたリアリティと、リップマン流共和主義(上・下二分冊)
◎参考文献その2:個人主義の再構築、日本型パターナリズム=マターナリズムをめぐる法哲学者の思考(ちょっと専門的かも)
◎参考CD:通底する問題意識ー「アホなアメリカ人」
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PS.
今回のタイトルはもちろん、Green Day(→
iTunes Store)の "American idiot" を意識したものです。(途中に差し挟まれている引用句も微妙に……;苦笑。)彼らは同アルバムのタイトルチューンにて、無意識までメディアに冒された「アホなアメリカ人American idiot」を批判しています。
ところで、歌手名後のリンク先はiTunes Storeに通じていますが、残念ながら "American idiot" がまだ入っていません。上にAmazonのリンクを張っておきますので、興味のある方はそちらからどうぞ。iTunes Storeへのリンクは、Storeのトラック追加を期待する意味で張り続けておきます。iTunesさん、早く追加してください。
今宵も読者置き去り一直線。……いーんだろうか、これで。
(この記事は2007年1月21日に書かれたものです)