Cause we are the ...

La ricerca della morale che non dipende da una cosa della trascendenza...
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基本書
評価:
ロラン・バルト
みすず書房
¥ 2,730
(1979-11)
あてずっぽうにものを考えるのでなく、方法論的にきちんとものを考えるためには訓練が必要だ。その辺の事情は、たとえば弓道できちんと的に当てられるようになるには、射法八節に習熟し、身につける訓練を経なければならないのと一緒のこと。僕たちは何なのか、自分自身とは何なのかと、そういうことどもを考えるにしても事情は同じである。訓練が要るのだ。思考において、基本となる書物、基本書が必要とされる所以である。

しかし、射法八節ですら変遷の歴史がある(→Wikipedia記事参照)ように、何を基本書とするのかは、分野によっては無論のこと、時代によっても違ってくる。だから、その昔じぶんが基本書とした本がとっくに時代遅れだと言われることは、ある意味避けられないことだ。しかし、自分がかつてその本を思考の訓練に使用したという事実は覆すことができない。そして、その意味で「時代遅れの」基本書は、時を経ても確実に「古びない」部分を残し続けるだろう。その後の時代の流れなど、参考図書でフォローアップすればいいだけの話なのだ。平野龍一の『刑法』を使って司法試験を乗り切ることだって、現在でも十分可能なこと……のはずである。

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さて、僕は別に平野刑法学の話をしたいわけではない。フランス本国においてよりも日本やアメリカにおいてよく知られた文芸批評家、ロラン・バルトの著作のことである。バルトの記号学関連の論文は、一時期集中的に読んだことがある。なにしろ哲学書・思想書関連の本をまだ読み慣れない時期のことだから、その読書経験はしぜん、基礎訓練を意味することになった。その結果はまあ措くとして、そうしてきたことそれじたいは、いまでも記憶にしっかりと刻み込まれている。

しかし、時は流れ、いつしか「バルトを読んでいる」と言ったら「いまどきポストモダン」などと揶揄される時代になってしまった。勿論そんなことを言うのは思想をファッションか何かと(いまどき!)勘違いしている連中なので、気にすることはないのだろうが、そういうのが増えたという事実は時代の変遷をなにほどかは象徴している。

通俗的に考えるなら、それはおそらくバブルの崩壊によって、記号的価値との戯れ一辺倒だったそれまでの文化・経済のあり方に人々が疑念を抱くようになった、といったところになるだろう。そして、かわりに求められるようになったのは、記号=表象などという浮ついたものでない「リアルなもの」ということになる。記号価値のはげしい下落に人々は「懲りた」というわけだ。

しかし、「懲り」るのは結構だが、かわりに飛びついたものはどれほどのものなのか、その「リアル」ということに根拠はあるのか、それは如何なる存在論的な位置づけをもっているのか、……、そこまで考えて「リアル=現実的」という言葉を喋っている人を、僕はあまり見かけない。いちどは連鎖するコトバ=記号(シニフィアン)の残余としてしか見出せなくなった「リアル=現実的なもの」を、それほど素朴に取り戻せるとは思えない。構造主義以前の素朴な還元主義、まして実感信仰に回帰するわけにもいかない。それこそコトバによって構築されたものに過ぎなかったはずなのだから。

人はコトバ=記号というものの真っ只中に住まう羽目になったその日から、コトバによって語り出されたことを頼りに「リアル=現実的なもの」を再構成しながら生きてゆくことを運命づけられた。それによって人は道具的連関という術を駆使し、どうしようもなかったはずの世界の偶発性を労働によりコントロールして、じぶんが生きるためにより適切な状況を構築できるようになった。要するに、人はコトバによって「世界からの自由」を手に入れた。しかし、その代償として、人々は「リアル=現実的な」世界とのなまの接触を失うことになった。「リアル=現実的なもの」は、コトバ=価値形態により再生産可能なものとなったが、それは同時に桎梏となり、すべては《コトバ=価値形態》に翻訳しなければ手に入らないようになってしまった。要するに、人は「世界からの自由」を手に入れる代償として、「世界への自由」を喪ったのである。

……ということは、いまや基本的な認識(のはず)である。表象=法の秩序によって、主体(“なま”の自分自身)は暴力的に追放され、有無を言わさずに排除されることとなった、つまり主体は去勢された、…という言い方はフロイト風。ひとびとが生きてゆく上で欠かせない日々の糧の生産のあり方が、あるとき大工業という形態でなされる段階に達したとき、それまでみずからが支配する道具であったはずの生産手段に、人々は逆に支配されることとなってしまった、それが疎外であり、あらゆる悲惨の源泉である、……と言えば、マルクス風。彼らの言い方にはいろいろ問題がある。(たとえば、彼らの論法では、ある段階以前は去勢・疎外と関係ない状況があったかのように想像できてしまう。実際には去勢・疎外は常態だったはずなのに。また、マルクスの場合、この論法の後がイケナイ。)しかし、問題はあるが、その認識それじたいは試行錯誤を経て修正・洗練させながら、それこそ基本認識として受け継いできたはずだった。では、「リアル=現実的なもの」って、そんなに簡単に取り戻せるものなのか。もちろん、否。

つまるところ、日本人はまた結局幼児退行したのである。去勢・疎外を否認していることは、人類ののりこえがたい運命をのりこえる革新などではもちろんなく、たんに彼らの頑迷さを証すだけのこと。もう後戻りがきかないということを認めたがらない者のノスタルジーに過ぎないのである。ムリかとは思うが、いいかげん、目の前の現実(!)を認めた方がいい。

といっても、またぞろバブル経済や1980年代のバカ騒ぎを繰り返せと言っているのではない。「リアル」の在処に気を配らなければならないのは本当だ。ただ、それは多くの人が思っているようなところにはない。

なら、どこにあるのか?そのヒントは、すでに基本認識のなかに含まれている。コトバが語り出された直後に排除され、こぼれ落ちる場所である。何かあるものを完全に語った、表現しつくした、記号と意味のセットのなかに閉じこめたと思った瞬間から、その外側が生じる。では、その外側は何?それは「……」である。では、その「……」とは?……。こうして語りの無限ループは生まれるのだが、そのとき、無限に獲り逃がし続けているにせよ、なにかを獲り逃がしているという事実はそこにある。いわば、痕跡があるのだ。

僕たちは何なのか、自分自身とは何なのか。…成る程、コトバのなかに住まう羽目になったその日から、その問いかけの真の答えは排除されている。僕たちは、僕たちのことを何者かとして、コトバを使って代理表象しなければならない。「僕はこうする、なぜなら僕らは……だから《Cause we are the ...》」。しかし、口に出した瞬間から、なにかがこぼれ落ちる。(例えば)僕らは猫型ニンゲンだ、だが、猫型ニンゲンが悉く僕なのではない、じゃあ、猫型ニンゲンの僕とは……。こぼれ落ちる限り、何度でもこの代理表象は反復し続けなければならないだろう。しかし、少なくともこぼれ落ちたと感じたその時には、ネットワークの波間へと去った草薙素子のように、それは見えずとも、静かに側に寄り添っているはずだ。(了)

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PS.
やっとタイトルの説明ができた!ま、偶然なんだけど。
L'histoire et Étude|歴史・社会 | 19:37 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark | |
禍福はあざなえる縄のごとし、か?
アフタヌーン1月号を読んで、嬉しいことが一つだけあった。

それは別に、ついに出た「ラピュタ」のパロディーのことではない。大森カズフサのハッピーバースデーでもない。(当たり前か。)そういうささやかなことではない。漫画に関わることでは、ここ最近で一番うれしかったことだ。

豊田徹也が帰ってきたのである。


正直言うと、ほとんどあきらめていた。「工場で働く」と言い残し、姿を消したと聞いていたからだ。また、振り返って『アンダーカレント』(氏が一冊だけ著した作品である)を読むと、この人がそういう行動をとるであろうことに異様な説得力を感じた。二つの出来事は、並べるとあまりにすんなりとくっついてしまうのだ。

しかし、豊田徹也は帰ってきた。失踪したかなえの夫が終には再び姿を見せたように、漫画家としての豊田氏は僕たちの前に戻ってきた。但し、弁解がましい疚しさを引きずって、ではない。堂々と、人を食うような読み切りをもって現れたのだ。

タイトルは「スライダー」。

淡々とした日常性のトーンは相変わらずである。そこには、彩られた華やかさとは無縁のむきだし感があり、裕福さのかけらもないギリギリ感があり、しかも、目に見えるスリルもサスペンスもないのである。…いや、それっぽい場面も今回あるにはあるが、手に汗握るというより間抜けで滑稽な展開の仕方をする。主人公の男は無職であり、子供にどやされるような男であり、しかもちょっと天然の気があったりする。そんな男のところに、似つかわしくも貧乏神が転がり込んで来るというのだから、ほとんど悪意である。

でも、その悪意にこそ、2年の時の流れが凝縮されているのだ。多分。

唯一の前作『アンダーカレント』にて、その日常感覚はほぼ完成されていた。何でもない日常。よく知っている、いや、知っているはずの人々、風景。そのすべては、無根拠な信頼を礎として成り立っている。そんななか、僅かな「まちがい(エラー)」が訪れた。蟻の一穴のような出来事。それはやがて、足許の虚無を仄めかしつつ、じわじわと、信頼していたあたりまえの生活世界を浸食してゆくだろう。そして物語は終末に到る。そこには衝撃も驚嘆もない。知っていたはずの結末。知っていたはずなのに、目を背け続けてきた結末。そのすべては、さりげなく静かにやってくるのだ。残されたのは、ぽっかりと大口を開いた虚無、ただそれだけ。

要するに、自分は何も知らなかった。そのことが、かなえを追い詰める。過日引用した内田有紀のコメントでも言われていたが、斯様に、僕たちの歩く道の途上には、自分には何もないこと、何も知らないのだということをどうしようもなく突きつけられる瞬間というのがある。その瞬間は、センセーショナルなかたちで訪れるとは限らない。希にそういう場合もあるだろうが、大概はさりげなく、静かに、致命的な傷を開いてゆくのである。

その、静かな足跡を、そのままむきだしで記録すること。豊田徹也が選択したのはこちらの道だった。こちらの道は、当然、作劇術としては非常に険しい道である。松尾スズキですらそうしたように、象徴的な平面に押し込めて、センセーショナルに描く方のが余程やりやすいし、安全なのだ。そうすれば、作者の実存は虚無にたいして適切な距離を保つことができる。しかし、豊田徹也はそうしなかった。正面衝突したのだ。

そして、2年の月日が流れた。

あきらめかけていた僕たちの前に投じられた一球は変化球だった。愚直に直球ばかり投げていた投手が故障明けの一球目に岩瀬仁紀ばりのスライダーを放ってきたら、普通なら面食らうところだ。ところが、今回の「スライダー」は、そういう違和感を全く感じさせなかった。それは、淡々とした作風や筆致が相変わらずだったということもあるだろうが、それ以前に、僕らは彼が変化球を投げられることを知っていたのかもしれない。そういえば、『アンダーカレント』でも、助平なサブじいの存在感は際立っていたし、うさんくさい探偵のバカらしさにもとても愛嬌があった。ただ、笑いが周縁に留まっていたのだ。

今回は、笑いが中心に向かっている。つまり、主人公のコーヘイを結節点としてネットワークされる人々、そのすべてが哄笑の標的となるように出来ているのだ。要するに、自分自身の実存を笑い飛ばすヒューモアが表れているのである。

たまたま福の神を手中にしたバカ社長は興隆の果てに壮絶な没落を遂げたが、彼に貧乏神を突きつけたコーヘイは別に金持ちになるでもなく、相変わらず調子こきすぎて小学生に怒鳴られる日々を過ごしている。まことに人生どーしようもない。しかし、このどーしようもなさが愛すべきものに見えてしまうのが、作者の高度な技量に眩惑されてのことではないはずだということは、無根拠ながら信頼しておくとしよう。(了)
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