Cause we are the ...

La ricerca della morale che non dipende da una cosa della trascendenza...
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頽落 Verfallen について
(旧サイトからの転載)

こんばんは。

今宵は久しぶりに冷えるね。寒さは思考を鋭敏にするから僕は好きなんだけれど、猫科一般にとっては寒さは大敵だ。まあ、猫科動物の分布はあきらかに熱帯寄りの傾向があるし、猫科の王者たる猫だってエジプト出自なのだから、当然といえば当然か。ということは、寒さを克服した猫というのは化け猫の代名詞みたいなものだったりして。

でもまあ、思考そのものとの関係においてみる限り、暑さ寒さと思考との間には偶発的な関係しかなさそうだ。暑いところには暑い気候に適した思考様式が発達するし、寒いところには寒さを反映した思考様式が発達する。それぞれインド、古代地中海、アングロ=サクソンの例を見てみれば解る通りだね。ということは、寒い方が思考しやすいというのは、僕自身の嗜好の問題といったほうがよさそうだ。

さて、相変わらずの長い前口上はこのくらいにして。

この間、ガンダムマニアの頽落 Verfallen を批判してみたけれど、いちどそういうことをおっ始めてみると、自分自身の頽落 Verfallen 批判の立ち位置なんてことをも再考してみなければ気が済まなくなってきたりして、いちど整理してみようと思った次第。

ところで、気も進まないのに何故ガンダムマニアの頽落を批判してみる気になったのかというと、ひとの「日常性への頽落」というものを理解する上で、ガンダムマニアのコミュニティのケースはかなり陳腐な部類に属する例だということが第一に挙げられる。頽落 Verfallen というのは勿論ハイデガーの言葉だけれど、実際、ハイデガー読みの批評家やなんかがオタク批判をする場合、かならずといっていいほど言われるのが頽落、「ひと」 das Manだね。西部邁みたく、ニーチェに倣ってニヒリズムと言う人もいるけど、ともかくこの類の話はもうほとんど言論の定石と化しているもので、それを知らなかったら他人から読書の習慣がないと思われかねないから気をつけて。

ともあれ、ガンダムマニアのコミュニティに関して頽落批判を持ち出すというのはとても陳腐な話であって、この辺境で僕がまたそれを反復してみたところで大して意味はない。しかし、その一方で僕は、「疎外感」を動機としてガンダムマニアを批判する人(たとえば田幸和歌子)をも同時に批判している(→その1その2)。こういう人たちについて僕は、精神分析の考え方を援用した上で「<ゆりかご=世界>なニンゲン」という表現を与えたけれど、あらためて考えてみるとこれもやはり頽落への批判なわけであって、だからこそ僕は「好一対」と言ったんだ。つまるところ、どちら側のニンゲンも居酒屋談義において疎外感を味わうことに堪えられないという点において共通しているわけで、その空談を求める情熱たるやなまなかならぬものがある。「制度化された空談」に筆舌を費す田幸和歌子などはその最たる例だし、ガンダムマニアにおいても事情が一緒であることは、この話柄に関する最初のエントリーに寄せられたコメントを読めば理解できるだろう。

事ほど左様に、田幸もガンダムマニアも居酒屋談義=空談に固着する。先日の話に即して考えるならば、空談は「ゆりかご」の代理物なわけで、かれらの空談に対する情熱は、それじたい、失われた「ゆりかご」に対する情熱の存在をも意味することになる。要するに、「ゆりかご」に対する固着において両者は共通しているというわけだ。僕は<「ゆりかご」への固着>について一貫して批判的なので、ガンダムマニアをめぐるトピックにおいては互いに敵対する双方を批判することになるし、その批判は必然的にハイデガー由来の頽落 Verfallen についての思考を触発する。

何度も言っているとおり頽落 Verfallen という概念はハイデガー由来のものだけれど、かれの日常的現存在批判は当時のドイツ都市社会の時代状況に触発されて為されたものだった。第一次大戦終結後のハイパーインフレ期を乗り切ったワイマール・ドイツは、やがてアメリカに毒された(!)大衆消費社会へと移行する。戦後ワイマール社会は第一次大戦における厖大な量に及ぶドイツ人の若者の屍体を忘却して、日常の享楽にうつつを抜かすことをひとに強請する。複製技術により大量コピーとなって氾濫する音楽、映画。また、大量生産を前提に設計され、また実際そのようにつくられた商品としての食品、日常雑貨。そして、本当に価値あるものにたいする思考を抑圧、隠蔽し、空談としてのトピックスを提供することに専心する新聞やスキャンダル雑誌……。こういう都市文化は、ハイデガーのように第一次大戦によって青年期を蹂躙された世代の者にとって、どうにも我慢のならないものだった。こうした消費社会に瀰漫する何とも甘ったるくて偽善的な空気は、残酷で暴力的な外部から隔てられた子宮の内側のように感じられた。非本来的自己、即ち、本来的自己から頽落(!)したものとしての人間存在(日常的現存在)とは、具体的にはこうした状況を想定して編み出された哲学的言説装置だったわけだ。

……これだけ聞くと、ちょっと親近感を覚えてしまうよね。主語だけ替えて、現代日本についての話としてコピペして使ってみようかなどと思った人もいたりして(笑)。それは冗談としても、本当なら自分らに責任があるはずの残酷で暴力的な真実を外部に放逐し、空談という母胎の中でひたすら相互承認を求めて居酒屋的文化の街並みを彷徨うということなら、後発の僕らの方がよっぽど巧妙にやっているわけだから(→例1例2)、頽落という言葉が現代日本において想起されるのには必然性があるということになる。その意味で言うなら、ガンダムマニアをめぐるトピックが頽落をめぐる問題系を触発するというのはまさにハイデガー的な意味で必然性があるわけだし、僕らがその論理を自覚的あるいは無自覚的に反復しているということは、彼の日常的現存在分析がそれなりに見事だったということの傍証にもなるわけだ。

でも、ハイデガーの場合、ここから先がイケナイ。疎外感にたいする恐怖からひたすら空談に耽り、真実から目を逸らし続ける日常的な「ひと」のあり方を非本来的自己と云い、真実を凝視しそこに身を投じるあり方を本来的自己と云って、現存在の真実、つまり「死に向かう存在」としての人間存在についての話をはじめるあたりから、論理がきな臭い方向に流れはじめるんだ。頽落 Verfallen というのは、要するに、真実を忘却していることから頽落というわけだけれど、じゃあその真実とは何かというと、「死」だと云うんだね。で、曰く、人間存在において死に二種あり、ひとつは忘却された死、いまひとつは凝視された死。人は必ず死ぬし、死は日常におけるすべての価値を空無にするほどの破壊力がある。ならば、この究極の存在規定としての死に先駆的に直面し、つねにその息吹(良心の「呼び声 Ruf 」)を感じ続けることにより真実の生を生きるべしと、まあそういう話になっていくわけだ。この話のどこがきな臭いのか?

ハイデガーは死に先駆する生き方をせよと云う。ならば当然、死に先駆した生き方というのは何なのかという話になるよね。ハイデガーは哲学的表現に終始していて、あんまり具体的に云ってくれないから、そこは僕らが推測するしかない。するとどうなるか。死への先駆、いいかえると、「僕はいつか死ぬ存在なんだ」ということをつねに感じながら送る生活、……それって戦時の生き方ってことになりはしませんか、ということになるんだ。

「つねに戦場に身を置け」などと言われると、カッコイイと感じる人もいるかもしれないね、とくに男の子なんか。実際、ハイデガーの「死の哲学」は1930年代〜第2次大戦終結後暫くといったあたりの時代、ドイツは勿論、日本なんかでも絶大な人気があった。それも、日常的現存在の現象学的分析の部分に、ではなく、「死に先駆する生き方をせよ」というメッセージに反応する者が、とても多かったんだ。まあ、その後じっさいに死の息吹を身近に感じつつ生きる時代がやってきたので、とても時代にマッチしていたものが人気を博するのも無理はないけれども、死の哲学に憧れるバカ人は平和な世の中になっても再生産され続けている。

しかし、ここで気をつけなければならないのは、死の哲学で語られる「死」とは、じっさいの死だということ。つまり、死の哲学のいう「死」とは、平和な時代に、たとえばサラリーマン諸氏なんかが「つねに戦場に身を置く意識が」などと云々するときに想定される、比喩としての死(!)のことではない。本当の人死にのことなんだ。もちろん、ビジネスの世界に生きる諸氏の本気度を疑うつもりはないが、職場に屍体が転がっているわけではないでしょ。比喩としての死はあくまで「もののたとえ」、比喩としてそうであるに過ぎず、結局のところ、日常的現存在の営みのひとつとして片付けられることになる。つまり、言葉では「死を賭す」といっても、やはり「非本来的」なんだ。「死の哲学」を完遂するためには、そんなもので足りるわけがない、……と、徹底的な人は思い至る。

でも、戦時中ならともかく、平和な時代、やることなすことにいちいち「死の息吹を感じる」なんてこと、そうそうあるわけがないよね。じゃあ、どうするか。ひたすら死を渇望するしかないんだ。そこでまた道はふたつに分かれる。ひとつは、いつまでも訪れない死を「片想い」し続けることに決め、頽落し腐った人間的日常に関しては「眼と耳を閉じ口をつぐんで孤独に暮らす」(『攻殻機動隊S.A.C.』あるいは『ライ麦畑でつかまえて』)道、つまり、シモーヌ・ヴェイユ的な「祈念」の道。いまひとつは、もっと単純に、みずから動いて日常を死の息吹でいっぱいにする道、テロリストの道だ。

こういう二者択一を迫られたとき、僕がどちらを好むかなんてこと、言うまでもないよね?いままで散々、シモーヌ・ヴェイユに言及してきた身なわけだし、だいいち、それ以前の問題だし。といっても、世の中、僕の同伴者はどうやら少なそうだ。なぜなら、「祈念」の道というのはとても峻厳で、ものすごい孤独で苦労させられ、時として壮絶な生き方を余儀なくされるというのに、何の得にもならない。せいぜい倫理的な自負くらいしか残らない。まあ、好むのとじっさいに選択するのとはまた別の話だから、情けない話、僕自身こっちの道を選び続けられるかどうか自信がない。それどころか、ちゃんと選びきれているかどうかすら確かなことは……、という状況だ。だから、大概の人は二者択一を迫られたという自覚すらないまま、自動的に他方の道を選ぶ。つまり、究極的なところでは自爆テロを理念型とする、テロリズム。

実際、ハイデガーも一種のテロリズムに加担したんだ。いうまでもなく、国民社会主義ドイツ労働者党、通称ナチスの革命思想のことだね。ナチスといっても、通常よく知られているユダヤ人虐殺なんかをやったナチスは国防軍と結託した官僚組織たる親衛隊(SS)の方で、ハイデガーが入れあげたのは突撃隊(SA)、つまり、一種の民衆革命思想として興り、ドイツじゅうの都市にあった学生や若者のサークル(ワンダーフォーゲルやら決闘やらを活動内容とする、ドイツ青年運動というやつ)をアメーバ的に飲み込んでやがてドイツ全土を席巻するまでに組織化した、急進的な勢力だ。

この突撃隊(SA)はレームという男が中心となり、民衆中心の永久革命思想としてのナチズムを信奉した者によって構成されたものだけれど、ナチスの政権掌握に伴って、SSやヒトラーにより難癖を付けられ、潰されてしまった。ハイデガーは死ぬまでレーム粛正の過誤を批判し続けていたんだけど、この批判がまたきなくさい。というのも、彼の批判したヒトラーやSSというのは要するにスターリニズム的な官僚主義であって、この国家官僚システムの構築を「革命からの堕落」だと批判しているわけだから、じゃあ本当の革命とは何だという話になる。それは当然レームの永久革命思想なわけで、言ってみればスターリニズムに対するトロツキズムにあたるものだ。勿論、トロツキズムは後の新左翼の母胎であり、極左主義の源流。東洋にはマオイズム(毛沢東主義)というのがあって、こちらはポル・ポト派やセンデロ・ルミノソなどを信奉者とする武装ゲリラの代表的思想であり、やはりスターリニズムを批判している。要するに、スターリンの国家的暴力を批判する者はセクト集団による非国家的暴力に転じただけなわけで、そこにはいわば「大粛正か文化大革命か」という究極の選択が横たわっている。別に「リヴァイアサンかベヒモスか」と言い換えてもいいけど、ともかくハイデガーは後者を選択したってわけ。

何でこんなことになるのか?それは、ここまで話について来ることができている奇特な人(苦笑)にはわかる通り、ハイデガーの選択がもたらした必然的な帰結だ。暴力=死の他所への押しつけをやめ、暴力=死をあるべき場所(!)にひきもどす結果、暴力=死はわれわれの日常そのものに在処を見出す。その結果が、アナーキックな暴力革命だったというわけ。

さて、ハイデガーの選択は、彼自身の行動の帰結としてはともかく、思想的にはまったくシャレになっていない。じっさい、世界は彼の過誤をなぞるように展開し、世界中の人々は日常身近に死の息吹を感じ、死へと先駆して英雄的な自爆を遂げるようになった。ハイデガーは20世紀最大の哲学者といわれているけれど、それは学者として見事だということもあるが、主な意味は別にある。つまりハイデガーは、見事な手つきによる人間分析とナチス加担をペアにすることによって「明らかに過誤を犯しているが、だれもが過たずにはいられない過誤」の象徴となり、しかもその過誤からの出口をそれはそれは見事な手つきで塞いでしまったんだ。

僕らにはもう、日常への頽落、即ち疎外感におびえつつ空談を繰り返すという「むなしい生き方」に甘んじるか、それを批判し「死へと先駆」して平穏な日常を失うか、どちらかの道しか残されていない。尤も、後者はさらに二つの道に別れるが、実質ひととおりのようなものだ。

暴力に着目して言い換えるなら、頽落したままでいるなら商品文化と官僚主義をペアとする「システム化された暴力=死」を受け入れなければならなくなり、スターリンを批判しきれなくなる。方法がマズかったと批判はできるが、そもそも悪いことだと非難することができなくなるんだ。だって、道徳的には同じことをしているんだから。じゃあ、やはり頽落を批判しようということになるよね。となると、国家への暴力=死の一元的集中をやめ、セクト単位で個別に所有された暴力=死と日常的に付き合っていかなければならないということになる。(因みに、ホッブズの言葉でいうと、前者はリヴァイアサン、後者はベヒモスにあたる。)要するに、文化大革命への道一直線だ。……非暴力ですか?なら、「眼と耳を閉じ口をつぐんで孤独に暮らせ」。他に選択肢はない。

……ね、シャレになってないでしょ?

通常は、というか、哲学的には、これでもう出口はない。リヴァイアサンが嫌ならベヒモスで、ベヒモスが嫌ならリヴァイアサン。んで、ホッブズなんかは、どっちも怖ろしい怪物だが、ベヒモスは手に負えないからリヴァイアサンをぶつけて二頭で闘わせ、僕たちはかれらがケンカしている隙にだましだまし生きるしかないということで国家論を展開しているけど、ハイデガー後の僕らもこういう選択肢しかないということを突きつけられつつある。僕らはもう、この頽落した日常を、シニカルに距離を置いて見つつヒューモラスに受け入れてゆくしかない、と。

ここでようやっとガンダムマニアのトピックに戻っていうなら、ガンダムマニアなら田幸和歌子のような「みっともない」者が他者として存在することを、田幸的な反ガンダムマニアなら”濃い”ガンダム話に盛り上がる者が他者として存在することを事実として受け入れ、疎外感を飼い慣らしつつなんとか相互理解の道を場当たり的ながら見つけてゆくほかはない。それをつねに十全にやってゆくには、さっきちらっと言った「祈念」の道を歩むほかないんだけど、まあ、これはあまり期待できない。世の中、孤独に耐性のない人間がほとんどだからね。なので、これからもガンダムマニアと反ガンダムマニアは、お互い頽落に無自覚なまま空談を浪費し続け、その必然的帰結として、これからもずっといがみ合ってゆくことでしょう。……僕がずっと「気が進まない」のは、それが理由。そして、その割りに筆が進んだのは、多分今日書いたようなことが理由ってところだろうね。

いがみあうのはしょうがないから、センスを磨くなり勉強するなりなんなりして、せめてもうちょっとみっともなくないいがみあい方をしてくれと、それだけ。本当、ウンザリなんだからさ。みんなもうちょっとエレガントに頽落しましょうよ。

ということで、今宵は長話が過ぎたね。いくら長話が平気だからといって、いいかげんにしておかないと読者置き去りにしっぱなしだし。……別にいいか、今更(苦笑)。

じゃ、おやすみ。

【追記:2007.03.11】
 文中の「暴力」の語を、読解上の便宜を考え、「暴力=死」に改めました。これが表現として正確かどうかは読者各々のご判断に委ねますが、少なくともこちらの方が「死」の概念とのつながりがわかりやすいでしょう。

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◎シモーヌ・ヴェイユについて書いた過去のエントリー

  • シモーヌ・ヴェーユ「一叙事詩をとおして見たある文明の苦悶」読了
  •  →「秩序というものは〜」のエピグラフは、これとの関連でアップした。

  • 「根こぎ」にされたリベラリズム ------ ロールズと井上達夫の狭間で
  •  →一見わかりにくいが、こう見えてもメインはヴェイユ。

  • スキン変更に伴いエピグラフ追加:『重力と恩寵』より
  • →「安定だけが〜」のエピグラフについて。僕はヴェイユをほとんど社会/政治思想として読んでいる。

    ◎ヴェイユの著作
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    ちゃんと読者をするということについて

    (旧サイトからの転載)

    今晩は。

    何というか、ウンザリついでにものを書いていると、ついついはしょった言葉遣いになったりして、「手紙」が「届か」ないことがあるというか、実際そんなケースばっかなんだけど(苦笑)、それが自分ではじめたやりとりだった場合それなりに応じるのも義務というわけで、こればっかりは仕方がないよね。

    何のことかというと、先日気まぐれでエントリー「共同体の排他性ーガンダム好き「に」共通する論調?」をアップしてみたわけだけれど、「ちゃんと読者をやる」ということについてもうちょっと説明しておいた方がいいかなと思ってね。まあ、どんなテクストにも誤読可能性というものはあるわけだし、誤読の自由は他の誤解と両立する限りにおいてのみ自由だけどね、あんまり相手の読解力に過大な期待をしてもいけないってことか。いや、あんまりイジワルして端折らないほうがいいってことかな。こうしてまた書く羽目になるわけだし。忘れてたよ、ガンダムマニアが「木を見て森を見ない」ニンゲンだってこと(苦笑)。

    さて、「ちゃんと読者をする」とはどういうことか?

    まず、小説や学術論文なんかの場合は「読む」というし、映画やテレビなどの場合は「視聴する」というわけだけれど、どちらも言語記号や映像記号(あるいはイコン、アイコンとも)などの記号によって構成されている。しかし、僕らが記号から意味を読み取る行為をする場合、文字通り「読む」という言い方をする。だから僕は、ものがアニメだった場合でも「ちゃんと読む」、「読者をする」という言い方をすることにするということを断っておくよ。あと、それぞれの「表現されているもの」のことを、総じて「テクスト」と呼んでおくことにしよう。

    さて、斯様な意味において「読者をする」という言葉は、たんに文字情報やら映像情報を視界に入れることや音声情報を耳に通すということ越え、そこからなんらかの意味を読み取ることを示す。当たり前のことなんだけど、しかし、ここにじつは困難の源泉が潜んでいたりする。どういうことかというと、「意味を読み取る」といっても色々なレベルがあって、ただたんに単語のレベルで反応するという段階があれば、その上位には文のレベルで反応するという段階があり、その上位には文脈、さらにその上位には文章単位で「意味を取る」という事が問われてくる。ガンダムみたいなアニメでも同じことはいえて、(1)MSとか何かの個々の画像表象単位、(2)シャアとアムロが対話するというようなカット単位、(3)「第1話:ガンダム大地に立つ」などの各話数単位、(4)ファーストガンダムなどのシリーズ単位、(5)さらには、’ガンダムシリーズ’と呼ぶ場合の通シリーズ単位と、こんなところかな。

    さて、こうしてレベルの異なるさまざまな表象単位には、それぞれ固有の意味があると僕達は考える。というより、そういう風に言語というものはできている。アニメだって言語みたいに構造化されているわけだから事情は一緒だね。ともあれ、そういうことになってくると、各表象単位ごとに意味があり、それが複雑に絡み合ってくるわけで、テクストの「意味を取る」といっても果たしてどのレベルで「意味を取」ればいいのか迷いがちになる。まさにテクストは樹海のような複合体となってしまうわけだ。だから、「読者をする」と僕なんかが言っても、じゃあどのレベルで意味を取ればよいのか、聞き手は迷ってしまうことになる。

    そうなると、なにか手がかりがほしいよね。そこでひとつ仮定を置いてみよう。テクストというのは作者がプロデュースする単一のものであり、作者から読み手にメッセージを送る行為としてあらわれるものだ(プラグマティズムの格率)と。要するに、本にしろアニメにしろ、テクストというものは作者から送られてくるメッセージということなんだ。手紙をイメージしてみればいい。

    さて、この仮定に従って、先の「ガンダムファンはちゃんと読者をやることを怠ってきた」というメッセージの意味を再考してみよう。まず、これはガンダムに限らないんだけど、「ちゃんと読者をやる」ということは一定のリテラシーを必要とすることで、しかも現代日本人はその能力が低下しているという指摘があって、ガンダムのケースもその一環なんだね。たとえば、いまや日本語のネット社会において重鎮とも言うべき存在となった糸井重里氏は、かつて宮崎駿との対談でこんなことを言っている。(強調は夜半による)

    宮崎:不幸なことなのかもしれないけど、自分がもし涙流したら、いったいこの涙なんだろうと思ってね、立ち止まるのがほんとはこういう社会で生きている若者のやることなんですよ。わたし泣きました、っていうのだけでは、ちょっとね。
    糸井:ま、それも趣味ですからね。
    宮崎:だから自分の映画観に行くのが辛いんですよ。お客さんと一緒に観るのはね。
    糸井:泣くだの、笑うだのは単なる自己主張なんですよ。映画作っている人にとっては、それを楯にとって映画評をされたのではたまらない。単に映画館の客っていうんじゃなくて。もっと、なんでだろうと考えて、読者をちゃんとやれる人って、いま少ないんですよ。
    宮崎:アニメーションっていうのは、どんなにくだらなくてもファンは必ず生まれるのね。特に思春期の人間は、ほんのわずかその時の自分の気持ちと合うと、もう全部許してくれる。それで手紙をくれたりするでしょ。だから、現場のほうが、正確に自分たちを見る能力を失ってるのね。それで、評論活動をちゃんとやらなきゃいけないんじゃないかって話になるわけ。

    (宮崎駿『出発点―1979~1996』P.378,徳間書店、下にAmazonへのリンクあり)

    なぜ、泣くだの笑うだのを「楯にとって」評価をされたのでは「たまらない」のか?どうして「なんでだろう」と考える読者を持たない作者は不幸なのか?なぜそれが、「ちゃんと読者をやる」ということにならないのか?

    僕はこう考える。先の仮定に従って考えると、作者がアニメーションをつくるとき期待しているのは、自分が作品に込めたメッセージがきちんと読者に届くことだといえる。なにしろ、創作という行為の本質がそうなんだから。となると、メッセージがきちんと「届かない」状態は、作者にとって不幸だということになる。開封されないことを予期して手紙を送る人はいないでしょう?

    要するに、創作に携わる人は、なにかメッセージを送りたくて作品という封書を送る。そして、その封書を開封するという行為は、僕たちが作品をちゃんと「読む」ということ、つまり作者のメッセージをキャッチすることなんだ。しかし、いまやこの封書=作品はどんどん複雑になり、総体としてそれを把握し、きちんと合理的な意味を取るということが非常に難しくなっている。「開封」するのも大変なんだ。開封、つまり「きちんと読者をやる」ためには、時としてかなりの読解センスや教養が必要になる。本だってたくさん読まなくちゃならない。

    しかし、それはとても大変なことだから、大概の人は「きちんと読者をやる」労に堪えられず、逃げる。その方が楽だからね。Read or die (読め、さもなくば死ね)という言葉があるけど、大概の人はそういう”死を賭した決断”なんかには堪えられず、どっちつかずのところにに引っ掛かって宙ぶらりんになる。つまり、手紙の封を開けないまま放置してしまうんだ。ハイデガーのいう'das Man'だね。

    しかし、多分寂しいんだろうね、なかにはただ単に「宙ぶらりん」でいるだけでは我慢できなくて、手紙=作品をおもちゃにしはじめる輩まで出てきてしまう。その結果、次のようなことが起こる。作者は必死になって手紙=メッセージを送り続けているのに、読者に届いても開封もされず、放置されてしまう。それどころか、開封もされない手紙と戯れて遊びはじめてしまう。……作者が嘆くのも当然だよね。

    考えてもみなよ。たとえば誰かが富野さんという人から手紙をもらったとして、その封書がとても見事な体裁だったとしよう。その人が、その手紙をありがたがるのはいいんだけど、そのあまり「富野さんから手紙が来た〜」と喜んで、開封もしなければ読みもしないまま、あるいは開けても読むこともなく「美しい字だ」とか言って、御輿に祀って担ぎ回ったらおかしいと思うでしょう。しかし、これまでガンダムファンがやってきたことはそういうことなんだ。彼らは『ガンダム』を読まずに祀ってしまっている。それを富野さんはずっと(それこそΖくらいの頃から)気に食わなくて、悩み抜いた末に(ばからしくなったのか)リアリズムを放棄することに決めてしまった。ファンのせいで。

    そして、ファンの乱痴気騒ぎは数十年を経てすでに公認されたという空気が生まれるまでになった。そんなとき、その乱痴気騒ぎのレベルに合わせ、後継者が薄っぺらなメロドラマを『ガンダム』と銘打って送り出すまでに事態は悪化したというわけだ。僕も含めてseedを批判する人(特にいい歳をした人)は、こんなものができてしまったのは半分は自分たちのせいだと思った方がいい。

    さて、ここまで僕はガンダムファンの頽落 Verfallen を口を極めて批判してきたけど、この僕のメッセージを受け取りそこなって「じゃあどうしたらいいんだ」と思う人もいるんじゃないかと思うんだよね。本当ならそういう人をこそ説得するべきなんだろうけど、こっちは本当、We're not the ones who're meant to follow.For that's enough to argue.と言うだけにしておきたいんだよね。「恩寵をもたぬ人間が義人となるのを待っていられるものではない」ように、<ゆりかご=世界>なニンゲンが主体性を持ちはじめるのを待っていられるものではないから。ま、元々気まぐれではじめたどうでもいい話だし。

    じゃあ、ちょっともう厭きちゃったので、今宵はこれくらいにしておくよ。おやすみ。


    【追記 2007.2.14】
    やっぱりちょっと不正確だと思うので、(プラグマティズムの格率)の部分をスラッシュで消すことにしました。というのも、かの表記は文の前段には掛からず(テクストの単一性とは一切関係ない)、後段には掛かりますが、本来の意味でいうならあのような意味に限定されるわけではないと思われるからです。参考までに、野家啓一先生は<プラグマティズムの格率>のことを、「思考を疑念から出発して信念の確定に至る一連のプロセスとして捉え、信念を心理状態ではなく<行動の規則>として解釈しなおす」態度と定義されています(木田元編『現象学事典』弘文堂、「パース」の項目による)。

    【追記 2007.3.27】
    ガンダムシリーズそのものに関する具体的な話を聞きたいという人はこちら(→「ガンダムシリーズ諸作品に関するメモ」)をお読み下さい。



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    PS.
    これまたどうでもいい話なんだけど、西欧に行くとこれまた話が逆なんだよね。あっちは「手紙は届く」という信念が強すぎて、「届かない」可能性や「間違って届く」可能性にまで頭が回らない。だから、デリダみたいな人は、あえて宙ぶらりんになって、「届かない」可能性や「間違って届く」可能性を態度で示し、逆説的に読解の責任を問うといったことをする必要があった。しかし、日本で同じことをやったら単にオタク肯定ということにしかならないよね。西洋人から見たら余程異様に見えるだろうね、東のはじっこのこんな状況。

    Un passage fragmentaire|断章 | 18:31 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark | |
    <ゆりかご=世界>なニンゲンたち

    (旧サイトからの転載)

    今晩は。

    今宵は随分温もっていて、僕の季節ももうすぐ終わりかな、などとつい柄にもないことを考えてしまうよ。猫も化けるほど生きていると色々なことにウンザリするようになるものだということはtopでも言ったけど、おかしなことに、何か物事にウンザリしている時の方が饒舌になったりするらしいということに最近気が付いた。うろ覚えだけど、煩悩が肉体の組成を導き、ひいては輪廻へと至るという仏教徒とかいうニンゲンの言うことが本当なら、マイナスの情念と生命のエネルギーとの間には密接なつながりがあるのかもしれないね。

    とまあ、それは半ば(?)冗談として、昨日あんなのを書いたせいで、気も進まないのに言葉が出てきて仕様がなくてね、もうちょっと余計なことを書いておこうかと思った次第。

    それにしても、この東のはじっこの島、「ゆりかご」への固着が並々ならないニンゲンが多いよね。ろくすっぽ説得術の基礎も踏まえず舌足らずなレトリックを弄した挙げ句、あらぬ受け取り方をされて嘆くということを繰り返している困った学者先生(かりにAさんとしよう)がいるかと思えば、仲間同士”濃い”話題で盛り上がっている人たちを横目で見て羨んだ挙げ句、仲間に入れてもらおうと半端な知識で口を挟んでけんもほろろの目に遭い、その恨み言で一本文章を書いてしまう厄介なお嬢ちゃん(同じくBさん)もいるみたいで、いやはや。まあ、それじたいは別にどうでもいいんだけど、そういうのを見てちらっと思った。ひょっとしてこの世界の辺縁に棲んでる人たち、自分の話は誰にでも通じるということを前提にして生きているんじゃないか、あるいは、自分の求める状態はねだればいつでも与えられると思って他人と接しているんじゃないかってね。

    僕の尊敬する知己はかつて、「ねだるな、勝ち取れ、さらば与えられん」なんて言ったものだけど、とりあえずこういう類の認識はさっき言ったような人たちには縁遠いものらしい。要するに、Aさんの場合は聞き手の理解を、Bさんの場合はいわば共同体の承認を求めているわけだけれど、両者に共通しているのは、その欲望の対象を「勝ち取」ろうとしている形跡がまったくないということだ。Aさんは舌足らずなレトリックに自足しているだけだし、Bさんは共同体の”濃い”話題をまともに身につけようともせず、共同体の通過儀礼を知ったかぶりでやりすごそうとしている。これは、それぞれの欲望の対象を「ねだる」行為であって、「勝ち取る」行為ではない。要するに、ろくすっぽ努力しなくても手にはいると思っているってこと。対象を獲得するために、じぶんから積極的に仕掛けていく必要性を感じていない。だから、周到に準備をすることもない。それで失敗している。

    じゃあ、どうしてこうなるんだろう?

    つまるところ、かれらの基本的な認識の部分に誤謬があるんだ。この世界、話が通じる相手より通じない相手の方が圧倒的に多いし、自分と近しい他人よりもよそよそしい他人の方が圧倒的に多い。世の中、僕みたいに意地悪な読者はいっぱいいるし(苦笑)、与党に対する野党みたいに、腹に一物あってわざと誤読(!)しようと待ちかまえている輩もいっぱいいる。それがこの腐った世界の常態だ。ならば、自分の主張を理解させようとするなら弁論術の基本くらいは押さえ、相手を説得することについていっぱしの戦略くらいは持っておくべきだし、共同体からはじかれた疎外感を克服しようと思うならきちんと通過儀礼をこなすべきだということになる。そうしなければ通じない相手には永久に話は通じないし、よそよそしい他者はよそよそしいまんまで終わるからね。

    ところが、AさんとかBさんみたいな人はこういう認識を欠落させている(あるいは信じていない)。そのかわり、逆のことを信じている節がある。Aさんでいうなら、たとえ舌足らずな表現でも聞き手はなんとか理解しようと努力してくれるから大丈夫とかたく信じているし、Bさんでいうなら、たとえその場しのぎの半端な同調であってもみんな親切で仲間に入れてくれるとかたく信じている。もうこれはかれらの無意識の部分にまで浸透していて、何も考えなくてもかれらはこの信念を前提に行動してしまう。だから、話をしても誰も説得できないし、いつも疎外感におびえていなくちゃならないことになってしまう。

    じゃあ、この逆さまな信念って、いったい何なのか?

    さて、ここで例の信念を僕がどう表現したかをふりかえってみよう。曰く、「たとえ舌足らずな表現でも聞き手はなんとか理解しようと努力してくれるから大丈夫」、「たとえその場しのぎの半端な同調であってもみんな親切で仲間に入れてくれるから大丈夫」。……こういう信念、もちろん現実と合致しないんだけど、あるきわめて限られた条件下においてなら現実と合致する可能性があるんだね。どういう条件か?それは、母親に庇護された乳幼児の場合だ。いわば、「ゆりかご」の中にいる場合に限り、上の信念は有効である可能性がある。なぜなら、母親だったら何の力もない我が子をかわいがるので、赤ちゃんが何を要求しているか理解しようと努力してくれるからね。

    別の言い方をすると、子供は時々の物質的条件により色々な要求を持つ。おなかがすいたとか、おしっこがでる(でた)のでなんとかしてほしい、等々。こういうほとんど物質的というか、本能的な水準で生じてくる個々の要求を欲求と精神分析なんかでは呼ぶわけ。この欲求というのは、乳児の場合、大概母親が全部満たしてくれる。「欲求の充足=母親」ってわけ(全能の者としての母親)。ならば、子供からしたら母親を求めておけばすべて満たされるし、じっさい全部満たされるから「求める」必要すらない。母子未分化の固着状態だ。かりにこの状態を「ゆりかご」と呼んでおこう。

    しかし、この「ゆりかご」ってやつは長続きしない。だって、子供の身体は大きくなるから、やがて「ゆりかご」から身体がはみ出してしまうもの。まあ、これは端的な表現。もうすこし詳しく言うと、母親が子供に四六時中付きっきりでいられる期間なんてのはそもそもあまり長くない。母親だって全知全能じゃないわけだからね。やがて母親が子供の欲求に応えきれなくなる時期がやってくる。すると、母親は欲求の充足とイコールでなくなってしまう。このときはじめて、子供はじぶんの欲求充足のために母親を「求める」ことが必要になる。母親が「求め」の「対象」になるわけだ。こういう「求め」のことを、精神分析は欲求と区別して欲望と呼ぶ。

    そうなるともう子供は必死。なんとかして母親の注意を引こうとする。デパートに行けば、要りもしない玩具をほしがって駄々をこね、買い物に夢中の母親の気を引こうとする。弟か妹でも生まれれば、弟/妹につきっきりの母親の気を引くべく、悪戯をしたり弟/妹をいじめたりする。

    でも、やがて気がつくわけだ。そんなことをしても母親はもうもとどおり密着してはくれないと。つまり、どこかで母親を「あきらめる」ことを迫られる時期がやってくる。分析家はこの時期の説明にいろいろ苦慮していて、ある者は父親からの強い禁止(去勢)というモデルを、またある者は「妄想分裂ポジションと抑鬱ポジション」なんてモデルを、またある者はシニフィアンの抑圧なんて言ったりしてるけれど、みんなうまく説明しきれていない。でも、どこかで母親を「あきらめる」段階があるということでは一致している。そして、欲望の対象は母親の代替物へと移行する。たとえば、母親本人のぬくもりの代替物としての、ライナスの安心毛布とか。

    この転換は決定的で、これ以降、例の信念は根底からひっくり返ってしまう。「たとえ舌足らずな表現でも聞き手はなんとか理解しようと努力してくれるから大丈夫」?……まさか。「たとえその場しのぎの半端な同調であってもみんな親切で仲間に入れてくれるから大丈夫」?……冗談でしょう。そんな親切な対象(=母親)はもう存在しない。僕たちは「ゆりかご」を出たんだ。これから僕たちは、不親切でものわかりが悪く、よそよそしい「他者」であふれた世界のなか、なんとか自分の居場所を見つけて行かなくちゃならない。「ねだるな、勝ち取れ、さらば与えられん」……。この定言命法を受け入れたとき、漸くかれは大人になる。さあゆけ、少年よ。………。

    さて、いささかけったくそ悪い参照のもと、例の”逆さまの信念”の一代記を演出してみたけれど、もちろん現実はそんなにトントン拍子で運ぶわけではない。転換に失敗する奴も少なからずいる。そういうのは、「ゆりかご」の温もりを忘れることができないまま大きくなり、やがてAさんやBさんみたいな大人になってしまう。……ウンザリだね。

    AさんとかBさんとかは、いつまでも「ゆりかご」にしがみついていて、ひとりでに「求め」を満たしてくれる「母親」という対象をあきらめきれていないから、ろくすっぽ説得術も磨かず舌足らずな言い方をしては誤解されて嘆くし、その場しのぎで通過儀礼を避けようとして仲間はずれにされては他人を恨んだりする。いわゆるイタいという状態になるわけだ。

    さて、こんなに書いておいて何だけど、僕としては誰がイタかろうが別にそれを咎めるつもりもない。当人からしたら子供っぽかろうが大きなお世話だろうし、だいいちどうでもいいしね。しかし、このイタいのが日本人として普通の在り方だ、なんてことになってくるとちとタイヘンだ。そうなってくると僕もさすがに居心地が良くないからね。

    さて、日本人というニンゲンは果たして「ゆりかご」から出ることができるのか。それ以前に、なぜ日本人はこうも「ゆりかご」にしがみつくのか。やっとこれからそれを探求する段になるわけだけれど、気が進まないのでとりあえずきょうはこれで終いにしておくよ。じゃあ、おやすみ。

    (いかん。これじゃまるで誰かさんのようだ:苦笑。)

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    P.S.
    まあ、学者先生お嬢ちゃんも普通の日本人だと思えば……。(?)

    Un passage fragmentaire|断章 | 18:19 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark | |
    共同体の排他性ーガンダム好き「に」共通する論調?
    (旧サイトから転載)

    こんばんは。相変わらずアイドリング中の夜半です。

    さて、アイドリングしてばかりいてはニンゲン達のマクロな住環境にとってよろしくないみたい。IPCCの第4次報告書が発表されてにわかに周囲がかまびすしくなってきているけど、日本の報道機関の報じ方にバイアスがかけられていることを指摘する向きなんかもあったり。ま、疑似終末論の類は当人達のシュミの問題なので放っておくとして、政策論的には、政策としての費用対効果と選好の問題って感じかな。温暖化問題というのが存在するのは事実だし、ま、論点がごっちゃにならないように、各陣営しっかりぶつかり合ってコンセンサスを形成してくださいな。

    ……まるで関係ない話だったな(苦笑)。「アイドリング」違いだね。

    さて、オフラインでは僕のLightWayちゃんも唸りをあげはじめたものの、こっちはあんまり書いていなかった。しかし、それだと「鈍る」部分があるから、そろそろ、気まぐれついで(というわりに結構経ってしまったが)にここらでひとつ書いておこうかなと思った次第。前も言ったとおり、あんまりこういう採り上げ方は好きじゃないんだけど。

    今宵のネタはこれ。

    ◎「ガンダム好きに共通する論調」に迫る/Excite Bit コネタ(田幸和歌子)
    http://www.excite.co.jp/News/bit/00091170609411.html

    まあ、ぶっちゃけたいした話ではないのよ。共感できるかといえばできる部分もあるし、そうじゃないかといえばそうじゃない部分もある。というより、だれでも(少なくとも現代日本のある世代に属するニンゲンならかなり一般的に)経験的に観察できるようなことを、分析の前振りとしてでなく、ただそのまんま書き出してみただけのものに本当ならコメントのしようもない。現象に関する「語り」(特定の価値観を含む)になら感想も出てくるというものだけど、現象そのものにどうこう言ったって、それは厳然としてそこにあるものなのだから何を言っても仕方がない。土砂降りの日に「今日は天気が悪い」と言われてもリアクションの取りようもないわけで。

    要するに記事そのものに関しては別に面白くもない話だという感想しかないんだけど、そんなことをここで書いたって、それこそ土砂降りの日に「今日は天気が悪い」と言うような話だからね。別にそんなことを書こうと思ったわけじゃない。

    まあ、わかりきったことだけに、前から思っていることを確認の意味で書いておく契機くらいにはなるかなと思って、言葉を紡いだ次第。

    さて、列記された事実から導き出せることが二つある。それは、

  • (1)ガンダムファンはちゃんと「読者」(視聴者というべき?)をやることを怠ってきた
  • ということと、
  • (2)日本人は言語ゲームの他者とのコミュニケーションが相当下手だ
  • ということ。とりあえずこのふたつ。

    まず、(2)の点から。記事で列記されているようなことは、別にガンダムに限らず、自己完結した世界観と言説体系を持つ共同体(たとえば教会とか)を外部から観察したときごく一般的にみられる現象であって、別に特別ガンダムが悪いわけではない。(いや、ガンダムのせいにできなくはないけど、それは「ガンダムが完璧な存在でないから悪い」と言うようなものであって、ちょっと不当な感じになってしまう。)たとえば、外国人の人たちが当地の言語で談笑しているところにひとりぽつねんと坐っているときとか、そりゃあ疎外感を感じるだろうけど、そんなことどうこう言ったってしょうがないでしょうがってこと。それは人間の業ってものなんだから、嫌なら悟りでも何でも開いてくれとしか言いようがない。このくらいのニヒリズム、大人なら持っているはずだと思うんだけど、わざわざ疎外感とかいって話題にされるあたり、日本人はゆりかごから単身飛び出す勇気がないのかな、と。

    でもまあ、こっちはぶっちゃけどうでもいいんだよね。疎外感を感じるのが嫌だってんなら、なるべく自分らの言語ゲームの共同体を出ない(「ゆりかご」から出ない)、あるいは他の共同体に近寄らないようにするのも手なわけで、大概の人はそうして生きている。本件で言うなら、ガンダムファンに出会ったとき、なるべく穏便に避けるようにでもしておけばいい。それで済む話だし、それを勇気がないとか、インドとかに生まれなくてよかったね(*)とか嫌味言ったところで、それこそ大きなお世話でしょ?そりゃあナイーブだとは思うけど。(→この話をもっと突っ込んで聞きたい奇特な人はこっち。)

    まあ、それはそれとして、メインにしたいのは(1)の方。ガンダムファンはちゃんと「読者」をやることを怠ってきたという事。もう少し詳しく言うと、記事にある条件を満たすが如き、いわゆる付きのガンダムファンは、ただその完結した世界観に耽溺するばかりで、その意味を主体的に忖度する作業を怠ってきた。たとえば、ガンダムにおける「戦争」というもののとらえ方のリアリズムを言いたいのであれば、現実に存在する紛争や世界情勢についてガンダムは何を語りうるか、そこからどのような批評を導けるのかということが語られなければならない。文芸や映画なんかはそういうことをずっとやってきたわけで、だからこそこれらのジャンルはそれなりの社会的信用なりステイタスなりを獲得してきた訳だけれど、ガンダムのファンは明らかに文芸などの読者に比してそういう読解の努力というものをネグってきた。そして、ガンダムの自己完結した世界観の「居心地の良さ」を自己陶酔的に語るばかりで、『ガンダム』のテキストを外部とリンクする作業を怠り、その一方で、世界観を共有しない他者(田幸氏や蛍原氏のような)をバルバロイ(蛮民)扱いしてきた。要するに、かれらは閉じた共同体を形成していた。その結果、彼らは世間からの冷たいまなざしを浴びるようになり、かえって嫌われるようになってしまった。今度の記事もそうした流れで出てきたものではなかったか。

    大体、ある世界観や思想について「深い」を連発することしかできないのは、対象を扱いあぐねている証拠なんだよね。近年世に出たseedシリーズが旧シリーズを知る向きから散々な評価を浴びていることは周知の事実だけど、ファン層の状況を見る限り、ああいうのが出てくるのは僕には非常によく理解できる。

    たとえば『ガンダム』の世界にはスペースノイド/アースノイドの区別があり、前者のみニュータイプ化するという定番の図式があるが、そこには富野由悠季の(ともすれば神秘主義的ともとれる)ヴェイユ的問題意識が含まれている。この文脈では「地球の重力に引かれて飛べない」ことが「低劣さ」と結びつき、さらにそれが人間の「不幸」と結びつく。これって『重力と恩寵』そのものじゃないですか、等と僕みたいなヴェイユ読みは思うわけだが、しかしそういう話は聞いたことがない。Googleで「富野由悠季 ヴェイユ」で検索をかけてみても、リファレンス関連以外はほとんどヒットせず、かわりにうちが三件もヒットしてしまう(笑)。そんなに変わった発想だろうか。あれほど「重力」って言葉が思想的な含意を持って使用されているのだから、ヴェイユを思い浮かべるのはごく自然なことだと思うんだけど。それとも、そんなに少ないのだろうか、ヴェイユ読みでガンダム好きの人って。

    まあ、この際ヴェイユは措いておこう。それを抜きにしても、ニュータイプとオールドタイプなんて対立軸は、全共闘世代の富野氏の世代意識、つまり上の世代への反感や軋轢が文学的なレトリック機構を通して反映されたものなわけだが、そういう話をするのはプロ(社会学者とか文芸批評家とか)ばかり。一般のファンは、そもそもガンダムの特定の表現が何を意味しているのかという論じ方自体をしてこなかった。そういう状況を受けて、seedシリーズの「ナチュラル/コーディネーター」の図式が出て来たというわけ。…何を言いたいかわかるよね。

    さて、そろそろ締めたいんだけど、とにかく、『ガンダム』オールドシリーズのファンも、それを横目に疎外感を抱いてきた向きも、ええかげんいい歳をしている。今更多くは望まないけれども、そろそろ大人になって、何とか歩み寄りの努力をするなり、他の文化と割り切って棲み分けるなりしても罰は当たらないんじゃないですか?

    どっちもどっち、好一対だと思うよ、実際。

    *注:インドは日本人の想像を絶するほどの多民族・多言語社会で、言語・宗教・生活習慣の違う者と日常つねに遭遇しつづけなければならない。「夫婦の出身地が違えば、言語も違い、家庭の共通語は英語となる。さらに暮らしている地域の言語、学校の言語、両親の言語、恋人の言語も違うとなれば、日常的に五言語は使いこなさなければならない。結局、一番便利な共通語英語にローカルな言語の様々な表現、ニュアンス、語彙が紛れ込んでくる」(島田雅彦)。もちろん、この差異がしばしば暴力沙汰に結びつくということは皆さんご存じの通り。だから、上記のような態度をとっていては、疎外感からの救済どころか、下手をすれば命に関わりかねないのだ。


    【追記】
    どうも話が通じていないみたいなので、ちゃんと読者をするとはどういうことかについて、新たにエントリーを起こしました。(→「ちゃんと読者をするということについて」)これからこの話題について書き込み等をしたいという人は、最低限こちらを読んでからにしてください。

    もっとガンダムシリーズそのものに関する具体的な話を聞きたいという人はこちら(→「ガンダムシリーズ諸作品に関するメモ」)へ。

    【追記 2007.4.16】
    注を付加しました。
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    ◎シモーヌ・ヴェイユについて書いた過去のエントリー

  • シモーヌ・ヴェーユ「一叙事詩をとおして見たある文明の苦悶」読了
  •  →「秩序というものは〜」のエピグラフは、これとの関連でアップした。

  • 「根こぎ」にされたリベラリズム ------ ロールズと井上達夫の狭間で
  •  →一見わかりにくいが、こう見えてもメインはヴェイユ。

  • スキン変更に伴いエピグラフ追加:『重力と恩寵』より
  • →「安定だけが〜」のエピグラフについて。僕はヴェイユをほとんど社会/政治思想として読んでいる。

    ◎ヴェイユの著作
    重力と恩寵―シモーヌ・ヴェイユ『カイエ』抄
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